「おっと、危ないところだった」
手すりに寄って階段を登ろうとしたけれど、僕の右手は空を掠めてよろめいた。なんとか壁に手をついて、急な階段を登っていく。
濃い消毒液の臭いに鼻をつまみながら、僕は真っ白な扉をガラガラと開き、その奥のベッドへ向かう。僕はベッドを囲むカーテンの中に入って、友達に声をかけた。
「四穏くん、お見舞いに来たよ」
三冷くん、ありがとう、と返事をしたのは、小学五年生で同級生の
――この花が落ちたら、俺の命も、無くなるのかもしれない。昨日母さんが、俺の寿命はわずかなんだ、って呟くのを聞いたんだ。大丈夫、そのとき俺は寝たふりをしていたから」
何が大丈夫なのか、僕にはさっぱりわからなかった。四穏くんが死んじゃったら、僕はきっと、大丈夫じゃないと思う。
その言葉を思い出しながら僕は、背中のカバンから一本のお花を取り出して、四穏くんの枕元の方に背伸びした。
「三冷くん、何をしているの?」
「花瓶の花を、造花に換えるんだ」
四穏くんは、僕の行動がまだ理解できていなかったようで、はてなマークを頭から生やしているような顔をしていた。
「花が落ちたら、四穏くんはいなくなっちゃうんでしょ。生きてる花を造花に換えたら、花は落ちない。君も、いなくならない」
四穏くんは、そのとき、少し顔を下に向けて、言葉を飲み込んでいるように見えた。僕は、はてなマークを一本だけ生やした。
それからは、お菓子はコンポタ味が一番だ、いやなっとう味だ。などというどうでもいい会話をするうち、日が暮れて、面会のできる時間は終わった。
数日後、僕はまた四穏くんのいる病院へ向かっていた。道端にはタンポポがたくさん咲いていて、頬が赤くなるような暖かさだった。
受付のお姉さんに挨拶をしてから、とことこと歩き、四穏くんのいる病室の扉を開けた。いつものように、そっと、うるさくないように。
「あれ……」
僕の言葉は、予想とは違うものだった。いつもなら、右奥のカーテンは閉まっていて、その中に四穏くんがいるはずだ。そして、僕は挨拶をするはずだった。しかし、今、僕の目に入るのは、完全に開かれたカーテンと、その中の誰もいないベッドだった。
もしかしたら、どこかに隠れて僕をからかっているのかもしれない。僕はそのベッドに駆け足で向かい、ベッドの中や下、引き出しまでくまなく探した。
四穏くんは、いなかった。そもそも、ベッドを抜け出してかくれんぼができるほど、四穏くんが元気じゃないことは、僕はよくわかっていた。扉を開けて、初めて違和感を感じた時から、ほんの僅かの望みもないことは明らかだったのだ。
僕は、家に帰るほか無かった。
しかし、考えてみれば、車椅子でたまたま出掛けていた可能性だってある。いや、きっとそうだ。そうでなくちゃ、いけない。
僕は、また病院へ向かっていた。道の横には、大きくて黒い壁が広がっている。早く確かめたいと思いつつも、歩調が遅くなる理由を、僕は知っていた。
病院に到着し、扉を開ける。やっぱり、ベッドには誰もいなかった。それでも諦めきれなくて、近づくけれど、四穏くんの姿は無かった。花瓶と、その中の造花も、無かった。
まだ青白い太陽が照らすタンポポを一つ一つ踏みつけながら、僕は、家に帰るほか無かった。
その次の日も、病院に行ったけれど、四穏くんはもう、いないと、受付のお姉さんにはっきりと言われた。
それから数週間たったが、僕は何をしたかよく覚えていない。覚える意味も無かった。
しかし、今日、いつまでも記憶に残るであろうことがあった。僕宛ての手紙をもらったのだ。差出人の欄を見るとそこには、四穏、と書いてあった。
僕は足早に自分の部屋に入り、勉強机の椅子に座った。幽霊とか都市伝説の可能性をぐるぐると考えながら、小さな封筒を開け、四穏くんの新しい家の地図と、二つ折りの手紙を取り出した。これから、その内容を読もう。
――何も言えずに退院して、いなくなって、ごめん。隣の、そのまた隣の街に腕の良いお医者さんがいて、そこに通って手術をしてもらうために引っ越したんだ。手術の結果は大成功。正直、とても怖かったけれど、それでも希望をもって生きていけたのは、造花だったからじゃない」
バタン! と、僕は手紙を閉じた。そして動揺した心のまま、手紙たちを勉強机の引き出しに押し込んだ。
あの造花は、四穏くんにとって邪魔でしかなかったのだろうか。本物の花じゃない、プラスチックの偽物だったのだろうか。ただの、粗悪な量産品?
