リズベットがナイトレイ子爵家の屋敷に着いたのは、ちょうど日が沈んだ頃だった。
義両親はリズベットの突然の帰宅に驚きつつも、久しぶりの再会を大いに喜んでくれた。そして、急にクビになってしまったことを話すと、二人は優しく励ましてくれた。
「半年間お疲れ様、リズ。きっとレオナルド殿下の回復が順調だったから、早めにお役目が終わっただけさ」
「よく頑張ったわね。無事に帰ってきてくれて嬉しいわ。二人だけだと、この屋敷は広くて寂しいと思っていたの。さあ、ちょうど夕食の時間だから、一緒に食べましょう」
そうしてリズベットは、久々に義両親との食事を楽しんだ。
リズベットには義理の兄と姉がいるが、義兄は王城務めで、義姉は結婚で既に家を出ている。だから、食卓を囲うのも三人だけだ。
リズベットは夕食後、寝支度を済ませてから、自分の部屋で机に向かって書き物をしていた。
「何やってんの?」
不意に後ろから声をかけられ、ドクンと心臓が飛び跳ねる。集中していたので、全く気がつかなかった。
「びっ……くりしたあ……! 急に現れないでっていつも言ってるでしょ、グレイ!」
彼はこうして突然姿を見せることがある。心臓に悪いのでやめてと再三言っているのだが、全く聞く耳を持たないので困ったものだ。
ちなみに、グレイもリズベットとともにこの家に拾われた身で、自室も与えられている。だが、彼が自室にいることは滅多にない。実を言うと、リズベットも彼がいつどこで何をしているのか、あまり良く知らないのだ。
「お前が鈍感すぎなだけ。で、何やってんの?」
グレイはそう言うと、後ろから手元を覗き込んできた。
「レオナルド殿下のカルテをまとめているの。ちゃんと引き継ぎできなかったのが、少し心配で。明日、あの黒縁眼鏡の医者に郵送で送りつけてやろうかと思ってるの」
「健気だねえ。ああ、なるほど。王子殿下に惚れたか」
「違う」
リズベットはグレイの勘違いを即座に否定し、彼の頭にチョップを食らわしてやった。
「いてっ。まあ、でも、俺はいいと思うけどな、あの王子サマ」
「……明日は雪でも降るのかしら? グレイが男性を薦めてくるなんて初めてじゃない? いつも難癖ばっかりつけるくせに」
既に十八歳のリズベットがまだ結婚していないのには理由がある。これまでいくつかの縁談を持ちかけられたことはあったのだが、毎度この男が裏で妨害するせいで、全て白紙になってしまったからだ。
地位が低い。
財力が足りない。
挙句の果てには、俺より強い奴じゃないとダメとか言ってくる始末。
リズベットも早くどこか適当な家に嫁いで義両親を安心させたいのだが、この男のおかげで婚期を逃し続けているというわけだ。
そんな過保護すぎるこの護衛が男を薦めてくるなんて、本当に珍しい。
「地位も権力もある。金も持ってる。強いし、おまけに顔もいい。結婚相手としてはこれ以上ないだろ」
「レオナルド殿下は私にとってただの患者よ。そもそも殿下、婚約者いるし」
リズベットが適当にあしらうと、グレイは真顔でとんでもない発言をしてくる。
「あの男がもし王太子の座を降りたら、婚約者はいなくなる」
「こら! 滅多なこと言わないの!」
リズベットはすぐさまグレイを窘めた。
しかし、彼の言うことは間違ってはいない。
レオナルドには、一つ年下の弟ミケルがいる。もしレオナルドの代わりにミケルが王太子になれば、レオナルドと大聖女マイアとの婚約は解消され、ミケルとマイアが婚約し直すことになるのだ。
魔力暴走を起こし、多くの自国民の命を奪ったレオナルドを王太子から降ろすべきだという世論が優勢になっている今、ありえない話ではなかった。
「とにかく、婚約者がいる人に恋愛感情を抱いたりはしないから。はい、この話終わり!」
リズベットが無理やり話を切り上げると、グレイはこちらの目をじっと見つめて言った。
「リズ。大聖女には関わるなよ」
その表情と声が思った以上に真剣で、少しドキリとしてしまう。
しかし、言われるまでもなく大聖女と関わる気など微塵もなかった。初対面でああも嫌われていたのだ。近づいて良いことなど何もないだろう。
「自分から面倒事に首を突っ込んだりしないわよ」
「ならいい」
グレイはそう言うと、本棚から適当な本を一冊抜き取って寝台にごろりと横たわり、そのまま読書を始めた。
もちろんその寝台はリズベットがこれから寝る場所なのだが、幼い頃はよく二人で寝ていたこともあり、もはやお互い何も気にしていない。彼がこの部屋にいる時は、いつもこんな感じで自由に過ごしているのだ。
しばらくしてカルテの記入を終えたリズベットは、だらりと寝そべっているグレイに話しかけた。
「ねえ、グレイっていつまで私の護衛を続けるつもりなの?」
問われた本人はこちらに顔を向けることなく、読書を続けながら答えてくる。
「んー? 俺が大丈夫だと判断するまで」
「もう大丈夫よ。あの事件から、もう十三年も経つのよ?」
十三年前のあの事件。
エインズリー侯爵家惨殺事件と聞いて、知らない者はいないだろう。それほどまでに、あれは凄惨な事件だった。