― 何か月前。
その日はいつもと全然変わらない、ごく平凡なとある日であった。
「
「
クラスメイトの
「掃除、まだなの?」
「見れば分るでしょう。すぐ片づけるから、そこでちょっと待ってて」
いつも一緒に登校して、
いつも一緒に授業を終えて、
いつも沙也と一緒に家に帰る。
当たり前のような毎日のルーチンだ。それはその日も同じだった。
「もう、私が手伝ってあげるから早く終わらせて帰ろうよ。だいたい、なんで宿題を忘れたのよ?」
「忘れたんじゃねぇよ。ただ家に置いてきただけだっつの」
沙也は返事の代わりに哀れな目つきを私に向けた。
「法次も知ってるでしょ。私が今日をどれだけ待ってたか。もうすぐ『エバーグリーン』のデビューステージが始まるんだから、放送が始まる前にまでは帰りたいんだよ」
「はい、はい」
K-POPに興味がない私も『エバーグリーン』というガールズグループのことは何度も聞いて知っていた。メンバーを集めるためのオーディション番組から話題になって注目されたグループが、今日初めてのデビューステージを持つんだそうだ。テレビでも朝からうるさかったんだし。
そもそも、K-POPマニアである沙也がすでに何度も話していたから、私は知らないわけがなかった。あいつ, 両親には勉強会をするんだとか言い訳したくせに、うちに来てそのオーディションの番組を全部見たんだから。おかげで、その期間中に私は完全にチャンネルの選択権を奪われてしまった。
沙也は本当に早く帰りたいのか、重いはずの机をぱっと持ち上げて運んだ。
「分かった、分かった。 早く片付けようぜ」
キーン!
グラウンドの方からは鋭い金属性の音が聞こえてきた。見なくても分かる気がする。今この時間なら野球部の練習真っ最中なんだろう。
キーン! キーン!
次から次へと豪快な打撃の音が聞こえてくる。あれはとてもよく当たった打球だ。音だけ聞いても分かる。なぜなら…
「法次も野球続けてたら、宿題なんか忘れても掃除当番しなくてよかったのに」
「別に掃除当番が嫌いなわけじゃないんだから」
心の奥の深い所からこみ上げてくる感情を抑えながら、私は平気なふりをして呟いた。
「それに、どうしても、お父さんのようにはなれないってことが分かったから」
外からは野球部員たちが気合を掛ける声が打撃音と共に聞こえてきた。
私もあの中にいた。夏休みの前までは。
中学時代まではプロ選手の息子として注目されたこともあった。だが、中途半端な才能は高校に入学して数カ月も過ぎてない間に消え去ってしまった。1年生の時は何となくチーム内に留まることができたが、一人前の役割を果たさなければならない2年生になってからは到底持ちこたえることができなかった。結局、試合の最後の最後で代打、代守として出場するのが背いっぱいだった。
夏の地区大会の決勝戦で犯してしまった決定的なサヨナラエラー。それは先輩たちの夏を終わらせた一発だった。先輩たちの涙ぐんだ怒りを一身に受けて帰ってきたその日以来、野球部の中で私は顔が上げられなかった。
それは仕方なかったことだと何人かの仲間が勇気を出して弁護してくれたが、すでに皆から敬遠されてしまった私を救うことはできなかった。私を庇ってくれようとしていたやつらまで仲間外れを恐れ始めた瞬間、私は覚悟を決めた。
迷いは短く、諦めは早かった。
【お前はいいやつだった。ご苦労だったな】
退部届を受け取った監督の言葉はそれが全部だった。 理由を問うこともなく、引き止めることもなかった。その程度の危機は自分で乗り越えろとする叱責すらなかった。
試練を共に乗り越えるために肩を貸してくれる仲間たちも。
再び立ち上がるように厳しく、あるいは暖かく励ましてくれる指導者も。
私の現実にはいなかった。
5年間続けてきたとある野球少年の短い選手としての人生は何の注目もされないまま、終わりを告げた。
野球が私に残してくれた体力だけは自身があった。これからは勉強をしても何をしても良い土台になるだろう。
「法次…」
むしろ幼なじみの沙也が私より辛そうにしていた。その視線が耐え難くて、私はわざともっと慌ただしく振舞った。今、急いで教室を整理しているように。
「それに、私が野球部続けていたら、今みたいに一緒に帰ることもできなかったしね」
「あんたさ…」
ふざけ半分で言っている私に沙也が何か言い返せようとしたその時、もう一人が教室に足を踏み入れた。
「双美さん、まだ帰ってない…あら、足原君のお手伝いをしていたんですか。偉い、偉い」
「あ、瀬戸ちゃん」
担任であり歴史担当の
「そういえば、双美さんと足原君は幼なじみだと言ってましたよね?」
「あ、はい…」
「羨ましいですね。とても仲の良い友達同士で。私は転校が多かったので幼なじみと言えるような友達がいませんよ」
瀬戸先生は額に垂れた髪をかきあげながら小さく微笑んだ。瀬戸先生を憧れの対象にしている大勢の男子生徒(及び一部の女子生徒)が愛をこめて語る、いわゆる『聖女の微笑』だ。いくらなんでも私にはちょっと大袈裟だな、としか思うんですけど。
「そんな瀬戸ちゃんは、クラスのみんなと友達でしょう?」
「あ、先生にまた瀬戸ちゃんって!酷いです、足原君」
瀬戸ちゃん…いや、瀬戸先生は頬をぷー、と膨らました。こんな時の先生は可愛くて、からかう甲斐がある。やっぱり、聖女だか何だかより、流石に瀬戸ちゃんは瀬戸ちゃんだ。うん、間違いない。
「そう、そう! 法次がそうするから、最近の生徒は礼儀知らずって言われるんだよ」
「だよねー」
「手伝ってくれねーのなら、さっさと帰ってよ。早く片付けたいんだから」
二人にツッコミを入れながら背を向けると、沙也が呼び立てた。
「あれ、法次。携帯のフラッシュがついてるみたいだよ」
「えっ、どういうこと?」
沙也は私の腰のあたりを指差した。
「今、ズボンの後ろポケットから光ってるの、それ携帯のフラッシュじゃない?」
「何言ってるんだよ、私の携帯はかばんの中に…… あ、あれ?」
沙也の言う通り、後ろのポケットから明るい光が漏れていた。
「いったいなんー」
言葉すら終える前に、私を中心に広がった真っ白で強烈な光が私たち三人の体を包んだ。