目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
三善先生の秘密
三善先生の秘密
有馬千博
現代ファンタジー異能バトル
2025年03月18日
公開日
1.9万字
完結済
ごく普通の女子校に通う日下部結菜は、実は妖が視える陰陽師の末裔である。ただ視えるだけの結菜は自分の身を守ることだけが精いっぱいだった。
 ある日、イケメン先生と名高い三善先生のもう一つの顔を知ってしまった。
 結菜は三善先生から秘密を漏らさぬように厳命された。そんな矢先に結菜の目の前で友人が消えてしまった。
 消えた友人を探すため、学校で探し回っていると三善先生に遭遇して――


第1話 三善先生の秘密

 この世には、視える人とそうでない人がいる。

 視える人。

 それは、この世のものではない、妖を視ることができる人を指す。

 陰陽師の家系に多く輩出される人たちの特徴でもある。

 日下部結菜もまた視える側の人間であった。

「で、あるから、この場合の化学式は」

 四月に着任してきた臨時採用教員の三善先生は、教科書片手に黒板に読みやすい字で化学式を書いていく。

 いつ、どの角度で見ても美しい。

 すっと通った鼻筋、やや色素の薄い瞳は少しだけ切れ長だが不思議と怖さを感じない。身長も結菜の目算で百八十くらいの高身長。アイロンのかかった白衣はいつも汚れも皺もない。見た目の欠点と言えば、丸眼鏡をかけている所だろうか。せっかくの整った顔も眼鏡で少しばかり遮られてしまっている。そのせいか、着任挨拶時の女子の黄色の声は思ったよりも少なかった気がする。

 いつも通りに授業が終わる間際、三善先生は少しだけ眉を下げて微笑みながら言った。

「臨時採用教員ということもあり、僕は今月末で退職になります」

 こともなげに言うもんだから、クラスの大半は、すぐに三善先生の話を理解できなかった。あまりの反応の薄さに、三善先生すら困った表情を浮かべた。

「後任の先生は月末に担任の先生から紹介があると思います。皆さんと一緒に授業ができたことは僕の教師人生の一つの糧になると思います。あと数回しか授業は無いかけど、もう少しの間だけよろしくお願いします」

 三善先生の話を聞いていくうちに、クラス全員が先生の話を理解したらしく、ざわめきは徐々に大きくなった。しかし、それもチャイムに遮られ、先生はいつも通り一礼してから教室を出て行った。

「先生、辞めちゃうんだねっ」

 三善先生ファンクラブ会員でもあるクラスメイトの望月茉優が席に座ったまま振り返ってきた。緩く結んだお団子は茉優の雰囲気ともよくあっていて、可愛らしさがより一層引き立っていた。

「あー、またイケメンが減っちゃうねぇ」

「別にわかりやすい先生だったら、良くない?」

「それは違うでしょ。イケメンはやる気を供給してくれるんだよ」

「そういうもん?」

「そう言うもんだよ。この学校、先生基本的に地味だし。イケメンがいることに意味があるのよ」

 三善ファンクラブが設立されたのは、三善先生が着任挨拶した直後ぐらいだったはずだ。結菜の通う高校は女子高で、先生の男女比は圧倒的に女性が多い。男性教員と言っても、年齢的には五十代が多いし、若くても既婚者がだけだ。独身で、若い男性教員というのはいない。その特殊な状況もあり、三善先生の着任というのは瞬く間にファンクラブを生徒内で作り上げるほどだったのだ。

 最も結菜は特に興味はない。適度に人と付き合い、勉学に励む。それが結菜のモットーである。

 放課後になっても、クラスの中の話題は、三善先生のことでもちきりだった。中には化学準備室に言って、次の仕事場所も聞き出そうとする強者もいた。明日の準備をしている最中に準備室に言ったら迷惑だろうに。結菜は学校指定の黒色リュックに教科書とノートを詰めて、さっさと教室を出た。

 十月も終わりになると暗くなるのが早くなってきた。ついこの間まで夏だったはずなのに、急に冬になったかと思うように風が冷たい。首をすくめながら、結菜は予備校を目指して歩く。

 ――ヌゥゥ

 何かが低く呻いた声が結菜の耳に届いた。思わず声がした方を見ようとしたが、寸前のところで動きを止めた。まっすぐ向いたまま結菜は何事もなかったかのように予備校に向かって歩く。

 ――ヌウ

 声がした方を視たくなるが、ぐっと我慢する。背中の当たりに寒気を感じる。風が冷たいわけでも、風邪をひいているわけでもない。

 この気配は間違いなく妖のものだ。

 関係ない、関係ない、関係ない。

 心の中で呟きながら、結菜は少しだけ早足で駅に向かった。

 陰陽師の一族の末裔でもあり、視える人でもある結菜は、妖が視えてしまう。故に、妖関連のことに巻き込まれやすい体質でもある。

 日下部家で視える人は結菜以外に祖父母と兄だけであり、親族でも視える人は数えるほどだ。陰陽師が活躍していたのは明治くらいまでであり、それ以降民間でも陰陽師としての仕事を禁止された。それ以降、結菜のように視える人というのは、妖関連に巻き込まれることが無いように避けることを幼い頃から徹底的に教えられてきた。

 今では視えない人と同じように振舞うことも遜色ないと結菜は自負している。

 だから、このような状況になっても慌てず、騒がず、そっと通り過ぎることができる。結菜は相手に気づかれる前に、何事もない振りをしながらその場を去った。


 予備校での講義の後に自習をしたせいか、外はすっかり暗くなってしまっていた。頭上に月と星が瞬いているが、街並みに灯りがたくさんついているせいか、あまり星が見えない。天気予報では雨の予報が出ていなかったけど、少し雲も出てきている。もしかしたら降り始めが早くなるかもしれない。

 リュックから折り畳み傘を出そうと足を止めたところで、どこからか低い唸り声が聞こえてきた。予備校に来る前に聞こえた声と同じかどうか、くぐもっているせいでわからない。加えて、ぐちゃぐちゃと何度も踏みつけるような音も聞こえてきた。

「ったく、ここらは野良が多いのか」

 そんな乱暴な言葉と共に紫煙が鼻先を掠めてきた。聞き覚えのある声に結菜は足を止めた。まだ続く何かを踏みつける音が聞こえる一方で、うめき声のようなものは聞こえなくなってきた。

