目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第29話、その言葉は (1)




 後ろから瀬戸先生が慌てて私を引き止める叫びが聞こえた。だが、私にはこれ以上の方法が思いつかなかった。


 もし気を失っても、せめてバットだけは奪われないように両手でぎゅっと握りしめた。歯を食いしばって、地面を蹴っ飛ばそうとした瞬間、


 ポキッ!


 まるで巨大なコルクを引き抜くような音。

 それが空き地に響き渡ると同時に、ダガーを手にしてこちらに近づいていた短い金髪の与太者が胸を包み込んで後ろに飛ばされた。


「え?」


 奴はまるで目に見えない馬にでも蹴られたように倒れ、起き上がれなくなった。


 そして、また…


 ポキッ!


 今度はナイフを持っていた巨漢がハンマーで頭を打たれたかのように、突然よろめきながら前に倒れた。地面に倒れたそのでっかい体は少しうごめいてからすぐ動きを止めた。


「矢?」


 倒れた巨漢の横には一本の矢が転がっていた。そう。転がっていた。


 刺さったんじゃない?


 その矢の形は非常に変だった。

 長い矢体と尾羽は私が知っている矢と違わなかったが、尖った矢じりがあるべきところにあるのは、つぶれたキノコのような形の小さい鉄の塊だっだ。


 さっきの金髪も今の巨漢もこの矢に打たれて倒れたようだった。


「あの矢は…」


 矢の形を見て、イマエールは『チッ』と舌打ちした。 あれが何だか知ってるようだ。


「うっ!」


「くあっ!」


 与太者たちは慌てて周りを警戒し始めた。だが、また一人、そしてまた一人、虚しく悲鳴を上げて倒れていった。 そしてそのたびに地面に転がる矢の数が増えていった。どうやら私たちを狙ってはないようで私は用心深く立ち上がった。


 先ほど角材で私を殴った酔っ払いが、建物の屋上を睨みつけぶるぶる震えていた。しかし、矢は全く違う方向から飛んできて、奴の手に命中した。醜い悲鳴をあげながら男は角材を落とした。


 その隙を逃さず、私は手首を引っ掴んでいる奴の背中をフルスイングで叩きつけた。ウジッ、と骨が折れるような音を立てて男は叫びすら出られず地面に倒れた。


 さっきの不意打ちのリベンジじゃないと言えば嘘になるだろう。私はそれを忘れられるほど聖人ではない。頭を殴らなかったのは最低限の手加減だった。こんなくずのせいに殺人者になりたくもなかったし。


 さっきまで勢い乗っていたごろつきどもは、訳の分からないの狙撃に怯えて、後ずさりしていた。


 ダダダッ


 その時、私たちが来た路地の方から黒い人影が一人こちらに飛び出してきた。それは濃い緑色カーキ色のローブと、同じ色のヘルメットに身を包んだ大柄な男だった。


 私たちを通り過ぎて与太者たちに突進する彼の動きは力強くて、そして速かった。彼が手に持ったのはおよそ大人の腕の長さくらいの……………シャベル?


「シャベルだと?」


 彼の武器を見た瞬間、私は思わず笑いそうになった。しかしシャベルの刃に乗って流れる不気味な殺気は決して笑えないものであった。私は口をつぐむしかなかった。


 建物の上だけを警戒していた連中は予想外の方向からの攻撃に全くそなえなかった。男は一番近くにいた奴の方に向かって猪突猛進でシャベルを振り回した。鋭い閃光が空中で走った。


「っくぁぁぁぁ!」


 一撃を受けた奴はまるで剣で切られたように太ももから大量の血を噴き出しながら悲鳴を上げた。すでに地面には大勢の奴らが矢に打たれて倒れ転がっていたが、流血を見た奴らは起こした動揺はその度合いが違った。


「ウアアア!」


「ど、どけ!うわっ!」


 与太者たちは武器さえ投げ捨てたまま、一斉に逃げ出した。 しかし、私たちを囲むために誘い込んだ狭い路地は、今やむしろ奴らの逃走を妨げていた。


 またシャベルが空気を切り裂いて振り回されるたびに奴らは倒れた。今は横殴りされたのだろうか、先のように血を散らすことはなかった。代わりに鈍い音が鳴るたびに、一人ずつ頭や肩を掴んで倒れていった。その中には男を奇襲しようとする勇敢な奴もいたが、そんな連中はどこかから飛んできた矢が容赦なく打ち倒した。


 残り少ない連中だけが、かろうじて路地裏に逃げた。連中のボスのように見えたイマエールはすでに姿を消えていた後だった。


 緑ローブの男はシャベルを両手で握り,用心深く奴らの逃走を後ろから睨みつけた。与太者だちが一斉に逃げた空き地には気を失っている連中だけが転んでいた。大きく息を吐いたのか、男の背中が一度大きく上下に揺れた。


 ゆっくり体を起こした男は空中に腕を振り回した。シャベルの奥に溜まっていた血が空中に飛散した。その姿がまるで時代劇で見た侍に似ていると、私は感じた。男がこちらに体を向けた。だんだん近づくと、ようやくヘルメットの下にみえる彼の顔がはっきりしてきた。


 心臓がバクっとする。


 首の後ろが突っ張ってきた。


「日本人?」


 この異世界にも黒髪で黒目の人はいくらでもいた。

 コバフ村のマイヤーさんも黒髪で黒い目だったし、先ほど我々をここに引きずってきたイマエールも黒目だった。しかし、彼らは元の世界の白人の中にもいる黒髪黒目のような感じで、私たちとは違うとはっきり言えるのであった。


 そして今、私の目の前に立っている男の姿は、明らかに我々と同じ人種であることが分かった。


「あ…あ…」


 喉が詰まって言葉が出なかった。


 何か月振りに会える、我々以外のもう一人の日本人なのだ。少なくともこの見知らぬ世界に私たちだけではないという事実に、私は胸騒ぐ感情を持て余すことができなかった。


 死にあたる危機を逃れてホッとした上に、異世界でやっと私たちと同じ立場の同胞に会えたという喜びが重なって、戦いの間ずっと我慢していた涙が溢れだした。すぐ私の頬がびしょ濡れになったが、それを拭くことさえ考えられなかった。


「うっ…うっ、くっ……」


 お礼を言わなきゃいけないのに。


 言葉が出ない。


 詰まった喉からは無意味なつぶやきだけが出てくる。何かと声を掛けようとした男も、私の頬に流れ落ちる涙を見て言葉を飲み込んだ。 何と言えばいいのか分からない表情で困っていた。


 やっと呼吸を整え、必死に言葉を選んで、かろうじて話を切り出そう…


「あ、あの…ありが…」


 …とした瞬間、男の方から先に声をかけてきた。


ダチシンゴスンおけがはオプスプニカありませんか?」


 その言葉は、日本語ではなかった。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?