大聖女マイアが屋敷を訪ねてきてから、数日後のことである。
この日、屋敷ではリズベットとキーツが留守番をしていた。
レオナルドは国王に呼び出された関係で、昨日から屋敷を空けているのだ。エイデンも彼の付き添いで不在なので、その間、リズベットはエイデンの代わりに掃除や洗濯などをしていた。
「嬢ちゃん、買い出し行ってくるわ! 明日にはレオ坊たちが帰ってくるし、いろいろ買い込むつもりだから、ちと遅くなると思う!」
「はーい! お気をつけて!」
キーツを見送ってから掃除をしていると、程なくして一人の男が屋敷を訪ねてきた。髪をかっちりとまとめ、黒縁の眼鏡をかけた真面目そうな人物だ。
「ナイトレイ子爵家のリズベット様でございますね?」
男に開口一番そう言われ、リズベットは思わず身構えた。
てっきり用があるのはレオナルドか使用人二人のいずれかだと思っていたので、一体何事かと困惑してしまう。
「はい、そうですが……」
恐る恐る答えると、男は表情ひとつ崩さず、淡々とこう告げた。
「本日から私がレオナルド殿下の専属医を担当することになりましたので、リズベット様はどうぞご実家にお帰りください」
「…………はい?」
まさかの内容に、リズベットはしばらくその場で固まってしまった。
担当の変更なんて初耳だ。レオナルドも何も言っていなかった。それなのに突然どうして。
(なにか、不興を買うようなことをしてしまったのかしら……?)
そんな考えが頭をよぎった時、男が一枚の紙を差し出してきた。
「国王陛下からの任命書もこちらに」
目の前に提示された紙に目を通すと、そこには確かにリズベットの代わりにこの男がレオナルドの専属医になる旨が記載されていた。しっかり国王の署名もあり、紛れもなく本物だ。
「そういうわけですので、荷物をまとめてさっさと出て行ってください。さあ、早く」
「え? あ、ちょっと!?」
リズベットは男に急かされるように背を押され、自室の荷物を半ば無理やり片付けさせられた。そして荷造りが終わると、さっさと屋敷から追い出されてしまったのだ。
「あの、せめて引き継ぎを」
「不要です。それでは」
最後に食い下がったものの、無情にもバタンと扉が閉められた。
「ええ……」
あまりにも急な出来事で、まだ頭が追いつかない。しかし、屋敷からひとり放り出されたことで、自分がクビになったことを嫌でも理解させられた。
「せめて、お別れの挨拶くらいしたかったわね……」
クビにするにしても、レオナルドはどうして事前に何も言ってくれなかったのだろうか。別れの挨拶もしたくないほど嫌われていたとしたら、かなりショックだ。
リズベットは思わず両手で顔を覆って嘆いた。
「あー、どこがいけなかったのかしら。結構うまくやれてると思ってたのに……」
レオナルドの経過は順調だったはずだ。生きる気力を取り戻し、食事も自分で取れるようになった。あとは魔法を再び使える状態にするために、これから彼の調子を見つつ訓練を始めるつもりだった。
それなのに、なぜこのタイミングで担当が変わったのか。
考えても考えても、一向に答えは出ない。リズベットは嘆くことをやめ、顔を上げた。
「やめやめ。決まったことなんだから、ここでうだうだ考えても仕方ない」
そうしてリズベットは、街に向かって丘を下りていった。ここからナイトレイ子爵家までは遠いが、街で馬車を拾えば夜までには家に着けるだろう。
すると、街まであと半分というところで、男の集団に出くわした。見るからにガラの悪そうなチンピラたちだ。
「よう、嬢ちゃん。こんなところで一人かい?」
「ちょっと遊ぼうや」
この道は普段、人の往来がほとんどない。丘を登っても王家の別邸しかないからだ。それなのに、こんなところに大勢の男がいるのはおかしかった。
(目当ては私か、それとも屋敷か)
どちらにしろ面倒だ。これ以上絡まれたら、街まで走って助けを呼ぶほかないだろう。体力が保つだろうか。
「急いでますので」
チンピラたちを適当にあしらいそのまま道を進もうとするも、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる男に手首を掴まれてしまった。しかしリズベットは、体に染み付いている護身術を使っていとも簡単に男の手を
「このアマ!」
「待ちやがれっ!」
男たちは鼻息荒く追いかけてくる。
リズベットの足はそこそこ速いので、しばらくの間は男たちと距離を保てていた。しかし残念ながら、街まで走り切るには体力が足りなかった。
リズベットの体力が尽きていくにつれ、男たちとの距離が次第に縮まっていく。
そしてとうとう、男の一人に追いつかれてしまった。
その男はリズベットの腕を掴もうと手を伸ばしてくる。咄嗟に避けるも鞄を掴まれ、そのせいで中身のほとんどが地面に落ちてしまった。散らばった荷物の中には、これまで記録し続けてきたレオナルドのカルテも含まれている。
「あっ!」
反射的に振り返って立ち止まったときには、すでに男がこちらに向かって殴りかかろうとしているところだった。
(まずい……!)
今からどう動いても避けられそうにない。
リズベットが痛みを覚悟して身構えた次の瞬間、目の前の男が鈍いうめき声を上げて倒れた。そして同時に、聞き慣れた気だるげな声が耳に届く。
「おい、リズ。荷物なんかに気ぃ取られてんじゃねえよ、全く」
現れたのは、リズベットがこの世で最も頼りにしている男だった。