馬に揺れること
軒先一つ一つに竹簾がかかり、連なる日陰の下を通るように、人々が行き交っている。この果てしない町並みは一体、どこまで続いているのだろう。蘭瑛は不覚にも好奇心をくすぐられた。
宋長安の二人は馬の手綱を緩め、宮廷へと繋がる緩やかな坂道を、ゆっくりと進んでいく。
父親を打首の刑にした先帝の
蘭瑛の目は、段々と虚ろになっていく。
すると、今まで口を開かなかった後ろの美人が、突然言葉を発した。
「宋長安は初めてか?」
「あ、はい…。今まで来る機会がなかったので」
過去の尾を引いているせいもあるが、宋長安は新安よりも流医が溢れており、当然ながら今まで一度も、宋長安から依頼が来たことはない。六華鳳宗は、色んな意味で管轄外だ。
ふと、蘭瑛は疑問に思った。
宋長安には宮廷専属の御用医家はいないのだろうか?と。
普通、宮廷に一人は御医と呼ばれる医家がいるはずなのだが…。
蘭瑛は後ろの美人に、恐る恐る尋ねてみる。
「あ、あの…。宋長安には御用医家はいらっしゃらないのですか?」
永憐は、少し間を置いて答える。
「いない訳ではないが、色々と信用できない」
(信用できない…)
蘭瑛は心の中で呟いた。
なるほど。宮廷の中に、毒を盛れと言われたら毒を盛るような、不届き者の流医がいるという訳か。
あまり余計なことを尋ねない方がいいと思い、蘭瑛は目線を馬の頭に向ける。すると、その斜め後ろで手綱を引く、指先の長い永憐の右手が目に入った。
新安で手当てしたことを思い出し、蘭瑛は後ろまで聞こえるように首を横にして、ぎこちなく美人の名を呼んだ。
「あ、あの…。ワ…、
「
蘭瑛は少し戸惑うが、すぐに言い換えて続ける。
「…永憐様。手は大丈夫でしたか?」
「……」
聞こえなかったのだろうか。
蘭瑛がもう一度首を横に向けると、「大丈夫だ」と少し濁したような、素っ気ない返事が返ってきた。
蘭瑛はその返事が気になり、もう一度問う。
「本当に、何もなかったですか?」
「ない」
「……」
またしばらく沈黙が続く。
やはり、この男の側では生きた心地がしない。
この淡白な様子といい、何とも言えない威圧感といい、誰も近寄らせまいと言わんばかりに、寒風の結界を張られているみたいだ。恋愛に疎い蘭瑛は、女子たちがこの男と結婚したいと思う理由が、ますます分からなくなった。
そうこうしているうちに、三人は豪華な殿門の前に辿り着いた。どうやらここからは、馬を降りて歩いていくようだ。
蘭瑛は、差し出された永憐の手を持って馬から降りる。
久しぶりに馬に跨ったせいか、臀部が酷く痛んだ。
蘭瑛は軽く臀部をさすりながら、永憐の後ろに続く。
宋長安の宮廷の中は、一つ一つ宮殿の敷地が区切られている。気性の激しい妃同士の揉め事が起きないよう、配慮されているらしい。それぞれの門の前には、妃の好む色なのだろうか。それぞれの色がついた魔除けの灯籠が置かれている。
蘭瑛は永憐に連れていかれるまま、気の遠くなるような石畳の階段を登り始めた。
木々の隙間から見える景色が、華山の中腹から見える景色に似ていることに気づく。
(はぁ…叔父上。何で私をこんな所に送ったのよ)
蘭瑛は落胆しながら慣れない階段を登り切る。
すると、壮大な景色が広がる高台に、これまた豪勢な宮殿が聳え立っているのが見えた。
「あそこだ」
「…は、はい」
永憐と
蘭瑛はというと、今にでも倒れ込みそうなほど、息も絶え絶えだ。
蘭瑛は「ふー」と呼吸を整え、敷地内にいる数名の護衛たちに頭を下げながら、開かれた扉の奥へと進んでいく。
その途中で、眉間を寄せるほどの強い香油の香りが、部屋中を漂っていることに気づいた。そのまた奥の部屋の扉が開くと、そこには皇太子殿下・
蘭瑛は恐る恐る近づき、賢耀の前で拱手をする。
「永憐様と一緒に参りました、六華鳳宗の市医・蘭瑛と申します」
