開花という一幕を終えた桜は、緑へと色彩を移し、木々の隙間から溢れる木漏れ日が、
豪華な黄華殿の中にある小さな人工池の中で、黄色の花々が咲き乱れている。一段と上品な香りが、辺り一面を漂い、来る者の鼻腔をくすぐった。
「
口を開いたのは、永憐の横で足を崩して座っている、宋長安の皇太子・
宋長安の皇帝・
かかった雲が日差しを遮り、黄華殿の中が少し暗くなった。
そこに、明度を見計らったかのように、この上品な香りを一瞬にして自国の香油の香りに変える強者が、やってきた。
嗅覚を疑うその如何わしい香りは、妓楼の売女が客寄せに使うような、甘ったるさを秘めており、嗅ぐ者の鼻を麻痺させる。
先ほどまでの、穏やかな香りは一変し、こっそり鼻を覆う者もいれば、気分を害して外に出る者もいたり、はたまた永憐のように、微動だにしない者もいたりと、周囲は異様な空気に包まれた。
そんな周りを気にする素振りも見せず、朱源陽の皇帝・
その後ろでは、護衛の
「さて、とっとと始めようではないか」
四国会の中では最年長の為、傲慢な態度はいつものことだが、今日は遊女のような愛人も連れてきたようだ。
老人が年若い女を見て興奮しているように、朱陽帝は愛人の頭をいやらしく撫でている。
何を見せつけられているのだろうか。
下にいる者たちからは、溜息が漏れる。
朱色の衣を纏った変態な老人を一瞥しながら、賢耀は小さく口を開く。
「今日も一段と気持ち悪いな。あの狸爺い」
「賢耀殿下。言葉が過ぎますよ」
賢耀の一言に、隣にいた宇辰が優しく咎める。
普段あまり口を効かない青鸞州の皇弟・
「龍凰兄さんもそう思う?まったく、あの狸爺いは四国会を舐めて…」
「
低く透き通った声が賢耀の言葉を遮った。
声の主はというと、仏頂面のまま目を閉じて、邪念を取り払うように、心を鎮めている。
賢耀は口を一文字に結んで、正しく座り直す。
すると、ざわついていた場を締めるかのように「ゴホン」と、太々しい咳払いが、上座から聞こえてくる。
宋武帝は、辺りが静まり返ったのを見て、先日新安で起きた赤潰疫について話し始めた。
「赤潰疫が出たということは、閉山にある
この質問に関して、答える者はいないようだ。
宋武帝は辺りをゆっくり見回して、続ける。
「玄天遊鬼は疫鬼であり、最も恐れた厄鬼だ。今後も各地域で赤潰疫を撒き散らす可能性が高い。それに、ここ数日傀儡の数も異常な勢いで増加している。一刻も早く、この者を見つけ出し、滅殺しなければならない!今までの我々のやり方では、恐らくこの厄鬼を倒すことはできないだろう。今後は、四国が一丸となって、管轄地域の隔たりを無くし、情報の共有や助太刀の協力を得たいと宋長安は考える」
「私も宋長安に賛同するよ」
顎髭を撫でながら、
それに続いて
「いやぁ〜、話は分かるんだがね、役に立たない者の助太刀は要らんのだよ。例えば、そこの青の衣を纏った者たちとかね」
朱陽帝は、嗅覚だけでなく、人の気持ちを不快にさせるのも得意なようだ。
賢耀の近くに座っていた龍凰は、眉を引き攣らせ、鼻をフンと鳴らす。
そんな弟の顔を見ていた鸞氷帝が、微笑みながら口を開いた。
「朱陽帝のお役に立てていないようで、申し訳ありません。勢力を上げて努力いたしますので、ここは穏便に」
「勢力ねぇ〜。もう一人、そこにいる剣豪でも居ればいいんだが」
狸爺いは、凭れる女の髪をくるくると人差し指で絡めながら、永憐を見る。
朱陽帝にやらしい目を向けられた永憐は、すくっと立ち上がり、年長者が並ぶ上座に向かって、拱手しながら言葉を放った。
「場所によっては、剣だけでは敵わず、仙術が必要になることもあります。青鸞州の術も大いに役立ち、決して他の国に怠るなどということはありません」
頬に擦り傷が入るような冷風が、朱陽帝の頬を掠ったのだろう。朱陽帝は苦笑いを浮かべ「はは、それはそれは失敬」と、それ以上青鸞州について話さなくなった。
それから、話題は玄天遊鬼の話で持ち切りとなり、変幻自在な疫鬼をどう見つけるか、仙術の何が有効なのか、赤潰疫が起きた際、朝廷はどのようにすべきかなど、一炷香ほど議論を交わした。四国は全ての協議に合意し、桃園の義を結んだ。
議論を終えた後は、さも当然ように狸爺いは下品な遊女を連れて、各国の年長者とは会話を交わすことなく、一目散に帰っていった。護衛の端栄は、尻拭いをするかのように各国の年長者たちに頭を下げ回っている。
「あの男は可哀想な奴ね。あんな皇帝の尻拭いなんて。ねぇ、元気にしてた?
