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第4話、見知らぬ月





 その夜。

 早々に食事を済ませた沙也は疲れたと先に部屋に上がり、瀬戸先生は体を洗って気分をリフレッシュしたいと浴室に向かった。 そして、私は…その二人がそれぞれ入るのを確認し、用心深く公民館を出た。


 元の世界とは比べられないほど多くの星が夜空を彩っていた。 そんな星たちさえも気づかないほど用心深く、私は慎重に一歩一歩を踏み出した。その足が向かったのは公民館の裏庭だった。そこには倉庫や馬小屋、その他様々な施設だけでなく、あらゆるがらくたが積み上げられていた。


 まるで闇に染まった一筋の風、そのものになったように、私は悠々と乱雑な裏庭の中を...


「痛いっ!」


 どこからか突き出た角材に脛をぶつかれて、大声も出せず心の中で涙を流した。脛を包んで座り込んだ。あざが出来なければいいんだけど。


 ざあぁぁぁぁー。


 風が木の枝を揺れる音なのか。でもよく聞いてみるとそれは水が流れ落ちる音だった。


 公民館の裏側の小さな窓からは湯気がゆらゆらと立ち込めていた。そういえば、浴室は公民館ビルの裏側にある、とオルソンが教えてくれた。 その意味は、あの窓の向こうが浴室だという…


「きっと瀬戸先生がお風呂に入るんだと…」


「ううむ!ダメだ!」


 煩悩を振り払うしかない。

 私はそう思いながら激しく首を横に振った。 破廉恥なことなんかのために、今ここまで密かに出てきたわけじゃないんだ。もっと大事な仕事があるじゃないか!しっかりしろ、法次!


「それでもとりあえず、少し離れておこう」


 自分の存在を知られたくなかったし、余計な誤解を受けることはなお遠慮したかったので、一応建物から離れた倉庫の近くにしゃがみこんだ。


 かすかに垂れていた白い月明かりさえも通り過ぎる雲に遮られた真っ暗の中。

 一歩先も見えないほど暗くなった裏庭の隅。

 漆黒の闇の中で、私はゆっくりと息を整えた。 両手を合わせて精神を集中させた。


「うぅうむ… 煩悩退散。色即是空。精神集中。一球無二··· いや、最後のはちょっと違うか…」


 いずれにせよ、目を閉じて意識を集中させた。 閉じた両目の中で何らかのイメージが浮かび上がるような気がする、と思った。疑念が確信に変わっていく強い予感で口元に微笑みが浮かんだ。


 まるで目に見えない力を集めるように!


 眉間に霊力を注入!


 かすかな気合が結ばれるようだ。今だ!私は強く叫んだ。


「......ステータス!」


 空高くに伸ばした両手の先に、


 意志が満ちて溢れる目の前に、


 驚くほど、


 何もなかっ…


 …わんっ!わんっ!


 この辺りの誰かが飼っている犬が自分の影にでも驚いたか、吠える声がなった。


「いいや。ハハ、ちょっと待って、呪文が間違ってたかもしれない」


 再び、目を閉じて意識を集中させた。 閉じた両目の中で何らかのイメージが浮かび上がるような気がする、と思った。


 疑念が確信に変わっていく…


 かすかな気合が結ばれるようだ。今だ!私は強く叫んだ。


「システム!」


 …わんっ!わんっ!ガルルル…


「...もういい。 こんな異世界、最悪だよ」


 やはり誰も知らないうちに一人で試してみたのが正解だった。


 マジかよ。小説や漫画ではチート能力も与えたり、ものすごいアイテムも与えたり、ステータスも開けてくらるのに、何でここはこんなざまなんだよ…


「いや、でもまあ、試してみる価値はあったじゃん。成功したら大当たりだし、失敗は、したけど、ま、損はないし、な…」


 と無駄な言葉で自分を慰めながら、寂しく正面に向かって足を運んだ。 角を曲がる私の頬を、冷たい夜風がさわっと慰めてくれた。耳元を掠る夜風の音がすがすがしかった


 さぁぁぁぁ…


「こうなると思ったよ」


 さぁぁぁぁ…


「何がステータスだよ」


 しく…しく…


「これは何...うん?」


 風の音に紛れて、かすかに聞こえてくる音。


「しくしく… うっ… うっ…」


 息を詰めて静かに耳を傾けた。きっと公民館のこちら側なら… 1階には台所があって、2階に沙也と瀬戸先生が一緒に使う部屋があるはずだけど?

 瀬戸先生は今お風呂で、残ったのは…


「沙… 也?」


 上を見ると、2階の窓が少しだけ開いていた。 一点の明かりも漏れない、一見すると誰もいないと勘違いしてしまいそうな真っ暗な部屋。


 しかしその小さくてかすかな泣き声は、間違いなくそこから聞こえてきた。 聞き違えるはずがない。 10年以上一緒に遊んで、勉強して、一緒に帰り道も歩きながら、聞いてきたその声だ。


 明かりのない暗い部屋の中で、沙也は誰かに聞かれるの心配で大きな声すら出せず、一人で静かに泣いていた。


「うっ… くっ、お母さん…お父さん…会いたいよ…うっ、うっ、怖い、私… くうっ… お、お母さん… 私、家に··· うっ、帰り、帰りたいよ… お母さん… ぁぁぁ…」


 切れそうで切れない、小さくて激しい嗚咽。


 それを聞いて、辛うじて倒れなかった。私は目がくらむような酷いめまいを感じながら壁に手をつぃた。


 わけも分からず、理由も知らず、ただ突然変な世界にぶっ飛ばされてきただけの私たち。一体なぜこんな目に遭わなければならないのだろう。


 力が抜けて外壁に背を寄りかかったまま、しゃがみ込んだ。


 静かに沙也の嗚咽に耳を傾けながら、空を見上げた。


 雲が晴れたのか、真っ白な月がその姿を現していた。元の世界の月と似ている、一点の曇りもなく真っ白で丸い月がしみるほど冷たい光を夜空に放っていた。 しかしその光は…


 放課後の訓練を終えた私を校門前で待っていた沙也の頭の上に浮かんでいた月明かりとは違った。


 真っ白な初雪が降った日, ベッドに入ろうとしていた私を、一緒に雪を見ようと呼び出してた沙也の目に映った月明かりとも違った。


 夏休みの最後の日、いきなり宿題を見せてくれと訪ねてきて、結局夜遅くに家まで送ってあげた日に輝いた月明かりとも違った。


 見知らぬ月光の下で、私は小さくつぶやいた。


「…ちくしょう。 こんな異世界、まじ最悪だ…」



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