「あー、だりぃ。オヤジども、絶対俺を酷使するつもりだな」

 大きな舌打ちが聞こえてきたところで、結菜は自分の耳を疑った。聞いたことがある、この声。だけど、口調がまるで違う。その人は、こんな粗雑な言い方をしない。

 結菜は恐る恐る声がする方に歩き、ゆっくりと物陰から裏路地の方を見た。

 背丈は高い。真っ黒な服装と月明かりのせいで、はっきりとした体系や顔立ちが分からない。

 ただ、雰囲気だけでわかる。

 この人は、ヤバいと。

 何度も踏みつけているであろうぐにゃぐにゃしているものは、恐らく結菜が予備校前に通り過ぎた時に聞こえてきた声の持ち主であろう妖だ。しかし、妖らしい影も形もない。やけにねばねばしているゼリーくらいの状態になったものを、この人はぐりぐりと踵で地面にこすりつけていた。

 口の端で煙草をくわえ、その仕草をしていると、どう見てもヤがつくお仕事とされている方のようにしか見えない。

 こんな人、知らない。少なくとも結菜の周りに、妖を痛めつけられるほどの実力を持っている人はいない。

「めんどくせぇ仕事を引き受けたもんだな、俺も」

 大きな独り言は、こちらに聞かせるつもりがあるのか、それとも結菜に気づいていないだけなのかわからない。だが粗野な言い方に結菜はビクッと肩を震わせた。

 ちょうど月が雲で隠れ、代わりに街灯がその人の顔を照らした。

 顔がようやくはっきり見えたところで、結菜は固まった。

 その人が、今月いっぱいで退職する予定の化学教師、三善先生だとわかってしまった。

 横顔だけだが、見間違うはずもない。自分のクラスを半年も担当している化学教師のことを。

 結菜はギュッと胸を掴みながら、一歩下がろうとしたところで、足元に転がっていた空き缶を蹴ってしまった。缶が飛んでいった音に気付いたその人が、じろりと結菜を見た。

 丸眼鏡をしていなければ、イケメン度アップ間違いなし。

 なぜかこのタイミングで茉優の言葉を思い出してしまった。しかし、茉優が言っていた通り、イケメン度が上がった状態で三善先生はそこにいた。

「……お前、確か」

 目を細めて結菜を見ている三善先生を目の前に、大きく開けてしまった口を慌てて手で押さえて、回れ右をして駅に向かう道を走り出した。

ありえない、ありえない、ありえない。

三善智也と言えば、ファンクラブができるほどのイケメンで、生徒想いの人で、授業もわかりやすいと生徒の中で専らの評判だ。

全体の雰囲気だって、猫を思わせるような緩さを感じさせる。見た目に反しての緩さに、授業中だって、にやける生徒が多いほどだ。

評判通り授業もわかりやすく、丁寧だから、苦手意識があった結菜でも化学少しだけ苦手じゃなくなった。そんな生徒は結菜以外にも多く、三善先生のように理科の教師を目指すと宣言するクラスメイトもいるほどだ。

それなのに、今のアレはなに?

 見間違えに違いない。いや、見間違いであって欲しい。それか、先生の双子かもしれない。

 いずれにせよ、結菜は目の前のことを受け入れる余裕がないまま、星が瞬く空の下、なんでと大声で叫びそうになりながら、結菜は全力疾走で駅の改札口まで向かった。電車に乗っても、家にたどり着いても、ベッドの中に潜りこんでも三善先生らしき人の姿が瞼の裏に焼き付いたままだった。


ま、もしかしたら、見間違いかもしれない。

漸く結論付けられることができたのは、日が昇るような時間だった。眠気眼をこすりながら、いつも通り学校に向かう。クラスメイトに会って、いつも通りたわいもない話をして気を紛らわせる。大丈夫、大丈夫。アレは見間違い。

チャイムが鳴り、結菜は自席に座った。一時間目は化学。リュックから教科書とノートを取り出して、丁寧に机の上に置いた。ペンケースからお気に入りのシャーペンを探していると、教室の扉が開いた。

「授業を始めるよ」

 穏やかなバリトンの声がクラスに響いた。いつも通りの化学の授業の始まりに安心感を覚えて、結菜が顔を上げると、丸眼鏡に白衣姿の三善先生がいた。口角をあげながら、今日の授業内容を告げながら、黒板に授業のポイントを書き始める。

 いつもと違った様子はない。やっぱりあれは見間違いだったんだ。

ほっと胸を撫でおろしながら、読みやすい文字をノートに写しながら、結菜は徐々に授業に集中していった。

化学の授業が終わり、まだ書き写していない黒板の内容を結菜が急いで写していると、机の上に四角く折りたたまれた白い紙が置かれた。ぱっと顔を上げると、思ったよりも三善先生の顔が近くにあった。小さな悲鳴を上げて、思わず椅子を蹴って立ち上がった。椅子がけたたましい音を立てて倒れたせいで、周りのクラスメイトが何事かと結菜を見る視線を感じる。冷や汗をかきながら結菜が直立不動の姿勢でいると、三善先生が優しく微笑んだ。

それだけで黄色い悲鳴が上がる中、三善先生が結菜に耳打ちする。

「昼休みに化学準備室に来るように」

 間近できれいな顔を見せられて、結菜は激しく頷くしかなかった。

迫力と圧力が合わさると、なんというか、恐怖が生まれる。

結菜が肯定したのを満足そうに見た三善先生は、教室がざわめいているのにも気にする素振りがないまま、軽い足取りで教室を出て行った。ファンクラブに入っている生徒たちは結菜と三善先生を交互に見ていて忙しない。

い、今のは、一体何だったの。何を渡されたのか、皆目見当がつかない。

結菜は恐る恐る折りたたまれた紙を開こうとしたところで、クラスメイト達が一気に群がってきた。結菜は慌てて三善先生から渡された紙をペンケースに素早くしまい込んだ。

「ねぇ、何話したの、今」

「呼び出し?」

「イケメン先生の顔面近すぎとか、どんな感じだったの?」

 次々にされる質問を全て回答するのも煩わしいが、結菜は苦笑いで一つ一つ答えた。しつこいクラスメイトの追及に適当な回答でその場を誤魔化しながらも、頭の片隅には昨日のことがはっきりと蘇っていた。

