「大丈夫なようだから、少し動かしてみるか」
晧月はそう言うと、舟についた櫂に手をかけ、舟をこぎ始める。
(う、動いた……っ)
水の上に浮いているだけで、重華には驚くべきことだったのに。
晧月の動かす櫂の動きにあわせるかのように、舟は湖の真ん中の方へと進んでいく。
「怖いか?」
「いえ、楽しいですっ」
重華の瞳は、ぱっと輝いた。
(すごい、すごい……っ)
水の上を滑るように進んでいく様子に、重華はくぎづけだった。
舟が進むのにあわせて舟が揺れたりもする、それすらも今の重華には楽しくて仕方がなかった。
「陛下、それ、難しいですか?」
しばらくは、ただ舟が動く様子をまた楽しんでいた重華だったが、だんだんと舟を漕ぐ晧月が気になってきた。
もしかしたら、自分にもできるだろうか、そんな思いから重華は晧月に問いかけてみる。
「ん?難しくはないと思うが……」
重華の視線は、じっと晧月が持つ櫂へと向けられている。
「やってみるか?」
そうして櫂を差し出してみると、またしても重華の瞳が輝いた。
どれもこれも重華にははじめてのことばかりで、興味津々なようである。
しかしながら、現実はそう甘くはなかった。
「あ、あれ……?」
差し出された櫂を受け取って、重華は晧月の見よう見まねで櫂を動かしてみる。
だが、櫂は重華が思っていたよりずっと重かったし、必死に動かしてみても、舟が動く様子は全くない。
(陛下は、難しくないって、おっしゃったのに……)
重たい櫂を動かすだけでも、重華には非常に難しい。
それでも、しばらくがむしゃらに動かしてはみたのだが、やっぱり舟は動いてくれなかった。
その様子を見ていた晧月は、いつの間にか笑い出していて、ようやくそれに気づいた重華は恥ずかしさから顔が赤く染まる。
「これ、難しいです……」
拗ねるように重華が言うと、晧月はまた吹き出すように笑う。
重華はそれを眺めているうちに、頬を膨らませてしまうのを止められなかった。
「悪い、悪い、そう拗ねるな。これをやるから」
晧月は重華から櫂を奪うように受け取ると、代わりとでも言うように持っていた小さな布袋を重華に差し出した。
重華は反射的にそれを受け取ったけれど、意図がさっぱりわからない。
渡された袋と晧月を交互に見た後、重華は首を傾げた。
「開けてみろ」
そう言われて開けてみたが、中身を見ても、やっぱり重華はなんだかわからない。
「あの、これは……?」
「鯉の餌だ」
「これが……」
重華は、人間の食べ物とは大きく異なるそれをまじまじと見つめる。
次いで投げてみよう、と周囲を見渡し、あれ、と思う。
「鯉なんて、見えませんけど……」
どれほど注意深く水の中を覗いてみても、重華は鯉を見つけられなかった。
「まぁ、投げてみろ」
重華は不思議に思いながらも、言われるがままに餌を少し掴んで、水の中に投げ入れてみる。
すると、今までどこかに隠れていたのか、気づけば餌の周囲に複数の鯉が集まり餌を食べていく。
「すごいっ!陛下っ、いました、鯉!食べてますっ!」
「馬鹿っ、危ないっ!!」
重華は興奮のあまり、舟から身を乗り出した。
今にも水の中へと吸い込まれていきそうで、晧月はあわてて腕を伸ばし、重華を抱えるようにしてなんとか止める。
落ちたら助けてやるとは言ったが、だからといって落ちるところを黙って見ていたいわけではないのだ。
とりあえず、重華を元の状態に座らせて、晧月はほっと息を吐く。
「楽しいのはわかったから、あまり身を乗り出すんじゃない。こっちの寿命が縮む」
「も、申し訳、ありません……」
どうやら、はしゃぎすぎたらしい、と重華は反省した。
すっかり落ち込んでしまった重華の頭を、励ますように晧月が撫でる。
「はしゃぐのはいいが、ほどほどにしろ。舟から落ちない程度なら、何をしてもかまわないから」
重華はその言葉に、こくりと頷いた。
「餌、もういいのか?」
問われて今度は、首を左右に振る。
せっかく連れてきてもらったのだから、たった1回で終わりたくはなかった。
そうして、重華は晧月に促されるように、何度も餌を投げ、鯉が餌に飛びつく様子を楽しんだ。
一通り舟の上を楽しみ終え、舟が晧月によって舟着き場へと着けられる。
そして、舟から降りようとしたところで、重華に試練が訪れた。
(こ、こわい……)
舟と舟着き場の間の、わずかな隙間。そこから覗く、水面。
それを越えなければ、舟から降りることはできない。
その隙間はほんとうにわずかで、重華の身体が入るほどの幅もないはずなのに。
それでも、重華は怖くて足を踏み出せずにいた。
(どうしよう……)
晧月は先に降りてしまって、重華が降りるのを待っている。
自分も早く、と焦れば焦るほど、身体は強張っていくような気がした。
「よいしょ」
「え?」
重華の身体がふわりと浮いた。
晧月は恐怖心を覚えている重華を、特に気にした様子もない。
ただ、まるでそうすることが当然かのように、重華の腰に手をかけ重華を持ち上げ、あっさりと舟から降ろしてしまった。