虚ろな目した少年は小さく頷いた。
意識はちゃんとあるようだ。蘭瑛は続ける。
「少し、空気を入れ替えたいと思います。窓を開けてもよろしいですか?あと、その枕元にあるお香も、今は消しましょう」
「そ、それは…」
何か意図でもあるかのように、後ろから蘭瑛の言葉に答える者がいた。宋長安の医局で働いているという、中年の
何かを隠しているかのように、目を泳がせている。
「何か問題でもあるのですか?」
蘭瑛は疑いを胸の中に隠し、笑顔で尋ねた。
すると「あまり勝手なことをされない方が…」と言って、晩栄は俯く。永憐は、晩栄を凍てつくような目で一瞥しながら「構わん」と言った。
蘭瑛は窓を開け、今にでも気を失いそうな賢耀に近づく。
詳しい経緯を宇辰から聞きながら、蘭瑛は賢耀の経脈を測ったり、手足の動きなどを診た。
蘭瑛は、賢耀の額に二本の指を当て、寛解の術を施す。
すると、賢耀の虚ろだった目がしっかり開くようになった。
(これは…)
蘭瑛は晩栄に尋ねる。
「皇太子殿下が服用している薬を渡していただけませんか?」
「えっ…。あ、いや…その、はい…」
晩栄は手を震わせながら、恐る恐る白い薄紙に折り畳まれた粉薬を蘭瑛に渡した。それを受け取った蘭瑛は、持ってきた六華葯箱から液体の入った透明な瓶を取り出し、瓶の中にその粉薬を混ぜ入れた。
「これは何だ?」
永憐が蘭瑛に近づき、尋ねた。
蘭瑛は永憐の前にサッと、瓶を差し出す。
「毒か確認してます。鮮やかな青色に変色すれば毒薬。色が変わらなければ良薬です。流医の中には毒を売る不届き者もいるので、六華鳳宗では必ず確認しています」
説明をしているうちに、瓶の液体は鮮やかな青色に変色した。
(やっぱりなぁ。この虚ろな目と神経系麻痺は、毒薬によるもので間違いない…。だいぶ前から継続的に飲まされていたんだろうな)
蘭瑛は永憐に、今回の賢耀の病は毒薬による中毒症であることを詳しく話す。新しく薬を調薬し、薬膳料理の指導もして良いか尋ねた。
賢耀は落ち着いたように眠っている。
永憐はその横で、賢耀の寝顔を見ながら「全て任せる」と言った。
すると、晩栄が慌てた様子で声を荒げる。
「わ、私は何もしていませんよ…。ただ渡された薬を、ここに運んだだけで…」
「毒だと分かっていて、ここに運んでいたのでは?」
蘭瑛は、片方の眉を跳ね上げて尋ねる。
晩栄の額からは冷や汗が溢れていた。
しかし、部外者はこれ以上口出しはできない。市医として、できることはここまでだ。
(あとは、このお偉いさんがどうにかするだろう…)
蘭瑛は永憐の顔を見た後、毒薬と判断した瓶を葯箱に仕舞い、利尿作用の強い解毒剤を取り出した。
「皇太子殿下が起きられたら、こちらの解毒剤を飲んでいただきたいのですが、どうすればよろしいですか?」
蘭瑛はそう言いながら、粉薬をちらつかせる。
永憐は、胸元から紐を取り出しながら答えた。
「
「メイリン…?」
「宇辰。後は頼んだ」
「はい、永憐様。それでは蘭瑛様、私たちも参りましょう」
手首を縛った晩栄を連れて、永憐は先に部屋を出ていく。窓枠から二人の姿を見届けた後、蘭瑛たちも賢耀を護衛たちに任せ、賢耀の部屋を後にした。
来た道を戻るかのように階段を降りていると、恐怖心が急に襲い、蘭瑛はふと立ち止まった。
「あ、あの…宇辰様。あの医局の方はどうなるのですか?」
振り向いた宇辰は、安心させるかのように、物腰の柔らかい笑みを見せて微笑んだ。
「蘭瑛様が、ご心配なさることは一つもございません。あなた様が咎められることなど、天地がひっくり返ってもあり得ませんから、ご安心を。永憐様も直に戻られると思いますので、急ぎましょう」
蘭瑛は頷きながら、宇辰の柔らかい笑みと言葉に胸を撫で下ろした。
それから二人は二言三言話した後、梅林がいるという