 午前の残りの授業もいまいち身が入らなかった。ノートには手が自動的に黒板の文字を書き写してくれるが、頭は三善先生からの呼び出しのことでいっぱいだった。

 昼休みのチャイムが鳴った瞬間、結菜は、いつもよりも多くのクラスメイトからのランチの誘いを申し訳なさそうに交わして化学準備室に向かった。この昼休み中も追及されるのはわかっていたが、今は三善先生の呼び出しに対応するのが先だ。

購買や学食に向かう生徒たちとは真逆の方向に向かって歩くのは、骨が折れた。それでも、どうにか休み時間開始から五分で化学準備室にたどり着くことができた。結菜のクラスから化学準備室と化学室までは校舎を一つ挟んで端と端だ。十分の休み時間で化学室にたどり着くのは早足で歩いてもギリギリだったが、今日は思いがけず新記録を叩きだしてしまったようだった。

 呼吸を整えてから軽くノックをすると、部屋の中から穏やかな返事が聞こえた。どうやら相手の機嫌を損ねている様子はなさそうだ。失礼します、と小さな声で言ってから細く扉を開けて中を覗くと、白衣を脱いでいた三善先生がいた。丸眼鏡を眼鏡拭きで丁寧に拭きながら、窓際のデスクに腰かけていた。

「日下部さん。いらっしゃい」

 目を細めて、人が良さそうな笑顔で結菜を見る三善先生は、化学の授業で見る先生と同じだった。日向ぼっこをする猫のような雰囲気を出しながら、眼鏡をかけなおす。その仕草だけで他の女子たちは胸を射抜かれたかのように倒れるに違いない。いつもと変わらぬ先生の姿に安心感を覚えていると、うっすらと寒気を感じた。

 この寒気はもしかして。

「君、コレ視える?」

「はい?」

 恐る恐る視線を三善先生に合わせると、先生のすぐ後ろに、着物姿の血みどろの女性が立っていた。肌は陶器のように白い、というよりは青白い。乱れた前髪の向こうから、生気を感じられない真っ黒な瞳が結菜を見ていた。危うく悲鳴を上げそうになったが、慌てて口を両手で塞いだ。

 視えた。

 視えることを悟らせてしまった。

 結菜は自分の不意な行動に焦りながらも、慎重に今の状況を理解しようと、深呼吸を繰り返した。

 陰陽師は、明治時代に陰陽寮が廃止され、民間でも陰陽師を生業にするのが禁止された。それを前後して、人々は文明開化の足音を聞きながら、それまで生活に必要とされてきた陰陽師も必要となくなり、科学の発展と共に、人々は妖が視えなくなっていった。

 だが、陰陽師を輩出する一族だけは違っていた。

 いつの日か、また陰陽師を必要するときに、きちんと仕事ができるように。それだけを考えて令和のこの時代まで視えるものを輩出し続けていた。

 結菜の一族も例外なく、視えるものが一定数いる。明治以前より人数こそ少ないが、人世代に最低一人、多い時には同世代に何人もの視える人が生まれてきた。

 一族は視える人を「異能者」と呼び、幼少より妖や霊など人ならざるモノから身を守る振舞い、護身術を鍛えてきた。しかし、祓うこと自体を苦手としている結菜は、祖父母が持たせてくれる呪符で身を守ってきた。慌ててスカートのポケットを探ったが、いつもお守り替わりに入れいている呪符がなかった。

「う、そっ」

 昨日あまり眠れなかったのが災いし、寝坊してしまった。その時にいつも入れてあるお守り替わりの呪符を入れ損ねたいに違いない。

これでは、自分の身を守ることができない。それに。

 ちらりと三善先生を見ると、先生は視えないタイプだからだろうか、慌てた素振りが一切見えない。優雅に化学の教科書を捲っていた。

「ねえ、視えるタイプでしょ」

 教科書から目を離さずに先生は言った。その言い方は、まるで授業中に生徒に問題を投げかける時と同じようだった。

 しかし、先生が言った言葉に結菜は耳を疑った。

 ぺた。ぺた。ぺた。

 足音だけでわかる。着物姿の女性は、一歩一歩確実に結菜の近くに寄ってきている。音からすると、裸足なのかもしれない。水にぬれたのか、着物は女性の肌にぴったりついている。結菜は今すぐにでも化学準備室の外に逃げたがったが、膝が震えてしまって逃げることができない。

「昨日、俺のこと、見たでしょ?」

 のんびりとした三善先生の声につられて、先生の方を見るとまだ教科書に目線を落としたままだった。

 この緊急事態の状態で、またも三善先生はいつもと変わらぬ姿で座っている。教科書を捲る手は、先生の形の良い顎にそっと添わせていた。

実はこの人視えていないの?

 だったら、わかる。こんな状態でも落ち着いている意味が。でも、さっきの言葉の意味は分からない。結菜が逡巡していると、三善先生の口元が少しだけ緩んだ。

「見られるとは思わなかったんですよ。君みたいな高校生が来るような場所でもないし、どうしてあんなところにいたんですか?」

 何を言っているのだろうか、この状況で。

 着物姿の女性は、確実に結菜に近づいている。視えてしまった以上、妖がすることは決まっている。視えたものを殺し、自分の血肉とするのだ。自分一人だけが逃げるのならばできるが、先生を置いて逃げることはできない。どうしたら。

「答えてくれないと、俺も君を助けられないかもしれないですよ?」

 この期に及んで一体。

 そう言おうとしたところで、三善先生が言った言葉を頭の中で繰り返した。言葉の意味を理解したところで、改めて先生を見ると、先生も教科書から顔を上げて結菜を見ていた。いつもと同じような雰囲気でありながらも、先生がまとっている雰囲気は化学の授業の時とは正反対だった。

 獲物を捕らえて離さない、強者の雰囲気。

 デスクに腰かけているだけなのに、こちらの動きを制限するかのような視線に、結菜は思わず目線を反らした。

「僕の質問に答えてくれませんか?」

 三善先生の問いに答えるなら、イエス。しかし、一体この先生は何者なの……。でも、もしかして。

 結菜の頭の中にありえない答えが導き出された。先生を問いただそうとして、ぱっと顔を上げると、目の前に着物姿の女性がぴたりと立っていた。生きている人間にはできないくらいおかしな方向に首を曲げながら、女性はおずおずと右手を伸ばしてきた。真っ赤な血に染まったその手が、結菜の頭に近づいてくる。

