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54. 散策

「皇太后陛下に、ご挨拶いたします」


 重華は晧月の言葉通り、晧月とともに皇太后が過ごす寝殿を訪れた。


「立ちなさい」


 膝をつき頭を下げて礼をした重華に、皇太后から声がかかり重華はゆっくりと顔をあげた。

 立ち上がろうとする重華に手を貸したのは、春燕と雪梅から差し出される手を退けた晧月だった。


「あら、思ったより仲がよいのね」


 そう言うと、皇太后は値踏みするかのように、立ち上がった重華を上から下までじっくりと見つめる。

 重華は居たたまれない気持ちを抱えながら、俯いてただじっとその視線に耐えていた。


「なるほど。たしかに、身体が弱そうね」


 痩せていてどこか頼りなさげな重華の出で立ちは、皇太后から見て今にも倒れそうなほどか弱く映った。


「あ、あの……その、申し訳……」

「即位して以降、面倒だと言ってどれほど周りが薦めても避暑になんて向かわなかったのに……」


 重華は反射的に頭を下げて謝罪しようとしたけれど、それを遮るかのように皇太后が言葉を続けたので重華は顔を上げた。


「今年は突然避暑に向かわれると仰るから、何事かと思えば……全て、あなたのためだったのね」

「え……?えっと……」


 確かに、間違ってはいないのかもしれない。

 重華が暑さにすっかりやられてしまっている様子を見て、晧月は避暑を提案してくれた。

 もし、重華が望んでいなかったら、避暑には来ていなかったのかもしれない。

 けれど、皇太后の言葉は、まるでそれだけ重華が晧月にとって大切な存在だとでも言われているような気がして、とてもではないが重華には肯定などできなかった。

 重華は、困ったように晧月に視線を向ける。

 しかしながら、晧月もまた肯定をすることもなければ否定することもない。

 ただ、曖昧に微笑んでみせるだけだった。


(本当に、私がそれくらい大切にされていたらいいのに……)


 重華の中にふっとそんな考えが浮かんで、慌ててその考えを自身から追い払った。


(今だって十分幸せなんだから、これ以上望んじゃ駄目……)


 やっぱり自身は後宮で過ごすうちに、とても贅沢になってしまったらしい。

 そんなことを思いながら、重華は自分自身を戒めるように、何度も心の中で言い聞かせていた。


「あまり、陛下を困らせないようにしなさい」

「き、肝に銘じます……」


 続いた皇太后の言葉が、まるで重華の心中を見透かしたかのようで。

 重華はびくりと肩を揺らしながらも、その言葉に頷いた。




 思いのほか短い時間で済んでよかったと、重華はほっと息を吐きながら皇太后の寝殿を後にした。

 晧月とともに一緒に来てくれた春燕と雪梅は、仕事があるからと先に寝殿へと戻ってしまい、いつしか晧月と2人きり。

 急ぎ足で去った2人とは違い、重華と晧月はゆっくりと歩みを進めていた。


「皇太后陛下のお言葉は、あまり気にするな」

「は、はいっ」


 重華は反射的に頷いた。


(どれのことを、言っているのだろう……)


 その意図を、全くもって理解はできていなかったけれど。


(やっぱり……)