煌びやかな袍を靡かせた橙仙南の美しい美女が、手を振りながら、永憐の元に歩いてきた。
誰が見ても目を奪われてしまう程の美人で、近くにいた者たちの視線を釘付けにする。少年の賢耀はあまりの美しい容貌に、目だけじゃなく心まで奪われてしまったようだ。宇辰は相手が誰か分かっているようで、柔らかい笑みを浮かべて拱手をしている。
「何だ。新手の
永憐はその者を冷たくあしらった。
近くにいた者たちの目線は、一気に冷静沈着な永憐に向く。
「
「うん」と素っ気なく返す永憐の代わりに、宇辰が言葉を繋いだ。
「
ひらひらと袍を揺らしていた深豊は、ピタッと止まり、宇辰の肩に手を回す。
「んっもぉ〜、アンタ!よく分かってる!さすが
永憐の目尻がピクッと動く。
宇辰の優しい笑みも若干引き攣る。
「あら?もしかして…。やだ、もう死んでる?」
誰もが気まずそうに口を噤んでいるが、永憐の男根については、誰もが気になるようだ。それもそうだ。こんな、美しい男が種無しだなんて誰が疑うだろうか。しばらく沈黙が流れ、永憐は氷を割るように、冷たく言い放った。
「死んではいない」
誰もが安堵した表情になった。
「あははははっ!そりゃ良かった!宋長安はまだ滅びることはなさそうだな!おいおい、ちょっと待てよ〜」
深豊は、女から元の深豊将軍に戻り、歩き出した永憐の肩に腕を回した。若干、不届き者な一面のある深豊だが、氷瀑のような永憐が、また昔みたいに塞ぎ込んでしまうのではないかと、これでも友人ながらに気にかけているのだ。
「送るよ、外門まで」
「うん」
二人が並んで歩く姿は、なかなかの見ものである。
過去には、
深豊は、壁越しにこちらを覗いている女子たちに気付き、「やぁ」と言って手を振る。
すると『キャー!』と黄色い声援が、門の境内に響き渡った。
「相変わらずだな」
「お前がいるからだよ」
深豊は永憐の胸元を軽く叩く。
永憐は黄色い声援には答えず、一行はそのまま門を潜った。
「んじゃ、またな。天藍」
「うん、また」
深豊に見送られた永憐たちは、
無事、一行は宋長安に辿り着き、それぞれが持ち場に帰っていく。永憐と宇辰は賢耀を宮殿まで送るため、解放された大きな通りを三人で歩いた。
しばらくすると賢耀が、深豊について永憐に尋ねる。
「永憐兄様、深豊将軍とはどんな関係なの?」
「
「ってことは、深豊将軍の剣術も凄いの?」
「まぁ。なかなかの腕前だ」
深豊の剣術は、永憐も認めるほど才を成している。
永憐は昔のことを思い出したかのように、天を仰いだ。
「いいなぁ〜。僕もそういう友がいたらいいのに」
賢耀の、寂しさを滲ませた黒い瞳が揺れている。
永憐は察したように、言葉を発した。
「耀には私たちがいる」
「……」
「そうですよ。私たちがちゃんといますよ」
「……」
賢耀からの返事がない。
何か考え込んでいるのだろうか。
永憐が、尋ねるように賢耀の名を呼ぶ。
「…耀?」
「……」
すると、今の今まで元気だった賢耀が突然、勢いよく口から泡を吹き出し、自分たちの目の前で倒れ込んだ!