「み、見ましたっ。先生が変なものを踏んづけている姿をっ」

 一縷の望みにかけるしかない。叫びに似た感じで結菜が答えると、女性の動きが止まった。

「はい。よくできました」

 三善先生は結菜の答えに満足そうに頷き、デスクに座ったまま、左手の人差し指と中指だけ伸ばして、女性を指した。

「滅」

 軽い爆発音と共に女性は消え去った。

女性がいたはずの場所を何度かの瞬きを繰り返して見たが、そこに女性はいなくなっていた。いつの間にかうすら寒さも消えていて、妖が祓われたことが後追いで結菜は理解した。慌てて三善先生を見ると、不敵な笑みを浮かべ、先生は前髪を掻き上げていた。額にはうっすらと傷跡が見えた。何か事故に遭ったときの傷跡だろうか。あの傷がある感じも、謎っぽくて良いよねぇと茉優が四月に騒いでいたのを、なぜか今思い出した。影がある感じが良いと言っていただろうか。

「にしても、こんな狭い地域で陰陽師の一族と会うとは思わなかったな」

 舌打ちをしながら、三善先生は言った。その言い方は昨日聞いた粗野な言い方にそっくりだった。ということは、昨日結菜が見た人は、間違いなく、この人なのかもしれない。

「も、もしかして、先生も」

 目を眇めた三善先生が結菜の前に立つ。見上げる形になりながら、結菜が数歩後ろに下がると、化学準備室の扉に背が当たった。ふわりとお香のような匂いが鼻先をかすめた。この香りは白檀だろうか。

「……いいか、日下部結菜」

 とん、と右手をドアについて、三善先生が見下ろしてきた。

ひぇっ、顔が良いと言うのはこういう時に最大の武器と化すのかもしれない。

結菜は両手を口に当てて、辛うじて悲鳴を口の中に留めた。まさか、これは少女漫画あるあるの、あれですかっ。結菜がいつだか言っていた憧れのシチュエーションと同じかもしれない。ファンクラブ会員に見られたらと思うと、さっきとは違う意味で冷や汗が出そうだ。

「この秘密、ばらすんじゃねぇぞ」

 あ、違ったみたいです、茉優。

 ドスの効いた声は、およそ少女漫画あるあるの状況にはさせてくれなかった。きゅっと心臓が縮み上がり、結菜は体を固くした。目の前にいる人が煙草を吸って、サングラスをかけていたら、昨晩と同じように、ヤのつくお仕事の人にしか見えない。

 三善先生の脅しに結菜が高速で頷くと、先生は満足したように手をドアから離した。ほっと胸を撫でおろしていると、結菜に目線を合わせた三善先生が耳元で囁く。

「バラしたら、どうなるかわかるよな?」

 きゅっと喉が細くなり、急に呼吸ができなくなる感覚に陥った。呼吸が許されるように、結菜はもう一度深く頷いた。

「わかってくれたようで、なにより。では、僕は午後の授業の準備があるから。日下部さんは、準備の手伝いしてくれてありがとう。しっかり、お昼ご飯を食べるんだよ」

 にこやかに、さわやかに、人当たりの良い表情を浮かべて三善先生は手を振った。結菜は深く一礼してから、化学準備室を出て、購買に向かって駆け出した。

 何、あれ。なに、あれ。何だ、あれはぁっ!

 恐怖と混乱で思考がぐちゃぐちゃだ。今すぐ人がいないところで、叫びたい。というか、ああいうのが先生になれるとか、おかしいでしょ。先生ってもっと聖人君子じゃないのっ。結菜は購買部に駆け込み、売れ残っていた焼きそばパン一つ買って、体育館裏に駆け込んだ。体育館裏といえども、日の当たりは良く、ベンチがいくつか置かれている。いつもの指定席で茉優がスマホを見ていた。

「結菜、遅かったね。先生のお手伝いは終わった?」

 結菜が近づいてきたことに気づいた茉優がスマホから顔を上げた。もう片方の手には購買部で人気ナンバーワンのタツタバーガーがあった。ゆっくりと食べている途中だからか、チキンがバーガーから少しだけはみ出している。

 息を整えながら、結菜は茉優の隣に座った。茉優とは一年生の時から同じクラスで、帰る方向も一緒だからか、遊ぶ時も自習するときも一緒にすることが多い。自然とお昼ご飯を共にすることも多くなった。

「イケメンのお手伝いは役得だったね。何手伝ったの?」

「だ、大丈夫。ちょっと、化学準備室でお手伝いしただけ」

「いいなぁ、日直は。私も日直が良かったぁ」

 タツタバーガーを大きく広げた口で茉優は美味しそうに頬張った。いつもと変わらぬ友人の姿に少しだけ落ち着きを取り戻した結菜は、丁寧に焼きそばパンをくるんでいるラップをゆっくりと剥がす。一口頬張りながら、結菜は考えた。

 秘密と言ったが、何が秘密なんだろう。昨晩の三善先生の姿は、見られてはいけない姿だっただろうか。

 首を傾げながら、結菜は焼きそばパンを頬張った。こってりとしたソースが麺と具を優しく包み込み、食欲をそそられる。食べ進めていると、茉優が声をかけてきた。

「そう言えば、最近妙な噂聞くよね」

「噂?」

「人が行方不明になる系の」

「行方不明?」

「学校の近くで、うちの生徒が何人かいなくなっているらしいよ。でもね、不思議なことに一日くらいたてば、何事もなかったかのように戻ってくるんだって」

「それただの家出じゃない?」

「それが違うんだって。いなくなっている間の記憶がないみたい」

「え?」

「こわいよねぇ」

 怖いと言っている割に、危機感がなさそうなくらい茉優は緩く言った。

 結菜たちが通う高校は不審者情報や事故などが近くで発生した時には、翌日のホームルームで担任から共有される。だけど、茉優が話してくれた事件は共有されていない。この学校の生徒が被害に遭っているならば、すぐに警戒するように言われるはずだ。

 それが言われない理由は、一体。

 結菜が考え込んでいると、予鈴が聞こえてきた。結菜は慌てて残りの焼きそばパンを口に押し込んで、茉優と共に教室に戻った。教室に戻るころには、茉優が話してくれていたことは結菜の頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。


 日直当番のタスクを終わりにさせて、結菜は日誌を片手に職員室に向かった。日は徐々に暮れ始めている。黄昏時に近くなる前にできれば家に辿り着きたい。足早に職員室に向かうと、三善先生がクラス担任と話をしていた。