 それでも、思い至ることはあった。

 けれど、重華はそれを晧月に確認する勇気はなかった。


「皇太后陛下と陛下は、仲がよいのですか?」

「どうだろうな……」


 即座に否定されない様子に、丞相である自身の父よりはずっと良い関係性なのだろうと重華は思った。


「仲のいい親子、とは言えないかもしれない」


 お互い自身の地位を守るための、協力関係にあることは否定できない。

 皇帝と皇太后という関係でなかった時も、それはたいして変わらなかったような気がする。


「とても厳しい方だった。だが、教わったことは全て、皇帝になってから非常に役に立っている」


 実の母では教えられなかっただろう、皇帝に必要な教養もたくさん叩きこんでもらった。

 晧月はその点に関してのみは、非常に感謝している。

 確かに晧月の言うように、仲のいい親子とは少し違うのかもしれない。

 けれど、そういった関係性も素敵だと重華は感じた。




「ほら」


 手を差し出され、重華は当たり前のように自身の手を重ねた。

 すると、晧月はその手を握りくすりと笑う。


「もう、躊躇することはなくなったな」

「あ……」


 いつからだったか、重華も思い出せない。

 重華自身も無意識だったけれど、言われてみれば、以前のように途中で手が止まることはなくなっていた。


「あの軟膏の効果は確かだったようだ」


 晧月に言われた通り、重華はしっかりと毎日使ったようだ。

 痛々しいほど荒れていた重華の手は、見違えるほど艶やかで美しくなった。

 晧月は重華の手を自身に引き寄せると、満足そうにその手を眺めた。


「この先に、湖があるんだ。少し、寄って行かないか?鯉に餌もやれるし、船にも乗れるぞ」

「は、はい」


 忙しい中、重華の挨拶に付き合ってもらったのに、政務は大丈夫なのだろうか、そんな考えも重華の中には浮かんだのだけれど。

 魅力的な言葉の羅列に、行ってみたい気持ちが勝り、重華は頷いてしまった。

 そう、この時は、とても興味があって惹かれていたはずだった。

 しかしながら、湖が目に入る距離まで来たところで、重華の意思に反して重華の足は全く動かなくなってしまった。


「重華?」


 晧月が不思議そうに重華を振り返る。

 待たせてしまっている、急いで進まなければ、そう思うのに重華の足は動いてくれない。

 それどころか、なぜか身体が震え出してしまう。


「すまない、朕の考えが足りなかった」

「え……?」

「前に、池に落ちたんだったな。水が怖いのだろう」


 言われて、重華は目を見開く。

 確かにそんなことが、以前あった。

 けれど、重華自身、思い至らないくらい、もう忘れてしまっていたはずだった。


「身体が覚えているんだろう。湖はやめて、向こうに行ってみるか」

「で、でも……っ」

「そなたが喜ぶかと思っただけだ。朕が鯉に餌をやりたかったわけでも、船に乗りたかったわけでもない。気にするな」


 重華が何も言わずとも、全てを理解したかのような言葉ばかりが降ってくる。

 優しく微笑まれると、なんだか泣きたいような気持ちになった。

 けれど、そんな気持ちを追い払うかのように、第三者から2人に対して声がかかった。


「陛下と珠妃様に、ご挨拶いたします」


 まるで、機会を狙っていたかのように、突如晧月と重華の前に現れた妃嬪2人。

 この瞬間に現れたということで、全ての意図が見えるような気がして、晧月は舌打ちしたい気持ちをなんとか耐えた。


「楽にせよ」


 ずっと頭を下げさせたままでも、晧月はよかった。

 しかしながら、重華がとても気にしそうだったため、晧月は顔を上げさせる。

 上がった顔をまじまじと見ても、残念ながら、晧月は目の前の妃嬪が誰だったかは思い出せなかった。


「お二人も、湖に行かれるのですか?」

「わたくしたちも、湖を見に行きたいと思っておりました。もしよろしければ、ご一緒に……」


 予想通りの言葉に、晧月は心の中で舌打ちをする。

 それから、2人の言葉を遮るように口を開いた。


「湖に興味があるなら、行ってくるといい。ちょうど朕たちは、行先を変更したところだ。今なら誰にも邪魔されず、ゆっくりできるぞ」


 そう言うと、晧月は重華の手を引いて少し速足で歩きはじめる。


「え?あの……っ」


 目論見が外れてしまった妃嬪たちは、慌てて晧月を引き止めようとした。

 しかしながら、すでに湖を見に行きたいと行ってしまった上に、晧月と重華の向かう目的地もわからない。

 さらに晧月にあのように言われてしまっては、追いかける理由もなく、引き止めることも追うこともできなかった。


(まったく、油断も隙もあったもんじゃない)


 重華と2人でいるところに、あえて絶好の機会だとでもいうように近づいてくる様子に晧月はうんざりとした。

 目的地も何もないが、とにかく今は先ほどの2人から少しでも離れたい。

 そう思いながら、ただひたすらに足を動かし続けていた時だった。


「きゃあっ!」


 突然重華から悲鳴があがり、勢いよく抱きつかれることによって、晧月は足を止める。


「どうした?」

「い、今、そこで、白いものが、動いて……っ」


 重華は、何か白いものが勢いよく茂みに飛び込むのを目撃した。

 得体のしれないものに怯え、晧月にしがみついて震えている。


「白いもの……?」


 晧月は少し考えて、すぐに重華が目撃しただろうものに思い当たる。


「ああ。大丈夫だ。だから、落ち着け」


 晧月にそう言われるだけで、重華は心が落ち着くのを感じた。

 同時に、自身のとんでもない行動にも気づき、慌ててぱっと晧月から離れる。

 晧月はほんの少しそれを残念に思いながら、重華が指し示した方へと歩みを進める。


「へ、陛下、危ないですっ」

「大丈夫だ」


 心配そうな重華の視線を背に、晧月は茂みの中を覗き込み、目的のものを見つけて抱え上げた。


「ほらっ」

「ひゃあっ!!」


 見つけたものを重華の目の前に差し出せば、重華は怯えたように悲鳴をあげ、後ずさる。

 晧月はその様子に苦笑しながら、手の中のそれを抱えなおした。


「落ち着け、ただの猫だ」

「ね、猫……?」


 怯えて背けた顔を再度晧月の方に向けると、真っ白なそれが大きく口を開き、にゃあと声をあげる。

 その様子に、重華はまたびくりと肩を震わせた。


「もしかして、はじめて見るのか?」


 問われて重華はこくりと頷く。

 その瞳は、恐怖からなのか若干潤んでいるようだった。


「この猫は、この離宮で飼われている猫だ。女官が世話しているから人慣れしているし、きちんと躾けられているから、人を攻撃したりもしない。だから、大丈夫だ」


 猫を見たことがなかったことに多少驚きながらも、晧月は重華を安心させるように声をかける。

 それからゆっくりと近づくと、また少し肩が震えたが、今度は後ずさるようなことはしなかった。


「ほら、触ってみろ」


 猫を抱きかかえたまま、重華の目の前まで距離を詰めた晧月を、重華はしばし困ったように見つめた。

 けれど、恐る恐る手を伸ばし、猫に触れてみる。


(ふわふわで、暖かい……)


 それは重華が今まで触れてきたどんなものとも違う、生き物ならでは感触。

 心地よくて、重華はしばらく猫を撫で、そんな重華を晧月は微笑まし気に眺めていた。

 しかし、また猫がにゃあと鳴き声をあげると、またしても重華はびくりと震え、ぱっと手を放して後ずさってしまった。


「抱いてみるか?」


 晧月は苦笑しながらも、重華に猫を差し出してみる。

 すると、重華はぶんぶんと左右に首を振った。

 この辺りが限界らしいと感じた晧月は、特に重華に何かを強要することなく、元の茂みへと猫を返した。


「だいたいいつもこの辺りにいるはずだ。気になったら、また見に来るといい」


 そんな日が来る予感は全くしなかったけれど、重華はとりあえずこくりと頷いておいた。


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