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58. お祭り


 重華は数日ほど、寝殿から出ることなく過ごした。

 他の妃嬪たちと会えば面倒なことになりそうで、寝殿から出るのが憚られたというのもある。

 だが、寝殿内にも庭園はあるし、そこから出なくとも退屈しなかったこと。

 それから、山道を歩いたためなのか、しっかりと筋肉痛に苦しんでいた、というのが主な理由だった。

 重華は知らなかったけれど、今回の避暑には柳太医も帯同してくれており、重華の筋肉痛に効く貼り薬を処方してくれた。


 また、その数日間、重華と晧月が過ごす寝殿にて、おなじみの光景となったのが……


「おはよう、重華」


 毎朝、優しい笑みを浮かべて重華に声をかける晧月と。


「お、お、お……おはようございますっ」


 顔を赤くして、晧月を避けるように逃げ出す重華の姿だった。


 時間が経つにつれて徐々に平気になっていき、昼には向かい合って食事を取り、夕方にはともに庭園で過ごしたりできるようになっているのだ。

 それなのに、毎日朝になると、まるで振り出しに戻ったかのように、晧月を直視できなくなっている。

 ここ数日、重華の中ではずっとそんな日々が続いていた。

 そしてまた今朝も、重華は逃げ出した。

 そんな重華の背中を眺める晧月が、いつもとても機嫌がよく楽しそうであることに、未だ気づくこともないままに。




 だからなのか、その提案が行われたのは、ちょうど重華の筋肉痛も治った頃の、ある昼食時のことだった。


「祭りに行かないか?」

「お祭り、ですか……?」

「ああ。近くの街で行われるんだ。夜市も開かれて、賑やかだぞ」


 重華はそういったものに、出かけた経験はない。

 だから、あくまで想像ではあるものの、そういった場所には多くの人々が集まるはずだ。

 そんなところに皇帝が現れたら、大騒ぎになってしまいそうな気がした。


「そ、そんなところに行って、大丈夫なのですか?」

「ああ。民衆に紛れて出かければ、何の問題もない。少し離れたところに、念のため警護の者たちも配備するから、危険もないはずだ」


 そこまですれば、確かに大丈夫そうな気はする。

 けれど、重華が行ってみたいというだけのために、多くの人が動かなければならないのだとすると、重華は申し訳ないような気持ちになる。


「街の視察も兼ねているんだ。おまえを連れて行くのは、そのついでだ」


 ついでならば、いいのかもしれない。

 そんな気持ちが重華の中に湧き上がった。

 話が出た瞬間から、重華は興味を惹かれていたのだ。


「ご迷惑でないのなら、行ってみたいです」


 晧月の視察の邪魔にならないのなら。

 そんな思いで言った言葉は、とてもか細い声だったけれど、晧月にしっかりと届いた。

 晧月は、満足そうに笑ってみせる。

 ついでなのは、本当は視察の方だったということを、重華が知ることはなかった。






 その日、重華は後宮で着るような華美なものではなく、庶民が着るような簡素な着物を用意してもらった。

 それでも、かつて後宮にくる前の重華が着ていたよりもはるかに良質で、そのような着物に袖を通すのも、同様に簡素な着物を身に纏った晧月を見るのも重華にとってははじめてで、それだけでわくわくする気持ちを止められなかった。


(わぁ、人がたくさん……)


 夜市には店がたくさん並び、真っ直ぐあるくのも大変そうに思えるほど、人で溢れかえっていた。

 そんな賑やかな様子を眺めることもまた、重華にとってははじめての経験で、すっかり浮かれてしまっていたのかもしれない。


「はぐれるなよ」


 晧月がそう言って重華の手を取ろうとした時には、重華の姿はもうそこにはなかった。




「お嬢さん、見て行かないかい?」


 重華は興味深く辺りを見ているうちに、あっという間に晧月と離れてしまっていた。

 慌てて戻ろうとしたけれど、人の多さに思うように進めず、流されるままに今の場所に来てしまい呆然としていた。

 そんなところに、店番をしているらしい中年の女性から声がかかる。

 声に導かれるように店の売り物に目を向けると、皇宮で見るような豪奢なものとは違い、質素だけれどかわいらしい装飾品が並んでいた。


(わぁ、すてき……)


