春陽の候。
「綺麗だなぁ〜」
何かを思い起こさせるかのように、ひらりと舞い降りてきた二枚の花弁が、蘭瑛の手のひらに乗った。
「父上、母上。今年も素敵に咲きましたよ」
春になると、毎年思い出してしまう。
両親を失くしてしまったあの日のことを…。
蘭瑛は手のひらに乗った二枚の花弁を、吹かれた風に差し出し、自然に還らせた。風に乗って飛んでいく花弁を見送ったあと、蘭瑛はハッと我に帰る。
「いっけない!早く行かなきゃ。また、叔父上に怒られる〜」
六華鳳宗の現宗主・叔父の
山を降りた
美味しい物に目がない蘭瑛は、もちろんこの後も、こっそり串焼きを食べるつもりだ。
「こんにちは〜。六華鳳宗の
「あ、蘭瑛先生どうぞ〜。ごめんなさいね、こんな所まで来てもらって」
もうすぐ臨月だという、腹が大きく膨らんだ亭主の妻に、笑顔で迎え入れられる。
「いえいえ、とんでもない!私は何処まででも飛んでいきますから〜」
亭主の妻とたわいもない挨拶を交わし、蘭瑛はいつも通り問診する。
六華鳳宗は名医の三宗と言われているが、朝廷に所属する御用医家ではなく、市医の医家として生業を立てている。こうして、依頼を受けた場所に出向かい、町の人々の命を守りながら歩き回っているのだ。
「今日も落ち着いてらっしゃいますね」
「蘭瑛先生のおかげだよ〜」
横になっている亭主の腹を触診し、深傷を負った腹部の傷に六華術の一つ、
「蘭瑛先生、知ってる?」
亭主の妻がお茶を淹れながら少し怪訝そうに尋ねた。
蘭瑛は首を傾げ、亭主の妻の方を向く。
「あの物騒な
蘭瑛の手が止まった…。
(…赤潰疫?あの玄天遊鬼の?)
「奥様!その話は本当ですか?!いつ頃聞かれたものですか?!内容を詳しく…っ」
亭主の妻の方に向かって身を乗り出し、蘭瑛はつい食い気味に聞いてしまった。
「ご、ごめんなさい…」
蘭瑛は慌てて謝り、向きを変えて、また亭主に癒合の術を施した。
「そ、そうなるのも、無理はないわよね…。詳しいことは私もよく分からないわ。ただ赤潰疫が出たってことしか…」
蘭瑛はいつもの柔らかい表情を作り、亭主たちを安心させた。
何の心配もいらないと蘭瑛は自分にも言い聞かせる。
所詮、噂だ。酷い湿疹か何かだろう…、と。
調合した薬を渡し、無事に出産を迎えられるように亭主の妻に伝え、蘭瑛は急いで六華鳳宗の邸宅である
邸宅に戻った蘭瑛は、息を切らしながら遠志の部屋を尋ねる。
「叔父上!赤潰疫が出たっていうのは本当ですか?!」
遠志は話の内容よりも、蘭瑛が勢いよくこの部屋に飛び込んできたことに驚いていた。普段は必ず扉の前で一言断りを入れるはずなのだが。
「まぁまぁ、蘭瑛。落ち着きなさい。お茶でも淹れようか。ちょうど、目を休めたいと思っていたところなんだ」
(げっ…。何、この量)
遠志の机に目を遣ると、どのように読み進めていけばいいのか分からないほどの、膨大な書物が積み上げられていた。
「驚いただろう。これは全部、過去に起きた赤潰疫の資料だよ」
「えっ?!こんなに?!…やっぱり、赤潰疫が出たのですか?」
「そうみたいだね」と言って、遠志は取り乱すことなく、湯呑みに白茶を注いだ。蘭瑛はその積み上げられていた書物を一冊手に取り、頁をめくる。するとそこには、六華鳳宗の先代の流医たちが綴ったであろう、赤潰疫の治療記録が書かれていた。
遠志は湯呑みが乗ったお盆を持って、元いた椅子に座り直す。蘭瑛も近くにあった椅子を持って、遠志の斜め向かいに座った。
「念の為、蘭瑛にも伝えておこう。赤潰疫は、疫病であるが一種の妖術のようなものだ。だから、そこらで出回る薬では根絶できない。それぞれ、三宗の作る法薬でしか効果は見込めないだろう」
「では、うちの法薬はどうやって作るのですか?」
「ここに書いてあるよ」
古書の独特な香りを漂わせた『
六華鳳凰が書き記したとされる、代々受け継がれてきた家宝の書物だ。
蘭瑛はその書物を受け取り、薄紙が挟んである頁を開く。そこには『
「蘭瑛もこれを見て、法薬を試してみなさい。いつ、この近辺に現れるか分からないからね」
蘭瑛は「分かりました」と言って、白茶を啜った。
「今日の問診は大丈夫だったかい?」
遠志は書物に目を向けたまま蘭瑛に尋ねた。
「あ、はい。とても落ち着いていらっしゃいました。奥様もそろそろ臨月に入られますね」
「そうかい。無事に産まれるといいね。今日は、露店の串焼きは食べれたのかい?」
なぜ、それを知っているのか?!と驚き、蘭瑛は思わず白茶を吹き出しそうになった。
遠志は目を三日月のようにして「私が何も知らないとでも?」と言わんばかりに笑みを見せる。
蘭瑛もそれに合わせて「んふふ」と笑みを向ける。
「寄り道は程々にしなさい」
「…ふぁい(はい)」
(くぅ〜!バレていたとは…)
宗主との笑みの睨めっこは、この笑みの圧力によって敗者に終わった。
そこに、双子の弟子・
「蘭瑛姉さま〜、こちらにいらっしゃったのですね。夕餉の準備ができましたよ」
「本当っ?!」
「遠志宗主は、こちらにご準備を始めても?」
「お願いできるかな」
もうそんな時間なのかと、蘭瑛は遠志の夕餉が運ばれるのを見届け、鳳秘典を持って鈴麗と鈴玉と一緒に、遠志の部屋を後にした。
夕餉を終えた蘭瑛は自室に戻り、さっそく鳳秘典を開いて調薬を試みる。六華術の特殊な術の『
気づけば朝日が昇り始め、外が明るくなっていた。
チュン、チュン、と雀のさえずりが聞こえてくる。
蘭瑛は流石に睡魔を感じ、寝台に横になった。
(玄天遊鬼に赤潰疫…。十五年前のようなことが、また起きなきゃいいけど…)
疲れた目が、段々と虚ろになっていく。
蘭瑛は大きく溜め息を吐いて、縮こまるように布団に潜り、眠りについた。