「グレイ!!」
リズベットが安堵と喜びの混じった声で名を叫ぶと、グレイと呼ばれた青年は呆れたような視線をこちらに向けた。
彼――グレイ・ギルフォードは、リズベットが幼少の頃から護衛をしてくれている、七つ上の従者だ。
癖のある柔らかい黒髪に、全てを飲み込むような漆黒の瞳を持ち、左目の下に泣きぼくろがあるのが特徴的。
長身だが、その背がピンと伸びているところはあまり見たことがない。いつも気だるげで、本来大きいはずの瞳は常に半開き。下がった目尻も相まって、なんとなくいつも眠そうな印象だ。
とても整った容姿をしているのにもったいないと、リズベットは常日頃思っている。
「何だ? てめえは」
「女を置いてさっさと失せな!」
男たちに絡まれたグレイは、にっこりと笑みを浮かべた。
「ただの雇われに用はない。尻尾巻いて逃げ出すなら見逃すけど、どうする?」
完全なる煽り文句に、リズベットは頭を抱えた。そして、無駄だとは思いつつ男たちに助言する。
「あの、悪いことは言わないので、逃げたほうが……」
もちろんそんな言葉が届くはずもなく、チンピラ一同は怒り狂って次々に武器を取り出した。
「ナメやがって……!」
「痛い目見せてやる!」
「やっちまえ!!」
男たちが一斉にグレイに襲いかかるも、彼らが地面に突っ伏すまではほんの一瞬だった。グレイは武器も使わず、素早い身のこなしで全員をボコボコにしていったのだ。
(うわあ……相変わらず容赦ないわね……)
リズベットは彼より強い人間を知らない。一対一でなら、英雄レオナルドよりも強いのではないかと本気で思っているくらいだ。
相手が魔法を使おうが、グレイは攻撃が届くよりも前に相手を倒す。そもそも魔法を使う隙を与えない。とにかく目で追えないほど速いのだ、この男は。
こんなチンピラを制圧するなど、彼にとっては赤子の手をひねるより容易いだろう。
グレイは全員を片付けると、手をパンパンと叩き、満足げに笑っていた。
「うん。正当防衛、正当防衛」
実力差を測れなかった哀れなチンピラたちは、見事に全員伸びている。幸い、治療が必要なほど大怪我をしている人はいなさそうだ。流石のグレイも手加減したらしい。
すると、グレイがこちらに近づきながら尋ねてくる。
「リズ、怪我は?」
「大丈夫! ありがとう、助かったわ。それにしても何だったのかしら、この人たち」
「さあ。ただの嫌がらせかなんかじゃない?」
グレイはすでにチンピラたちへの興味を失ったようで、適当に答えてから地面に散らばった荷物を拾い集めていた。リズベットもそれ以上は考えることをやめ、彼と一緒に荷物を拾い始める。
グレイが器用に荷物を避けて戦ってくれたおかげで、鞄の中身はカルテ含めて全て無事だった。彼は意外とこういう細かい気遣いができる人なのである。
「ありがとね」
「何が」
「ふふっ。別に」
「何だよ、気持ちわりい」
彼が自分の気遣いや優しさを恩着せがましく言ってくることは絶対にない。こちらが指摘しても機嫌が悪くなるだけなので、今は礼だけ伝えておくことにした。
しかし、荷物をすべて拾い終わったところで、ふと疑問が生じた。半年前までグレイといるのが当たり前だったので、全く違和感に気がつかなかった。
「……ねえ、グレイ。どうしてここにいるの?」
「なんでって、俺、お前の護衛だし。居て当然だろ?」
あっけらかんと答えるグレイに、嫌な予感がモクモクと湧いてくる。
「……いつからいたの? まさか、私が屋敷に来た時からずっといたんじゃないでしょうね……?」
「そうに決まってんだろ。じゃないとお前を守れない」
「ついて来ないでって言ったでしょう!!」
半年前、ナイトレイ子爵家を出立する前日、リズベットはこの男に「ついてくるな」と散々釘を刺しておいた。ただの子爵家の令嬢にこんな腕利きの護衛がついていたら、明らかにおかしいと思われるからだ。もし刺客だと思われでもしたら、たまったものではない。
(それなのに、この男は……!)