 重華は引き寄せられるように、その中の1つを手に取った。

 晧月にもらったような宝石が輝く装飾品とは違う、布で作られた花を形どった髪飾り。

 いつも身につけているものより、はるかに見劣りするはずなのに、妙に引き寄せられるものがあった。


「それが気に入ったのかい?お嬢さんかわいいから、おまけしてあげようか」


 まじまじと手に取って見ていると、中年の女性からそんな声がかかり、重華は一瞬にして血の気が引くような感覚を覚えた。


(どうしよう、私、お金なんて持ってないのに……)


 安易に手にとってしまったことを、重華は非常に後悔した。

 こうして手に取ってしまえば、買うのだと勘違いされても仕方がない。

 図らずも冷やかしのようなことをしてしまった気がして、重華は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「ご、ごめんなさい、私……っ」

「いくらだ?」

「え……?」


 とにかく女性に買いそうな雰囲気を見せてしまったことを謝罪しよう、重華がそう考えて頭を下げようとしたところ、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。

 慌てて見上げると、珍しく少し息があがった様子の晧月の姿があった。


「へい……っ」


 陛下、と呼びかけようとすると、それを阻むように晧月の手が重華の口を塞ぐ。


「陛下はまずい。ここでは、そうだな……『コウ』とでも呼べ」


 晧月、でもよかったかもしれないが、その名から皇帝を思い浮かべてしまうものもいるかもしれない。

 念には念をと考えて、重華の耳元で小さな声でそう言えば、重華は何度もこくこくと頷いた。


「で、いくらだ?」


 再度晧月が問えば、中年の女性が2人の様子をにこにこと眺めながら金額を告げる。

 晧月は言われた金額よりも多めの金を女性に握らせて、重華が手にしている髪飾りを買い取った。


「へい……じゃなかった、コウ、様……?あの、私、そんなつもりじゃなくて」


 女性には申し訳ないけれど、ただ見ていただけで、買うつもりも買わせるつもりも重華にはなかったのだ。


「だが、手に取るくらいには、気に入ったのだろう?」


 そう言うと晧月は重華の手の中にあった髪飾りを手に取り、重華の頭へとつけてやる。

 ふふっと笑う女性の声が、聞こえた。


「よかったわね、お嬢さん。素敵な旦那様がいて」

「ち、ちが……っ」


 旦那様、という言葉を反射的に否定してしまった。

 だがすぐに、重華は晧月の妃なのだから、間違っていないのかもしれないと思い直す。

 けれど、皇帝を旦那様と表現するのは、恐れ多くて憚られてしまった。

 女性はあら、と首を傾げ、晧月はというと、一瞬にして不機嫌な顔つきとなった。

 しかしながら、重華はそんな晧月の表情には気づかない。


「おや、恋人だったかい?」

「旦那だっ」


 ぴしゃりと言い放つと、晧月は重華の手を引き足早に歩きはじめる。

 重華は引っ張られながら、その後を追いかけた。




「まったく、俺の元に輿入れしたのを忘れたのか?」


 先ほどの店から少し距離が離れたところで、晧月からどこか恨みがましいような視線が向けられる。


「そ、そういうわけではなくて、その、あの、皇帝陛下を旦那様だなんて、恐れ多くて、その……」


 後半はなるべく周囲に聞き取られないないように、周りを意識しながら殊更小さい声で重華は話した。

 それでも、晧月の耳にはしっかり届いており、その内容も晧月の予想の範囲内のものだった。


(そんなことだろうと思ってはいたが……)


 それでも、即座に旦那だということを否定されたのは、やはり面白くなかったのだ。


「まぁ、いい。とりあえず、無事でよかった」


 その一言に、重華はとても心配させてしまったのだと感じた。


(さっき、息が上がっていたのは、もしかして……)


 山道を歩いたって息が乱れる様子など見せなかった晧月が、先ほど重華の前に現れた時は、息が上がっていた。

 自身を探すためにそれほど大変な思いをさせたのかもしれない、そう思うと重華は非常に申し訳ない気持ちになった。


「申し訳ありません……気づいたら、その、陛下と離れてしまっていて、すぐに戻ろうとしたんですが……」


 重華はしゅんと肩を落とした。

 人混みに流されたのだろうことは、晧月にも想像がついた。

 これだけの多くの人の中を歩くことに慣れていないだろうこともまた、理解はしている。


「もういい。これからは、はぐれるなよ」

「は、はいっ」


 せっかく祭りまで連れてきて、いつまでも落ち込ませてはいたくなかった。

 もう離れてしまわないようにと強く重華の手を握り直せば、重華もそれに応えるかのように晧月の手をを握り返した。

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