 話を終えるのを待っていると、三善先生が結菜に気づいて手招きした。

「先生をお待ちのようですよ」

「ああ、すまんな、日下部」

 軽く頭を下げて、三善先生はクラス担任と別れた。昼間のことを思い出し、結菜は下を向いたまま三善先生とすれ違った。

 担任に日誌を渡すと、すぐに結菜は教室に戻った。部活帰りの同級生たちが教室に残っているだけで、教室は閑散としていた。クラスメイトに別れを告げて、リュックを手に取り教室を出た。

 下駄箱でスニーカーに履き替えようとしたところで、化学準備室だけがぼんやりと灯りがついているのが見えた。まだ、三善先生はあの部屋で明日の授業の準備をしているかもしれない。

 昼休みに見た三善先生は、本当に三善先生だったのか。

 それに、真昼間にもかかわらず出てきた、妖。あっという間に祓った三善先生は一体何者だろうか。

 着任挨拶で見てから半年。

これまで見てきた三善先生は本当の姿ではないのかもしれない。

 スニーカーに履き替えた結菜は、足早に学校を去っていた。


「でも、まさか忘れ物をするなんてぇぇ」

 自室の机に突っ伏した結菜は、唸り声にも聞こえてしまうような声で言った。家に帰ってから夜ご飯を終えるまで、化学の教科書とノートを学校に置き忘れてしまっていることに気づかなかった。普段なら諦めがつくが、残念なことに明日提出の課題があったことを結菜は思い出した。明日登校して授業までに間に合う量ではないし、何より化学の授業は一時間目。時間が足りない。

 結菜は諦めて、学校に取りに戻ることにした。幸い、家から学校までは数駅で、電車に乗るタイミングさえよければ、往復一時間くらいで帰って来られる。学校指定のリュックを背負い、スニーカーを履いていると、後ろから祖母が声をかけてきた。

「こんな時間に行くのは、やめなさい」

「でも明日提出の課題を置いてきちゃったし」

「ここいらは今は安全じゃない。結菜が対処できる相手ではないのよ」

「大丈夫、大丈夫。それにすぐに帰って来るから」

 半ば祖母の話を無理やり切り上げて、結菜は家を出た。

 今日は月が雲に隠れているせいか、駅まで向かう道が薄暗い。この薄暗さがどこか不気味ともいえる空気をどこか醸し出している気がしないでもない。良くないことが頭に過ろうとしたところで、結菜は頭から追い出すように首を横に振った。結菜は足早に駅に行くと、ちょうどタイミングよく電車がホームに入ってきていた。改札口を通り抜け、電車に乗ろうとしたところで、ふと違和感を覚えた。

 結菜が通学に乗る電車の車体は、決まって車体にオレンジ色の線が一本横に引かれているだけで、他は塗装らしい塗装がなく、銀色だった。

 それなのに、目の前の電車は濃紺の空と星がちりばめられているかのようなデザインだった。見たことが無い。夜にだけ走るラッピング車両だろうか。ピカピカに磨かれた車体はちょっとした高級ホテルを彷彿させた。

「きれい……」

 車両の中は一体どんな感じなんだろう。ふかふかの座席があったりするだろうか。

 結菜はふらりと足を前に進めた。

『まもなく出発します。ご乗車のお客様はお乗り遅れが無いようにお願いします』

 ホームにアナウンスが流れた。ホームを見て見たが、他の乗客は既に乗り込んだ後のようで誰もいない。乗り遅れちゃダメだ。

 電車に向かって駆け出そうとした時、だれかが結菜の左腕を掴んだ。がくんと前につんのめった後、振り返るとそこにいたのは三善先生だった。黒色で統一されたスーツは、闇に溶け込みそうだ。胸元には見たことが無いが、陰陽道で使う五芒星のそれによく似ている。電車から漏れ出ている灯りに照らされているせいか、きらっと金色の輝きを見せた。

「お前は、バカか」

 出会い頭に生徒にぶつけるべきではない言葉を言い放った三善先生は、ガシガシと乱暴に頭を掻いた。昼間に見る先生とは違い、目つきも態度もだいぶ悪い。組の若頭のように見えなくもない。

「どうして、先生が」

 何度かパチパチと瞬きをはっきりした結菜が不思議そうに三善先生を見ると、先生は眉間に深く皺を寄せた。

「視える上に、巻き込まれやすいとか。無防備すぎだろ」

 何を言っているんだ、この先生は。それよりも早く、この電車に乗らないと。結菜が電車に向かって歩きだそうとするが、三善先生に腕を掴まれたままのため、前進することができない。振りほどこうにも、相手の力が強くて振りほどけない。

「あの、話してください。私、アレに乗らないと」

「どこに行くつもりだったんだ?」

「どこって」

 どこだろう。三善先生に問われて、結菜は自分があの電車に乗ってどこに行こうとしたいのか、わからないことに気づいた。それでも。

「行かないと」

 結菜の中で誰かが早く乗るんだと囁いてくる。ほら、早く行かないと。

 三善先生の腕を無理ほどくように、強引に進もうとすると先生に抱きかかえられる。

「行く必要ないんだって言ってんだよ」

 よく通る低い声が、耳元に聞こえてきた。もう一度強く抱きしめられてから、三善先生は結菜の肩を掴んで真正面から結菜を見た。三善先生は困ったようにため息を吐いてから、右手でゆっくりと結菜の視界を塞いだ。

「いい子だ、お家に帰りな。忘れ物は家に届けておくから」

 優しく、蕩けるような三善先生の言葉に耳を傾けた結菜は、先生の言葉に抗うことなく静かに瞼を閉じた。ふわふわと居心地が良い甘い言葉にしばらく浸っていたが、再び瞼を開けると、結菜は自室の姿見の前にいた。

「え? なに?」

 自分の姿を姿見で見ると、私服で学校指定のリュックを背負った格好でいた。

 なんで、こんな格好でいるんだっけ。

 記憶を戻そうにも、所々曖昧になっていて思い出せない。眉間に皺を寄せながら机の上を見ると、化学の教科書とノートが無造作に置かれていた。それを見て、結菜はようやく思い出した。

