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62. 寵愛


 夏もあっという間に半分が過ぎた。

 離宮をあちこち見て回ることは、相変わらずできてはいなかった。

 日々の大半は、絵を描いたり、文字の練習をしたりと、皇宮に居た時と変わらないことをして過ごしたが、重華には不満などなかった。

 それでも、寝殿の傍の庭園ばかりではつまらないだろうと、晧月はたまに離宮の外へと連れて行ってくれる。

 あた、お菓子作りも稀に行うようになり、何か作るたびに晧月が一緒に食べてくれるのも楽しかった。

 重華は離宮での穏やかで過ごしやすい夏を、しっかりと謳歌していた。






「やっと、できたか」


 晧月は今しがた届いたばかりの箱を開け、満足そうに頷いた。

 出来は悪くないようだ、そう思うと早く渡すべき人に渡したいという気持ちが湧き上がる。

 晧月は箱を閉じると立ち上がり、目的の人物を探しに向かった。




「重華っ」


 目当ての人物は、思いのほか早く見つかった。

 日々似たようなことをして過ごす重華を見つけるのは、晧月には非常に容易いことでもあった。

 名前を呼ばれ、何事かと自身に向けられる瞳が愛おしい。

 そんなことを考えながら、晧月は重華へと駆け寄り、自身の持っていた箱を重華に握らせた。


「こ、れは……?」

「開けてみるといい」


 そう言うと、重華はおそるおそる箱を開く。

 しかし、実際に箱を開ける重華よりも、それを待つ晧月の方がどきどきしていた。


「これっ」


 重華は中身を見るや否や、驚いたように晧月を見る。

 晧月はまるで悪戯が成功したかのような、満足そうな表情を浮かべた。

 中に入っていたのは、簪だった。

 しかし、重華はその形状に、とても見覚えがあった。

 祭りの時に晧月に買ってもらった髪飾りと同じ形、けれどあのように質素なものではない。

 金で作られ、宝石が散りばめられたそれは、形こそ同じだが、ずっと豪奢なものへと変わっていた。


「あれは宮中では着けられない。だが、それなら、いつでも着けられるからな」


 なかなか使う機会に恵まれない髪飾りを、重華は非常に残念に思っていた。

 それを気にして用意してくれたのだと思うと、嬉しくて仕方がなかった。


「ありがとうございます、大切にします」


 箱に入った簪を嬉しそうにぎゅっと抱きしめる重華を見ていると、晧月は用意した甲斐があったと思う。


「ひょっとして、あの時の絵……」

「ああ。最初は髪飾りを借りようと考えていたんだ。だがそうすると、しばらくそなたの手元から離れることになるからな。ちょうど髪飾りの絵を描いてくれていてよかった」


 絵を描いたのは、たまたまだったけれど。

 それで、髪飾りをずっと手元に置いておけたのだと思うと、描いていてよかったと重華も思う。


「絵は返した方がいいか?」

「ど、どちらでも……」


 別に描いた絵は、重華には大事なものではない。

 不要になったのなら、捨ててもよいものだ。

 重華はいつだって、描く過程を楽しんでいるのだから。


「なら、あれは俺がもらおう」


 そんなものをどうするんだろう。

 晧月が絵を持って行くたび、何度となく浮かんだ疑問だった。

 けれど、晧月が嬉しそうだったから、重華は追及しないことにした。




(やっぱり、私、とても大切にされているみたい)


 贈られた簪をまじまじと見ながら、重華は思う。

 晧月は重華をよく見てくれているし、重華のことをよく考えてくれている。

 重華はそれを、ひしひしと実感させられていた。


「あ、あの、陛下っ」

「ん?なんだ?」


 ふと、重華の中に浮かんだ疑問があった。

 いろいろと、実感させられたからこそ、浮かんだ疑問だ。

 それを勢いのままに口にしようとした重華は、我に返り口を噤む。


(聞いて、どうするの……)


「な、なんでも、ありません……」

「言え。そこで止められると、余計気になる」


 確かに、そうかもしれない、と重華も思う。

 最初から言わなければ、気にされることはなかっただろう、そう後悔しても、もう遅い。

 晧月の視線が逃げることを許してくれなさそうで、重華は仕方がないと逃げることを諦めた。


「あ、あの、その……わ、私は、本当に、その……」


 晧月は根気強く重華の言葉を待つ。

 急かしてしまえば、その言葉を飲み込んでしまいそうにも感じたから。


「陛下の……、寵妃ですか……?」

「もちろんだ」


 自分で言うのは憚られながらも、重華が何とか口にした言葉を晧月は間髪いれずに肯定した。

 重華は、顔を赤らめ、恥ずかしそうに俯く。


「聞きたかったのは、それだけか?」


 重華は首を横に振る。

 もちろん、これも聞きたかった。

 すごく大切にされている、そう感じることが、晧月の寵愛の証なのかもしれないと、重華は思い始めていたから。

 しかし、大事なのは、もっと重華が聞きたいと思っていることは、この先にあるのだ。


「なら、陛下は、どうして私に夜伽を命じないのですか?」


 重華の知識は非常に乏しいけれど、皇帝の寵妃ならば夜伽を命じられるということくらいは知っている。

 けれど、晧月は重華に好きと告げた後、どれほど重華を喜ばせ大切にしようとも、夜伽を命じるような気配さえなかったのだ。

 晧月は重華のこの問いかけに、少しばかり狼狽えた。

 だが、必死に自身の中にある冷静さをかき集めるかのようにして、なんとか自分を落ち着かせる。


「夜伽が、したいのか?」


 晧月が問いかければ、重華はびくりと肩を揺らす。


(こわい)


 それが、重華の中に真っ先に浮かんだ言葉だった。

 勉強らしい勉強をしてこなかった重華に、夜伽というものがどういうものなのか教えてくれた人などいなかった。

 なんとなく、こういうものなのだろう、と想像をしているだけ。

 具体的なことなど何もわからず、だからこそとても怖かった。


「今、何を考えているか、なんとなくわかる。俺が、命じないのは、それが理由だ」

「えっ?」

「俺はおまえに無理をさせたいわけではないし、できれば何も命じたくない」


 重華は驚き目を見開いて、晧月を見つめる。


(私が、こわいって思ってることを、知ってるの……?)


 心の中で問いかけたところで、答えなんてもちろん返ってこない。

 けれど、こわいと思っていることを自ら明かすことはできなくて、その質問は口にできなかった。

 これだけたくさんのことをしてもらって、それでも恐れていると口にすれば、嫌われてしまいそうな気がしたのだ。


 晧月は皇帝なのだから、命令する権利がある。

 皇帝に夜伽を命じられれば、妃は普通はそれを断れない。

 だから、重華は、自身がそれを命じられないということは、そこまで寵愛を受けているわけではないということだと考えていた。

 けれども、必ずしも、そうではないのかもしれない、と思い始める。


「だが、あんまり煽ってくれるなよ?」

「へ?」

「俺も男だ、抑えがきかなくなるかもしれん」

「抑えがきかないと、どうなるんですか……?」

「試してみるか?」


 晧月との距離が、ぐっと近くなった。

 自身を見つめるその目が、どこかいつもと違って見える。

 なんだか少し怖いような気がして、重華は慌てて首を左右に振った。

 すると、晧月がくすっと笑う。


「大丈夫だから、そう心配するな」


 晧月はすぐに距離を取り、安心させるように重華に微笑みかける。

 頭を撫でられると、先ほどまでの怖いような気分もなくなった。

 けれど、その微笑みを見ていると、重華はなんだかきゅっと胸が苦しくなるような気がした。

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