堰を切ったように激しくむせび泣いていた瀬戸先生は、これまでの緊張が解けたせいなのかそのままつい眠り込んでしまった。そのまま瀬戸先生をベッドに寝かせ少しの後、私たちは静かに部屋を出た。
「体はちゃんと動くし、痛みもない。だから、とりあえず少し歩き回ってみよう。理由もなくこの世界に勝手に呼び出されたけど、帰り道は自分たちで探すしかないからな」
部屋のドアを閉めながら、沙也を安心させるためにわざと明るい声で話した。その様子が、私たちを興味深く見守っていたオルソンの目には前向きに映っていたようだ。
「よし。いいね、少年。そのくらいの気概があってこそ男だ。俺らも正確な理由は分からないけどさ、君たちがここに定住するまで手伝おうよ。
しばらくはこの公民館を自由に使ってくれ。村に適当な空き家が出来たら、使わせてあげるからよ」
「挨拶が遅れました。オルソンさん。助けてくださって、そしてまたいろいろとありがとうございます」
「これからしばらくの間、お世話になります」
「そんなこと言うな。困ってる人を見過ごしたらコバフ男の名が泣くぜ」
オルソンは大きく笑い、親指を立てた。このようなジェスチャーは元の世界とあまり変わらないようだった。幸いなことだ。この世界の住人と些細なことで誤解でもすれば、困るだけだ。
「わぁぁ」
公民館の前には学校のグラウンドほどの小さな広場があって、村の子供たちが楽しく遊び回っていた。そしてその向こうに見える家々と街の風景はまるでRPGの世界に入ってきたような気がした。
「煙突から煙が出るの初めて見た…」
「ほら、向こうには鍛冶屋っぽいのもあるよ」
大通りに沿って歩いた。 舗装されていない土の道を歩くのはとても不慣れに感じられた。
居酒屋や食堂に見える店(こういう店をパブと言うのだろう)の前で掃除をしていたお嬢さんが私たちをちらりと見つめていた。あ、目が合ってしまった。にっこり笑ってくれるその笑顔が、何だか優しげで心が和んだ。
笑い合いながら手を振ると、沙也がわき腹をつついてきた。 痛い!
「何だよ!沙也」
「起きたばかりなのにもうへらへらして!」
「誰がへらへらする! 異世界に来たんだから、現地の人たちと仲良くしなきゃいけないだろう。」
「おい、そこの少年!」
私を呼んでるような声に向かって体を回した。 美味しそうな果物をあれこれ並べている店から、主人と見える人物がこちらに向かって手を振っていた。背は低いが力は強そうな固い体のおじさんだった。
彼の言葉もオルソンと同じようにはっきりとした日本語で聞こえたが、確かに口の動きは彼の言葉と全く違った。
「もう起きたのかい? 俺はマーティだ。 よろしくな。裏山からあんたたちを運んで来る時に俺もいたんだ」
「そうですか、マーティさん。ありがとうございます」
「大したことじゃない。ま、あんたはなかなか背が高いから、嬢ちゃんたちよりは少々手間がかかったけどさ。でも、人として当然のことよ」
背が高いんだと?クラスでもそこそこだった私が?
そういえば、マーティさんや他の人たちを見ても思ったより体は大きくなかった。オルソンがひときわ大きかったんだ。
「今起きたばかりだとまだ食欲はないだろうな。これでも一口食べてみてよ」
マーティは微笑みながら、並べていた果物を一つずつ私と沙也に渡してから、村をもう少し見て回ろうとする私たちを送ってくれた。
「これ美味しいよ」
「ああ、本当にうまい」
拳サイズの果物からは、噛むと桃のようでもありスモモのようでもある香りがした。口の中に広がる甘酸っぱい味に、さすがマーティの言葉通り食欲ができるような気がした。
「適当に回って、何か食べに行こうか」
「うん、法次」
そうして私たちは異世界の初日を平和で穏やかに過ごした。胸の片隅を重く押さえつける不安から、なんとか眼を反らそうとしながら。
胸の片隅を重く押さえつける不安から、なんとか目を背けようとしながら。
もう一度かじった果物の味もまた甘くて酸っぱかったが、今度はほんの少しだけ苦い後味がした。