 学校に忘れた教科書とノートを取りに行こうとしていたことを。

 でも、結局忘れていなかったことを。

 リュックから出していたことを忘れていたことを訝し気に想いながらも、結菜はリュックを机の横に置いて、椅子に座りなおした。時計を見れば九時を過ぎている。明日は化学の課題提出の日だったっけ。閉じていた教科書とノートを広げて、結菜は化学の課題に取り組むことにした。


「ねぇねぇ、化学の課題、難しくなかった?」

 翌日のんびりと一時間目の授業の準備をしていると、茉優が話しかけてきた。茉優も結菜と同じく化学が苦手なようで、化学の課題が出されるたびに、この世の終わりのような顔をする。結菜は茉優ほど化学が苦手ではないが、課題が出された時の茉優の気持ちは思わず共感してしまうこともある。

「しかも、模試の過去問とかも混じってるし、調べないとわからないとか、三善先生って実はスパルタ教師なのかも」

「実際模試も近いから助かるんだけどねぇ」

「それね」

 ホームルームの後、クラスはいつもよりも静かだった。一時間目の化学の課題が終わっていない人が多いらしく、おしゃべりしているクラスメイトが少ない。おしゃべりしていたとしても、課題についての話ばかりだ。

 チャイムが鳴り、茉優は自席に戻って行った。結菜はペンケースからシャーペンを出そうとした時、三善先生が机の上に置いた紙切れを見つけた。何が書いてあるかも確認するどころか、入れてあったことすら忘れていた。周りに見つからないように、そっと紙を開こうとしたところで、教室の前の扉が開いた。

慌ててペンケースに紙切れを入れ直して、顔を上げると、クラス担任が入ってきていた。三善先生ではないことに、クラスがざわめくが、担任が軽く咳払いすると静かになった。

「三善先生は体調不良ということで本日はお休みになった。よって一時間目は自習とのこと。模試も近いし、しっかり勉強しておけよ」

 それだけ言い残すと、担任は教室を出て行った。見張りがいなくなった教室は一気ににぎやかになった。結菜は担任が言った通り模試対策の勉強をすべく、化学の問題集を広げた。

 その後の授業は特に自習になることもなく、平穏に一日が過ぎていった。全ての授業が終わり、帰りのホームルームでは担任からは不審者が近辺で出没していることを伝えられた以外に特に話がなかったため、早々に解散となった。

 茉優とおしゃべりをしながら昇降口を出ようとしたところで、妙な寒気を感じた。振り返っても、当たりを注意深く見回しても辺りに妖もそれらしいものもいなかった。気のせいだろうか。

「結菜?」

「あ、ごめん」

 妖は出る時期も時間も特に決まっているわけじゃない。出ることが増えれば、陰陽師をまとめる術者協会から通達が出るし、人的被害が出れば術者協会から派遣された術者が対応に当たることになっている。

 結菜は未成年。それに術者になるつもりもないし、視えるだけで、それ以外の実務的な才能もない。

 足を止めている時間が長いからか、茉優が不思議そうに結菜を見る。

 そうだ、こういう時、視えない人は。

 そう考えたところで、もう一度足を止めた。

 もし。もしも、自分が妖の気配に気づいていたのに、術者協会へ通報しなかったらどうなるのか。人的な被害まで広がりやしないだろうか。

「結菜、行くよ?」

「あ、ごめん。ちょっと教室に忘れ物しちゃって」

「おっけー、おっけー。ここで待ってるよ」

「ごめん。遅かったら、帰って良いから」

「不審者出てきているのに、一人で帰るの危ないから待ってるって」

「ありがとっ」

 茉優に礼だけ言って、結菜は上履きに履き替えなおした。

ここ数日でこれだけ妖の気配を感じるのは、明らかに頻度が高すぎる。この違和感がどこからかが分かれば、家に連絡すれば良い。何事も無ければ、ただの気のせいで済むんだ。

気配の先を慎重にたどりながら、結菜は校舎内を歩く。

放課後になったせいか、教室の中は空っぽだった。模試が近いからだろうか。それでも奇妙だ。今は試験期間中ではない。不審者情報が出回って、どの部活も帰宅指示が出たのか。いや、少なくとも結菜のクラスのホームルームでは何も連絡がなかった。

だから、部活をやっている人が一人もいないのは普通じゃない。

階段をゆっくりと昇っていくと、どんどん瘴気が濃くなっている気がする。強い妖がいるのだろうか。そうであれば、術者協会からすぐに術者が派遣されているはず。こんなに野放しの状態になるはずがない。

バチン。

急に電気が落ちた。外を見ようにも、窓の向こう側は真っ暗で何も見えない。一体、どうして。

そこまで考えたところで、結菜は慌てて昇降口に戻った。途中誰一人すれ違うことなく、昇降口に戻ると、下駄箱に背を預けてスマホを見ている茉優がいた。

「茉優っ」

 呼びかけても、反応が無い。

 結菜が茉優に駆け寄ると、茉優の口を黒い液体上の何かが口を塞いでいた。目は虚ろになっていて、何も映していない。

 呼びかけながら、肩を揺さぶろうとしたところで、とぷん、という音が聞こえた。振り向いたがそこには何もなかった。気のせいだろうか。と、思ったところで、急に茉優の肩が下がった。慌てて茉優を見ると、床に飲み込まれて行ってしまった。

「茉優っ」

 慌てて後を追おうとして、結菜が手を伸ばしたが間に合わなかった。茉優を飲み込んだところで、床は元の床に戻ってしまった。何度か床を両手で叩くが、固く、手だけがジンジンと痛んだ。

「ど、どうしたら」

 スマホを取り出し家に助けを求めようとしたが、残念なことに電波がなかった。どうやら電波まで遮断するタイプの妖らしい。こんな妖を相手にしたことが無い。自分の力のなさをまざまざと見せつけられた。

 どうしよう。

 それだけしか頭に浮かばなかった。膝をついたまま、茉優が消えていった床をじっと見るだけしかできない。人の血肉を喰らって、自分自身を強くするのが妖。一刻も早く茉優を助けないと。わかっているけど、何もできない。悔しさだけが湧いて出て来る。

「そこの女子生徒、早くお家に帰りなさい」

 何をこんな時にのんびりなことを言って。

 振り返るとそこにいたのは、三善先生だった。いつもの白衣姿ではなく、真っ黒なスーツを着ていた。

「せ、先生。どうして」

「それはコッチのセリフだ。どうして早く帰らなかったんだ」

「だ、だって気配が」

「あのな、それは」

 どぷん。

 またどこからか波が打ち寄せるような音が聞こえた。次の瞬間に結菜の左足が何かの液体に飲み込まれていき始めていた。抜け出そうと逃げ出そうとすればするほど、深みにはまっていってしまう。どうにかして、抜け出さないと。