リズベットが怒りに打ち震えていると、グレイは全く気にする様子もなく言い返してくる。
「了承した覚えはない」
一欠片も反省の色が見えないグレイに、リズベットは大きく溜息をついた。これ以上何を言っても無駄だろうと思い、最低限の確認だけしておく。
「屋敷の人たちにバレてないでしょうね?」
彼は護衛としての戦闘能力が高いだけでなく、諜報の方面にも長けている。そのため、気配を消すのはお手の物なのだ。彼が屋敷の人間に気取られるなんてヘマをするとは思えないので、確認は念の為である。
しかしグレイは、満面の笑みを浮かべながらこう答えた。
「大丈夫、大丈夫。王子殿下には挨拶済みだ。いやあ、すごいなあいつ。少し気ぃ抜いてたとはいえ、気配を感づかれたのは初めてだったわ。流石は英雄」
「このお馬鹿! 全然大丈夫じゃないわよ!」
リズベットは焦った。
一体いつバレたのだろうか。怪しいと思われていないだろうか。刺客だと疑われて捕らえられたりしないだろうか。
そんな不安が頭を駆け巡った後、ふとある考えに辿り着いた。
「……まさか私がクビになったのって、グレイのせいだったりする!?」
「それは違う。王子殿下に挨拶したの、かなり前だし」
「本当……?」
グレイを見上げて訝しげな視線をじっと送ると、彼も「本当」と言ってこちらをじっと見下ろしてくる。その目を見る限り、どうやら嘘はついていなさそうだ。
リズベットはひとつ息を吐いてから表情を緩めた。
「まあいいわ。過ぎたことをとやかく言っても仕方ないし。とりあえず、助けてくれてありがとね」
「いーえ」
グレイはあくびをしながら間の抜けた返事をしていた。相変わらず眠そうだ。リズベットは、そんな彼の黒髪に手を伸ばす。
「ねえ、また前髪伸びたんじゃない? 切らないの? 前、見にくくない?」
「切らない。見にくくない。黒目は目立つと面倒なんだよ」
グレイはリズベットの手を鬱陶しそうに払い除けながら、ぷいと顔を
黒い瞳。魔力無しの証。無能の象徴。
黒い瞳を持つ者は非常に稀で、何かと因縁を付けられることも多い。そのため、グレイは普段から目を隠すことが多かった。
しかしリズベットは、闇夜のごとく全てを覆い隠してくれるようなその瞳の色が好きだった。
「えー? 綺麗なのに。もったいない」
「そんなこと言う物好きはお前くらいだよ」
グレイは呆れ顔でそう返してくるも、ほんのわずかに照れている様子だった。真っ黒な大型犬のようなこの男は、性格は猫に似ていて全く素直ではない。
リズベットはそんなグレイの反応が可笑しくて、思わず笑みを漏らした。こうやって彼と話すのも随分と久しぶりだ。
「ねえ、グレイ。せっかくだし、このまま一緒に帰りましょ」
「嫌」
「どうして?」
「俺といると目立つ」
グレイは基本的に影の中で生きている。昼間に堂々と街に出ることはないし、リズベットと話すのも常に家の中だ。
リズベットが外に出る時は、影からひっそりと、誰にも気づかれることなく護衛する。リズベットでさえも、彼がどこから見守ってくれているのかわからない。
黒い瞳であるが故なのだろうが、それがとても寂しくて、悲しい。
「家に着くまで、この丘を下りてから馬車で三時間以上もかかるのよ? 話し相手がいなかったら暇すぎるわ!」
「わがまま言うな。ほら、行った行った」
最後の懇願も虚しく、リズベットはグレイに体をくるりと回転させられ、そのまま背中をトンと押されてしまった。
「あ、ちょっと!」
振り返ったときには、すでにグレイの姿はどこにも見当たらなかった。一度気配を消されたら最後、絶対に彼を見つけることはできない。
「もう……グレイのケチ!」
返事がもらえないとわかりつつも、リズベットはどこかで聞いているであろうグレイに文句をぶつけるのだった。