『暁と黄昏のアライアンス』第0話 Prologue - 暁
まだ夜が明ける前の城壁の上には冷たい空気が漂っていた。吐くたびに白い霧のように浮かぶ息は、いつの間にか猛暑ではなく雪を心配しなければならない季節が近づいていることを告げていた。
星さえも一つずつ眠りに落ちるこの時間ごろには眠気が襲ってくる。しかし、城壁の上で警備をしている間にそれはありえないことだ。私は歌でも歌って目を覚まそうかと思ったが、この夜の静寂に圧倒され、なかなか口を開くことができなかった。
しかし世の中には、必ずしも私のような人だけがいるわけではない。
「オハヨー、『ホウジ』。夜の見張りに苦労しているな。ちゃんと目を覚ましている?」
私の名前を呼びながら挨拶するちょっとごつい発音の日本語。こちらに向かって手を振りながら城壁のギャラリーに沿って近づいてくる一人の人影があった。強く伸びた肩と硬い肘、そしてバランスの良い体型は月明かりに照らされ、さらに目立った。
「おはようございます。かなり早出ですね。まだ警備の交代まではもう少し時間あるんじゃないですか、『ジヌ』さん?」
いつものように
「これをホウジの所にもってけ、と『ミル』があまりにもうるさくてさ。 少し早く出たよ」
ジヌが渡してくれたのは小さな水筒だった。表まで温かみがほのかに感じられる水筒を受け取り、ふたを開けるとパッと湯気とともに香ばしい香りがした。
「妹さんにありがとうと伝えてください。で、これは何ですか? 玄米茶みたいだけど?」
「この匂いで玄米茶を思いだすなんて、さすが日本の少年だな。これはスンニュンだよ。 本来なら米で作るものなんだけど、このクソみたいな異世界ではそれさえもないから麦のようなもので代わりに作ったんだって。
そして、お礼を言うなら自らやってくれよ。あいつ、ここんところ俺が何か言おうとしたら余計にツンツンしやがって」
(スンニュン:ご飯を炊いた後のお焦げに水を注ぎ煮立てた飲み物)
やけどしないように慎重に水筒を口に当て、じっくりとすすった。ほのかで薄い甘みの暖かい液体が一晩中冷えた体に気持ちよく広がった。スンニュンの湯気が夜空に散っていく姿をじっと眺めていたジヌが小さくつぶやいた。
「もう秋も過ぎていくのか…月が綺麗だな」
「プゥッ!」
「どうしたの?」
「あ、いや…それがなんていうか…男の口からは聞きたくないことばで…」
「何を言っている…変なやつ」
韓国人であるジヌには『月が綺麗だ』というのがどんな意味なのかよく分からないはずだ。彼がそう言ったなら、おそらくそれは文字通りの意味だろう。確かに、彼の言うとおり、晩秋の月はこの世界でも美しく輝いていた。
「冬が来ていますね。今頃、元の世界でもそうなんでしょう」
「そうだな。はたして、今年のジャイアンツは優勝したのかな?」
「ジヌさん、ジャイアンツのファンだったんですか?」
「たぶん、おまえが知っているあのジャイアンツじゃねーよ。あるんだよ、そういうのが…30年間優勝できない状態のジャイアンツが」
「ジャイアンツが30年間優勝できない世界だなんて…いったいそれはどこの異世界なんですか?」
「異世界じゃなくて、すぐ隣の国だよ、こら」
首をかしげる私と、そんな私に無愛想に言い返したジヌは、櫓に並んで立って城壁の外側を眺めた。視界いっぱいに入ってくる野原の向こうに広がった森の地平線がいつのまにか薄い紫色に染まっていた。 闇と光が触れ合うその境界で、日が昇る準備をしているのだ。
初めて見る景色ではないが、見るたびに改めて驚異的な光景だと言わざるを得ない。この異世界に来てから嫌なことばっかりだがこの景色だけは絶品だと、それだけははっきり言える。
小さくつぶやく音が聞こえた。横を見ると、城壁に身を寄せたジヌが小さく歌を口ずさんでいた。 知らない歌だが、曲は知っていた。馴染みのあるメロディーの上に聞き慣れない言語の歌詞が乗せられて朝の空気の中を流れた。
【
この次の小節からは私も知っているから一緒に口ずさんだ。 興味深い目でこちらをちらっと見るジヌの顔が浮び上がる朝日の色に染まった。 私は懐かしい記憶をたどりながら、ゆっくりと小さな声で歌った。
【風が冷たくなって
冬の匂いがした
そろそろこの街に
キミと近付ける季節がくる】
いつの間にか白い息はすでに出なくなっていた。朝日のぬくもりが一晩中冷え切った肌に触れた。城壁の向こうに見える森の上をかすかに流れていた霧も、いつの間にか金色の日差しに溶け込んでいた。露に濡れた城壁に腰をかけて私たち二人は歌を口ずさんだ。全く異なる発音の二つの歌詞が同じ旋律の中で絡み合った。
【今年、最初の雪の華を /
2人寄り添って /
眺めているこの
シアワセがあふれだす /
甘えとか弱さじゃない /
ただ、キミを愛してる /
心からそう思った /
城壁の上にほのかに流れていた歌の終わりが朝の空気の中に消え去ると同時に、太陽が地平線の上に完全にその姿を現した。 そして、朝を告げる教会の鐘の音が響いた。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン
私たちは向きを変えて城壁の内側を眺めた。ぐっすり眠っていた巨大な都市が目を覚まして伸びをしていた。
あくびをしながら店を開いている商人は、まもなく朝の商売を始めるだろう。 朝の訓練を終えて帰る途中なのか汗びっしょりになっている戦士は背中に双剣を担いでいた。みすぼらしい身なりをして周りを見回す夫婦は、どうやら仕事を求めて都市に入ってきた流民と見える。 鐘の音を聞いて教会に駆けつけるあの
イベント会場でない限り、日本では見ることのできない風景だ。しかし、これが今は私の日常になっている。
ここはバレンブルク市。ゼロガム王国の辺境伯領であるバレンブルク州の州都だ。剣と魔法と殿様が存在する、絵に描いたようなファンタジーの世界。
私の名前は
そして、わけも分からないまま
いや、元高校生だ。
Mika Nakashima『雪の華』℗ 2003 Sony Music Labels Inc.
Hyo-Shin Park『雪の華』℗ 2004 OGAM Entertainment