「滅」

 軽い爆発音と共に、液体が蒸発して消えた。のみこまれていたはずの左足は、元通り床の上にあった。もちろん、結菜の体から切り離されてもいない。

「めんどくせぇな」

 舌打ちをした三善先生は腕を下ろした。

「あ、あの茉優が」

「そいつだけじゃねぇ、学校に残っていた全員が喰われた」

「え」

「この状況を早くどうにかしねぇと全員殺される」

 淡々と言った三善先生の顔を見ると、そこには何の感情もなかった。化学の授業で見る先生とは全く違うその顔に、結菜はごくりと喉を鳴らした。自分の胸の上をギュッと握って、結菜は先生に言う。

「わ、私にもできることがあれば」

「なんもねぇよ」

「で、でも」

「お前ひとり増えたところで足手まといは変わんねぇよ」

 足手まとい。

 まさしくその通りだ。今の結菜にできることは何もない。視えるだけしかできない陰陽師の末裔には。

「協会には連絡入れてあるから時期に助けも来る。それまでは俺の傍を離れるな」

「え?」

「このバッジ、見覚えねぇの?」

 きらりと光ったのは五芒星らしき文様で作られたバッジだった。

「これは術者協会に属している術者が身に着けるバッジ。これを媒体にすれば外部との連絡も容易に取ることができる」

「し、しらなかった」

「だろうな。お前んところは、じいさんくらいしか術者登録してねぇしな」

 がしがしと乱暴に髪を掻いてから、三善先生は結菜の左腕を取った。

「とりあえず、俺から離れんな」

 はい、これ、イケメンしか許されないヤツッ。

 結菜は耳まで熱くなるのを感じた。結菜の様子を気にもせずに、三善先生は校内を歩き始めた。引っ張られるままに、結菜も一緒に歩く。

「あ、あのどこに」

「妖ってのは、今の人間生活から生まれている。こんだけ暗くする奴ならば、対処しようがある」

「え?」

「まさか、そこまで知らねぇのか」

 呆れたような声で言う三善先生に結菜は唇を尖らせた。

「だって、術者になる気もないですし」

「あのな、これくらい末裔なら常識だってんだ。日下部のじじぃ、孫の可愛さに手を抜いてんな」

 盛大な舌打ちを何回か繰り返しながら、三善先生は結菜を連れて階段を上る。いくら階段を上ろうとも灯りの気配はまるでない。所々にある電気のスイッチを先生が押してみても、全くの反応がない。

「電気系統いかれてるってことは、そういうことか」

 一人で納得した素振りを見せながら、どんどんと上がっていく。

 校舎の構造的には三階までしかない。三階まで来ると、その先には屋上しかない。三善先生は屋上に続く階段をためらいもなく昇り始めた。結菜もつられるように、先生に続こうとしたところで、これまで感じたことが無いほどの瘴気の濃さに目の前が一瞬暗くなった。

「おい、大丈夫か」

 膝に手を突き呼吸を繰り返す結菜に、三善先生は駆け寄ってきた。

「これ以上はお前も危険だから、ここで待っとけ」

「で、でも」

「まぁ、これくらいはしておいてやるから」

 迷子の子をあやすように、優しい声で三善先生は言った。しゃがみ、結菜の周りに何やら複雑な術式をチョークで書く。

「これは?」

「これは」

 どぷん。

 また同じ水の音がした。自分の足元が取られたんじゃないかと思い、結菜は慌てて足元を見たが特に変わっていなかった。

 カランと、軽い音を立ててチョークだけが宙から落ちてきた。

 恐る恐る音がした方を見ると、さっきまでいたはずの三善先生がいなくなっていた。

「せ、先生?」

 術式も中途半端の状態で三善先生が姿をくらましてしまった。

 さっきまですぐ近くにいたはずなのに、一体どこに。辺りを見回しても影も姿も見当たらない。どうしよう。自分一人では対処しようがない。術者がここに到着するまで無事なままでいられるか、わからない。

 だが、瘴気が先ほどよりも一層濃くなったのは、わかる。寒気だけじゃない。鳥肌もうっすら出ている。なんとかしないといけないが、どうすればよいのか皆目見当がつかない。

 ふと、三善先生が言っていたことが頭に過った。

妖は人間の生活が根幹。

停電しているから、もしかして、ここにいる妖は明るいのが苦手なのかもしれない。

ええい、ままよっ。

瘴気の濃さが気になるが、結菜は駆け上がった先の屋上の扉を勢い良く開けた。開けたと同時に光が降り注がれるかと思ったが、光は一筋もなかった。

扉を開けた先に会ったのは、真っ暗な世界だった。

まだ日が高い時間なのに、太陽は無く何か大きな黒い布に覆われたかのように、黒色ペンキで塗りつぶされた景色がそこにあった。

「なんで」

 絶望で塗りつぶされた目の前の光景に、結菜は膝をついた。自分でできることを探して、チャレンジしてみたけど、なにも報われなかった。

 いったいどのくらいで助けが来るのだろうか。

 それまで自分は自分の身を守れるのだろうか。

 視えるだけの無力な自分に絶望の追い打ちをかけられながら、結菜は地面を睨みつけた。

 その時、自分の影とは別の影が地面に移りこんだ。

 ぱっと顔を上げると、そこには、大鎌を構えた妖がいた。目は体中にあり、ギョロギョロとあちこち見ていたが、急にすべての目が結菜を捕らえた。捕食者を見つけたかのような見られ方に結菜は竦んだ。

 ああ、もう死ぬのか。

 目の前に迫る大鎌がスローモーションのように見える。後ろに下がろうにも、既に背中に壁が当たっている。逃げ場がない。竦んでしまった足は、膝がついてしまった。結菜はそっと両手を握りながら、目を瞑った。

 妖が視えない人ばかりの中で、助けられるのは自分だけ。こんなところで、死んでたまるか。

 結菜は持っていた懐中電灯の明かりをまっすぐ妖に照らした。妖と言えども、根本は現代の人間生活から生まれている。だから、弱点は必ずある。

 暗闇に溶け込み、人を攫う。

 暗闇に溶け込んでいるのは、そこが一番活動しやすいからだ。その証拠に、外灯で照らされた部分はさっきからずっと避けていた。

 だから、間違いない、コイツの苦手なのは『灯り』だ。

 灯りを照らされた妖は、低くぐぐもったうめき声を上げた。一瞬の隙をつけた。結菜は灯りが多い繁華街に向かって走り出した。早く、早く、ここから逃げ出さないと。灯りの下に出ることができれば、大丈夫なはず。一体どのくらい暗闇に閉じ込められていたのだろうか。走っても走っても繁華街に辿り着く気配はない。いくら走っても気配が変わらないのは、まるでランニングマシーンの上で走っているのと変わらないみたい。少しずつ息が上がってきた。それでも結菜は懸命に腕を振って、少しでも前に向かって走った。

 ――ニゲテイルツモリカ?

