魔女の家が近所にあった少年時代だった。
こんなことを言うと馬鹿にする輩がいるかもしれない、特に
私の生まれは街から近いところにある農村で、魔女はその近くの森に家を建てて住んでいた。
「少年、今日も懲りずに来たね?」
いつもニヤニヤしながら出迎えてくる、赤い瞳が特徴的な銀髪の女性が、幼き頃の私の良き友であり、良き教師であった。
「はい! お師匠!」
私は彼女を「お師匠」と呼んでいた。いつそう呼ぶようになったのかは覚えていない。
「いい返事だ、じゃあ今日はこの魔法陣に、この石を置いてごらん」
お師匠は魔法陣を指さしながら、こぶしほどの大きさの石を私に渡す。
地面に枝を使って書いたような魔法陣を見ながら、魔女から受け取った石を投げ入れる。
——何が起こるのだろうか、お師匠は何を見せてくれるのか、毎日が楽しみで仕方がなかった。
たちまち石は白い煙を発し、そして白い光を放ち始める。
「おぉ……」
「フフン!すごいだろ?これが魔女様の力だ!」
えっへんと、毎度のごとくドヤ顔を披露するお師匠。
「すごいです!」
煙は徐々に黒色が混ざってきて、光っている石は赤色に変色し始めた。
…………
「……お師匠」
「……なに?」
「煙の量、多過ぎませんか」
「奇遇だね少年、私もそう思っていたところだ」
石から放出される煙は徐々にその強さを増している。そもそもこの石は何でできているのだろうか。
「これ、大丈夫なやつですか?」
「……私は大丈夫な方に銅貨二枚賭けようかな」
「本当に大丈夫なんですよね!?ねえ?ちょっ──」
言い終わる前に部屋が閃光に包まれた。
「……ほらね」
お師匠は両手を広げてニヤッと笑う。光に包まれただけで特段なにも変化はない。煙もいつの間にか消えている。
「いや、『ほらね』じゃなくて!!……危ないでしょ!」
彼女いう「魔法」とはいつも危なっかしいもので、毎度のごとく行きた心地がしなかった。
ある時は断崖絶壁から飛ぼうとしたり、ある時は猛獣と戦おうとしていた。よく自分は生き残れたと思う。
そんな危なっかしい事をずっとしている人でも、なんやかんやお師匠のやることなすこと全てに期待して、私は彼女のようになりたいと強く願った。今でもあの銀髪と紅い瞳は私の心を掴んで離さない。
そのときは魔女が魔術を見せてくれていると、本当に思ったのだ。
しかし、近代という時代に生まれた私は、お師匠のような「魔術」が「空想」に過ぎないことを知った。近代の科学への転化は、魔女を「非科学」と決めつけ、民主化は「魔女」という怪しい存在を殺した、「魔女狩り」によって。
いつの間にか、お師匠とも会うことがなくなり、つまらない大人になった。面白い大人というのはあの魔女のことを指すのだろう。残念ながら私はそれになれなかったのだ。
「……ニューコメン教授?ちゃんと聞いていますか?」
いつの間にか白昼夢、というか昔の思い出を夢見ていたようで、生徒の指摘で意識が現実世界に戻って来る。ニューコメン教授とは、私、ニューコメン・カワバタのことである。年齢が教授と呼ばれるには若く、一般的な男性と比べても若干細身であるため、そこら辺の学生と間違われる事があることが、ここ最近のコンプレックスだ。
彼女の声で、意識が現実に引き戻される。視界に映るのは、銀色の長い髪、翡翠色の瞳の女子生徒。吊り目気味なその瞳は彼女の美人さを増している。研究室には消毒の匂いが漂い、彼女からは仄かに柑橘系の香りがする。遠くで、夕方を告げる教会の鐘が鳴っている。
「……あ、ああ。東洋の方で流行っている脚気のことだっけ」
私が聞いていないと思っていたのか、話題を覚えていた私を見て、彼女──フローレンス・オガタは一瞬目を見開いてから、そのまま平然と話を続ける。
「そうです。極東の皇国という国では『脚気菌』の細菌説が濃厚らしいのですが」
「『脚気菌』ねえ……」
手元の脚気に関する資料を見ながら、その言葉を反芻する。脚気の定義とはこうである。『脚気とは、全身の倦怠感、食欲不振、手足のしびれ、足のむくみなどが症状として出る病気であり、現在は東洋のみでしか流行していない』
これに対して、東洋の研究者——リンタロウ・モリは「脚気菌」を発見したと報告しているが、詳細な情報は分かっていない。
つまり、これを刑事事件っぽくするならこうだ。
——ある日、東洋では『脚気』と呼ばれる共通の症状が表れる被害者が出現した。東洋のリンタロウ・モリが犯人だと推理したのは『脚気菌』と呼ばれる謎の新種の菌であった。
ということになる。事件には犯人だと断定できる「証拠」と「犯人その人」が必要だ。ここでリンタロウ・モリの説を見直してみよう。犯人と断定できる証拠は十分と言えず、ましてや犯人も見つかっているか怪しい。クロを否定しているのにもかかわらず、シロの断定すらできていないのだから、流石に無理があるのではと思う。