「ほら、行くぞ」
「あっ」
まるで、後ろを振り返るなと言わんばかりに、晧月は重華の手を引き、足早にその場を立ち去ろうとした。
引き摺られるようにして数歩歩いた重華は、晧月の力に負けそうになりながらも、なんとかその場で立ち止まる。
さらに強い力で引っ張られてしまうかもと思ったけれど、晧月は一緒に立ち止まってくれた。
「大丈夫か?」
恐る恐る湖を振り返った重華に、晧月が問いかける。
「はい。もう、怖くないみたいです」
広い湖は、重華の中でとても綺麗な景色に映った。
「苦手を克服したかったのなら、次は猫でも見に行くか?」
ふと猫に怯えていた重華を思い出し、晧月は提案してみる。
しかし、重華はぶんぶんと首を勢いよく横に振った。
湖と猫は、重華の中で苦手の種類が違うらしい。
あまりに必死な様子に、晧月はつい笑ってしまう。
「猫の何がそんなに怖いんだ?」
「な、鳴く時、口が大きくあいて……」
牙が見え隠れしたり、爪が尖っていたり、どうしても見た目が狂暴そうに見えてしまう。
ふわふわとした触り心地は気持ちよかったけれど、俊敏に動く様子もまた、重華は怖かった。
「噛みつかれたりは、しないんだがな」
そうは言われても、恐怖心は簡単にはなくならない。
重華は困ったような表情を浮かべている。
「なら、今日は違うものを見に行ってみよう」
そう言うと、晧月は離宮内にあるとある庭園に重華を案内する。
夏の間滞在していた重華も、その場に来るのははじめての場所だった。
きょろきょろと辺りを見渡し、何かを探す晧月を重華はただ呆然と見つめる。
ようやく何かを見つけたらしい晧月は、白いものを抱えて重華の元に戻ってきた。
その姿が、猫を抱えていた時の晧月の姿と重なり、重華の身体は警戒するかのように強張る。
「安心しろ、猫ではない」
見透かしたかのような晧月の言葉に、重華はふっと全身の力を抜いた。
「これならどうだ?」
そうして晧月が差し出してきたものは、猫と同じく真っ白な生き物だったが、ずっと晧月の腕の中でまるまっていて、猫よりもずっとおとなしそうな印象を受けた。
また、どれほどまじまじと眺めようとも、鳴き声ひとつあげる様子もない。
「これ、は……?」
「これも、はじめてか。これはうさぎだ。猫よりおとなしいだろう?」
確かに、猫よりも恐怖心はないかもしれない、と重華は思う。
まるで人形か何かのように、身動き一つせずおとなしい。
そのためか、重華の手は晧月に促されるまでもなく、自然とうさぎへと伸びた。
(このこも、ふわふわ……あったかい……)
猫同様に、生き物ならではのあたたかな感触がそこにはあった。
「抱いてみるか?」
重華は問われて、少し戸惑った。
恐怖心が、全くないわけではない。
今はおとなしいけれど、重華が抱いてもおとなしいかもわからないのだ。
「大丈夫だ。これも離宮で飼われているから、人を攻撃したりはしない」
そう言われて、重華はようやくうさぎに手を伸ばした。
抱き方を晧月に教わりながら、重華はおそるおそるうさぎを抱っこする。
こうしてあたたかな生き物を抱いたのもまた、重華にとってははじめてだった。
「かわいい……」
その言葉は、自然と溢れ出た一言だった。
少し緊張した様子だった重華は、いつの間にか和やかな笑みを浮かべている。
うさぎに甘えられているような気がして、何度となくうさぎを撫でたりもした。
「気に入ったなら、皇宮に連れて帰って飼うこともできるぞ」
「えっ?」
考えてもみなかったことで、重華は驚いた。
重華はまじまじと腕の中にいるうさぎを、見つめる。
確かに、こうしていつでも触れられるのは、魅力的かもしれないと思った。
「いえ、大丈夫です」
「気に入ったのでは、なかったのか?」
「すごくかわいいとは思います。でも、私、きっとちゃんとお世話できないですし……」
慣れ親しんだ場所から、離れさせてしまうのもまた、かわいそうだと思ったのだ。
「だから、その……また、連れてきて、もらえますか……?」
もうすぐここを離れる予定である。
そうなると、またこうして訪れなければ、重華はうさぎに触れられない。
晧月は重華の珍しいお願いにしばし驚いていたが、すぐに目を細めた。
「ああ。おまえが望むなら、来年も再来年も、夏はここで過ごすことにしよう」
「そ、それなら、その、来年も……舟に、乗れる、でしょうか……?」
「ああ。乗りたいなら、また乗せてやろう」
「あ、あとっ」
「行きたい場所も、やりたいことも、全部付き合ってやるから安心しろ」
そう言うと、重華の顔は本当に嬉しそうに綻んだ。
ここに来たらまたやりたいことも、また行きたい場所も、重華にはたくさんあったのだ。
(来年は……猫も抱いてみたいかも……)
まだ少し怖いけれど、うさぎも抱いたことにより、とてもかわいく思えた。
もしかしたら、猫も……そんな思いが少しだけ重華の中に沸き上がった。
こうして、来年も来る約束をして、重華の避暑地で過ごす日々は終わりを告げたのだった。