というか、もし邪魔だったとしても、なにもわざわざ書く必要はないじゃないか。僕だって、頑張って選んだんだよ。
そんなことも考えないなんて、四穏くんはサイテーだ。四穏くんなんて、こっちから友達じゃなくなってやる。
僕は勉強机の上のぬいぐるみを、力任せにぶん投げた。想像以上に大きな音をたてたことに、ギョッとしつつも、僕じゃなくてぬいぐるみが悪いことにした。なぜなら僕は今、とても怒っているからだ。
それからどうしたかよく覚えていないけれど、夜中にトイレから出た後、階段の手すりを掴めなくて、一段一段に八つ当たりをしながら自分の部屋にもどったことは覚えている。
そんな強い嫌悪の気持ちも曖昧になるほど、時間が経って、僕は小学校を卒業していた。そして中学生になっていた。
こうして、義務教育の終わりがうっすら見え始めると、小学校の頃がもう懐かしくなる。漢字ドリルとか、途方もない宿題だと思っていたけれど、中学校のテスト前課題の方が絶望的に終わらない。
人間というものは、課題が終わらないと、ストレスが溜まる。そして、ストレスが溜まると、掃除を始める。課題をやるよりは気持ちが楽だが、ゲームほど無意義なことをしている気分にもならないからだ。物の整理のために、勉強机の引き出しを上から順に開けていく。
三つ目の引き出しを開けた時だった。
僕は、懐古と悔恨に襲われる。
「これ、四穏くんの手紙と、家の地図だ」
僕はそれを発見してすぐに、彼の家へ向かおうと決めた。その時はまだ、課題より楽だと考えていたのだ。
結局、課題は間に合わず、彼の家へ行くことができたのは、テスト後の補習が終わってからだった。
人生数度目の電車に揺られ、最寄り駅に着くと、彼の家は地図の通りに見つかった。表札に書かれた名字は、本当に四穏くんのものであっただろうか、僕はそれを確認する前にインターフォンを押していた。
リンロン、という独特な鈴のコール音が鳴って、玄関の扉の奥から「はいはーい」という女性の声が聞こえた。
「お待たせしましたー」
「あっ、こんにちは、四穏くんのお母さん」
「えーと……えーと、もしかして、三冷くん?」
僕は安堵の笑顔で、肯定した。
「お久しぶりね、三冷くん」
「お久しぶりです」
「背がとっても高くなって、最初、こんなイケメンは私の知り合いにいないわ、なんて思っちゃった」
僕は特技の愛想笑いをした。けれど、目を合わせるのは、気まずく感じて、少し目を逸らす。そして、僕はとても驚いた。
玄関の下駄箱の上に、かつて四穏くんの病室にあった花瓶とそれに挿した造花が、あの頃から変わらない状態で置かれていたのだ。僕が驚いたことに自分自身が気が付くより先に、声は出ていた。
「あの造花……」
その瞬間だけ四穏くんのお母さんがした表情も、かつて四穏くんが病室で言葉を飲み込んだ顔そのものだった。
「あの花は、四穏のお気に入りよ、いつまでも枯れないって言って、大事にしていたわ」
その言葉は、僕にとって不可解なこと極まりなかった。造花のことが好きなら、手紙ではどうして必要が無いようなことを書いたのだろう? 僕の頭には、はてなマークの大森林ができていた。しかし、考えてみればここは四穏くんの家の前であった。本人に聞いてみればよいのだ。
「そういえば、四穏くんは今いませんか? せっかく来たのですから、会いたいです」
「あ……今日は、友達と遊びに行っているの」
「では、明日」
「明日も、難しいかな」
「そうですか……なら、確実に会える日を教えてください」
「えっと……」
四穏くんのお母さんの煮え切らない態度に、黄昏時が相まって、僕は不安を感じた。
「四穏くんは、大丈夫なんですよね……?」
大丈夫でないことは、四穏くんのお母さんの赤らんで濡れた瞳が、物語っていた。
「ごめんなさい、やっぱり隠し事は良くないわね」
そう言う瞳は、沈んだ夕陽をたっぷりに揺らめかせていた。そして、しばらくつぐまれていた唇がゆっくりと開かれる。
「四穏は、死んだの」
「え……でも、手術は成功したって、手紙に……」
「手術は成功したし、小学校も無事に卒業したわ。けれど、車に轢かれたの……三日前、即死だったわ」
もう、言葉は出なかった。かろうじて四穏くんのお母さんにさようならとだけ言い、電車に揺られ、帰った。
僕の家に帰宅するまでの時間は長く、冷静になっていくうち、僕は四穏くんからの手紙をもう一度だけ読んでみようと思った。駅から家へは、もう真っ暗。
自分の部屋の扉を閉めて、勉強机に座る。上から三つ目の引き出しを開けて、そこから手紙と封筒を取り出す。小さな封筒を眺めて、懐かしさを思い出す――
「あれ」
封筒の中にまだ一枚紙がある。もしかして、手紙は二枚あった、ということだったのか。
僕は封筒の中の紙を取り出し、確認し、泣いた。
これから、その内容を読もう。
――何も言えずに退院して、いなくなって、ごめん。隣の、そのまた隣の街に腕の良いお医者さんがいて、そこに通って手術をしてもらうために引っ越したんだ。手術の結果は大成功。正直、とても怖かったけれど、それでも希望をもって生きていけたのは、造花だったからじゃない
造花を見るたび、君が微笑みかけてくれるような気持ちになったからだよ。不安定な僕を、毎日よろめきながら生きる僕を、造花を通して君が支えてくれたからだよ。ありがとう。またいつか、会おう」
大粒の涙は、「会おう」の字をにじませた。
しかし、僕はそんなには泣かなかった。
この手紙が、四穏くんの声や、動きや、楽しさ、そして、微笑みを思い出させてくれるから。
彼は、いつも僕の手を繋いでいてくれるから。