「……私も『脚気菌』は考えられないと思うよ。あまりにデータが足りないし、『東洋だけで流行している』というのが何か引っ掛かる」
元々、フローレンスが「『脚気菌』は存在するとは思えない」と主張して持ち出した話なので、私もそれに乗ることにした。
「や……」
「や?」
「やはりそうですよね!」
目を輝かせながら応えるフローレンス。軍事パレードを見送る少年のようなキラキラとした眼差しである。顔をぐいっと近づけられる。反射的に体が仰け反る。柑橘の香りが少し強くなる。
「実は、第二帝国で研究している、シバサブロー・キタサト氏が『細菌によるものであると証明できていない』と【コッホの原則】を基に批判したんですよ! それに、特に脚気が流行してたのは皇国の軍隊。だけど、海軍では食事の内容を変えたら、脚気は一瞬で消えたんです! 脚気が東洋だけに見られるのも、栄養失調の原因である、米主体の食事が原因なのではと言われているんです!つまり、細菌じゃなくて栄養失調! さすが教授、よくわかりましたね!」
早口で捲し立てるフローレンスを制止して、一度問いただす。
「え、ちょっと待って、既に解決しているの?」
最初、フローレンスは「あたかも解決していない問題」かのように私に質問してきたのだ。研究のテーマにしようと思ったが西洋に位置する王国では、研究例が少ないとして、私を頼ってきたという事情だった。
……薄々思っていたが、フローレンスは時折、私を試している気がする。まあ、彼女以外の大学の人間は
「ええ、教授なら自力で回答を出せると思っていました」
「それほどでもないよ。……そういえば、さっき言ってた【コッホの原則】って何だっけ」
生憎、私は彼女のようにそこまで記憶力が優れているわけではない。もしかしたら初耳の言葉かもしれない。私、王立大学の教授なのに。こんな人間でも王立大学で自然科学全般を教えられるのだから不思議だ。人事部の目は濁っているのではないか。
「コッホの原則は細菌によって病気が発生しているか確かめる4つの条件のことです」
白衣からメガネを取り出し、スチャっとかける。……あ、これ長くなるやつだ。
「コッホの原則とは、第二帝国のロベルト・コッホ氏が提唱した、細菌と病気の因果関係を証明するための原則なっていて……」
フローレンスは机に置いてあった、クッキーとチョコチップクッキーが入った皿を手に取る。おやつが取られた。
「まず、特定の病気に対して、特定の細菌が見つかること」
クッキーの山から、チョコチップクッキーだけ取り出される。
「そして、その細菌を分離できること」
チョコチップクッキーからチョコが取り出される。ああ、なんて無惨な。
「次にその細菌を別の動物に移して、同じ病気が起こること」
チョコが普通のクッキーにねじ込まれる。フローレンスはクッキーに何か恨みでも
あるのだろうか。
「最後に、その動物から細菌を分離できること」
ねじ込まれたチョコがクッキーから再び取り出される。そしてフローレンスはクッキーとチョコを口に入れる。
「なるほど、教えてくれてありがとう」
非常にわかりやすい説明であった。……教授である私よりわかりやすいのではないか。あれ、私教授向いていないのでは?まあ今に始まったことではないか。
「……いえいえ、むしろ教授のお役に立てて何よりです。それに、人間ですから忘れることは常ですよ。それでは失礼いたします」
なぜかフローレンスが勝ち誇った顔をしながら退出していった。……結局彼女は何をするために私のところへ来たのだろうか。
扉を締めてから、小さく拳を握りしめる。
(まさかあのニューコメン教授が「コッホの原則」を知らないとは。そしてあまつさえ私に知識を乞うとは、今回の勝負、私の勝ち!)
フローレンス・オガタはニューコメン・カワバタを熱心敬う一方で、ライバル視していた。年齢が近いながらも、教授と生徒、というその差が彼女は少々不服であった。なのでたまに意味もなく教授の下を訪れてはそれとなく知識勝負をしている。知識の記憶は彼女の得意分野であった。しかし、ニューコメン・カワバタはそれに対抗するレベルでの「発想力」を持っていた。噂では王立大学の入学試験も発想力だけで乗り切ったとか。なので結構良い勝負になっていた。
彼女は、負ければ尊敬する教授への尊敬を強め、勝てばライバル心がより一層対抗心を燃やすということを繰り返していた。(ちなみに、本人は知識勝負を仕掛けられていることに気づいていない)
そういうわけで事あるごとに教授と絡むようになった。
「明日はどういう質問しようかな」
彼女の廊下を歩く足取りは軽くなっている。