 いびつな金属音のような声が耳元で聞こえた。結菜は咄嗟に声が聞こえてきた方とは反対側に飛びずさった。肩で息をしながら、結菜は辺りを見回した。真っ暗なままなのは変わらない。どうやら、まだこの暗闇から逃げ出せていないのだけはわかった。

 ――オロカナ、オンミョウジモドキ。ショセンハ、カガクニオボレタニンゲンダ

 背後から囁いてくる非常に不快な声に結菜は耳を覆った。目だけは灯りがある方から離さない。あの灯りがある方へ、行けば。

 もう一度、結菜は駆け出そうとしたが、左足首を何かに掴まれた。つんのめった結菜は、したたかに体を地面に打ちつけた。辛うじて手をつくことができたが、勢いが良すぎたためか、手のひらがジンジンと痛む。ゆっくりと足の方を見ると、およそ人の手には見えないほど腐食したものが地面から生えていた。骨がところどころ見えており、どうやって動かしているのかわからない。粘着質のある液体がまとわりついているのか、靴下が濡れていくのが分かった。

「い、いや」

 結菜は小さく首を振った。

 死にたくない。

 死への恐怖が体を強張らせていく。真綿で首が徐々に絞められていくのかのように、呼吸がしにくくなってきた。

 手がもう一つ地面からにゅっと出てきた。コンクリートで作られている地面のはずなのに、固さは一切感じないようなスムーズさに、とうとう物事の理も壊れてきたのか。出てきた手には、先ほど見た大鎌が握られており、矛先は結菜に向けられていた。

 ――オンミョウジヲクラウノハ、イツブリダロウカ。

 妖がどこかで舌なめずりしているのが、容易に想像できてしまった。もう逃げられないと、本能が告げた。結菜は今度こそ、目を固く瞑り、最後の時を待つことにした。

「悪いけど、俺の生徒に手を出さないでくれないかな?」

 聞いたことがある声が、頭上から降ってきた。結菜は、目を開き、ぱっと顔を上げた。そこは相変わらず真っ暗で、人の影すら見えない。

 どうやら、聞き間違いだったようだ。

 結菜の目の前で妖を祓ったことがある三善先生ならば、もしかしたら、と思ったが、そう簡単にいくはずがない。

 だって、三善先生は、この結界に気づくことはない普通の先生なんだから。

 結菜は再び目を閉じ、俯いた。最後に一欠けらの望みがあったかもしれないが、それもいま潰えた気がした。


 バチン


 何かが破裂する音と共に、ビキビキとヒビが入っていくような音がし始めた。

 ――ヌウ、キサマハ

 やや怯んだような、妖の声に結菜はもう一度顔を上げて、当たりを見回した。真っ暗だった景色に、ヒビが入り、明かりが漏れ入ってきていた。光の向こうに見える、見たことがあるシルエットに、結菜は目を瞠った。

 真っ黒なスーツ姿に、不敵な笑み。左手の人差し指と中指だけがまっすぐ結菜の方向に向かって伸びていた。

「おーい、日下部結菜、動くなよ」

 間延びしたような言い方は、間違いなく三善先生のそれだった。結菜は三善先生の指示通りに、ぐっと体に力を込めて動かないようにした。

 その次の瞬間、

「滅」

 と涼やかな声があたりに響いた。

 祓う、というよりも、浄化という言葉の方が似合うのかもしれない。ひび割れたところから少しずつ暗闇の壁は崩れていった。

 ――バカナ、ニンゲンゴトキガ

「バカなのは、そっちでしょ。俺が誰だか知っての狼藉なの?」

 片頬をあげたまま、一歩一歩結菜に近づいてくる。これだけ光を浴びても、妖自体の力が弱まった気配はない。大鎌を握ったままの手は、結菜の首元に刃先を向けた。刃先が首に当たっているようで、生暖かい血が首筋をゆっくり辿って胸元に落ちていく。うかつに動けない。

 ――コイツ、コロスゾ?

「滅」

 妖が言い終える前に、三善先生は唱えた。術の展開が早すぎて、目が追いつかない。あっという間に腕が一本もげ、がらんと鈍い音と共に大鎌が地面に落ちた。続いて結菜の左足を捕らえていた腕も消滅し、結菜は自由になった。強く掴まれていたせいか、鈍い痛みがはしった。顔をしかめつつも、結菜は三善先生を見た。

 ゆったりとした足取りで、結菜の近くに辿り着き、頭からつま先までじっくり見た三善先生は、結菜の無事な姿を見て安心したのか、前髪を軽く掻き上げた。

「せ、先生?」

 普段見ない三善先生の姿に、やっぱり先生は先生なんだと思ってしまった。

「バカなのか、お前は」

「な、なんですか、助けてくれた途端にその言葉は」

「バカなのか、なら、仕方ないな」

 訂正。この男はやっぱり先生らしくない。少なくとも生徒に向かって吐くような言葉じゃない。学校の授業で見ている先生は虚像なのかと思えてくる。

「んじゃまあ、さっさと片付けるか」

 先ほどの術のせいで、いくつか目がつぶれたようだが、妖はまだ健在して、勝機を伺うように結菜たちを観察していた。地面にも自身の目を配置しているようで、地面なのに目が生えている。ホラー映画や漫画で見る光景に、結菜はぞっとした。

「まだ勝つつもりでいんのか。やっぱり、バカ決定ってことだな」

 結菜を自分の背中に隠すようにしながら、三善先生は滅と術を次々に展開していった。次々に祓われていく妖は低い声で悲鳴をあげながら、ひたすら

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?