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53. 移動

 あれよあれよと言う間に、避暑へと向かう準備が進められた。

 離宮へは、重華が想像していたよりずっとたくさんの人が移動するらしい。

 目の前に並ぶたくさんの馬車、それから集まったたくさんの人々に重華はすっかり圧倒されていた。


「馬車に乗るのもはじめてか?」

「い、いえ、輿入れの時に、乗せてもらいました」


 晧月の問いかけに、重華は首を振りながら当時のことを思い起こす。

 重華が乗せてもらったのは、決して、今、重華の目の前に並んでいるような、立派な馬車ではなかった。

 窓もなく、荷物を運ぶためだけの薄暗い荷車のような馬車の中で、重華はただただ不安に震えながらここへ連れて来られたのだ。


(確かに、ここへ来るのは徒歩では無理か)


 おそらく、着飾らせてから移動したのだ。

 丞相の家から皇宮までは、そう近い距離でもない。

 さすがに輿入れする娘を馬車に乗せずに連れてくるのは、不可能だっただろう。

 それが、決して粗末な馬車だったというところまで晧月は想像できなかったものの、重華の言葉には納得していた。


「珠妃様、馬車の準備ができましたので、ご案内いたします」


 1人の宦官が重華の前で、深々と頭を下げた。

 重華もつられるように頭を下げて、宦官に従って用意された馬車へと向かおうとした。

 しかし、晧月の手がそれを止めるかのように、重華の手を掴んだ。


「珠妃と、珠妃の侍女たちは、朕の馬車で移動する。案内は不要だ」

「え……?」


 驚いたのは、重華だけだった。

 重華を迎えに来た宦官は、顔色一つ変えることなく、かしこまりましたと頭を下げてその場を去った。


「ほら、そなたはこっちだ」


 そう言うと、晧月は自身の馬車のある方へと導くように重華の手を引く。


「あ、あの、よろしいんですか?」

「ああ。朕の馬車の方が、乗り心地はいいはずだ」


 そりゃあそうだろう、と重華は思う。

 皇帝が乗る馬車よりも良い馬車なんて、用意されているはずがない。

 そんな馬車に乗せてもらえるのは、重華としては非常にありがたいし、文句なんてないのだけれど。

 誰にも邪魔されず、1人で乗りたいものなのではないかと重華は心配になる。


(寵妃だと、見せるため……?)


 周囲には、妃嬪らしき姿もある。

 そういった意図があるのだと考えれば、納得もできた。


「よろしく、お願いします」


 重華はそれ以上は深く考えず、晧月に導かれるままに晧月の馬車へと乗せてもらった。


「たくさんの人が、行くんですね……」


 馬車に乗り込んだものの、他の人たちはまだ移動の準備に追われている。

 春燕や雪梅もまだ荷物を運んだりしているようで、出発はもう少し先になるらしい。

 とても大がかりな準備の様子を眺めながら、重華はぽつりと呟いた。


「ああ。さすがに2人だけで避暑へ向かうというわけにはいかなくてな。他の妃嬪たちも同行する。嫌、だったか?」


 問われて重華は慌ててふるふると首を左右に振った。

 重華としては、暑さから逃れられる場所に連れて行ってもらえるというだけで満足だった。

 それに、そういった場所ならば、みんな行きたいだろうとも思う。


「そうか、ならよかった」


 重華の様子に、晧月はほっと息を吐いた。

 大勢だと困ると言われたところで、こればかりは晧月にもどうすることもできない。

 妃嬪が同行すれば、それに伴い、どうしてもそこに同行する宦官や女官等の数も増えてしまうもの。

 かといって、他の妃嬪を同行させないという選択肢は、さすがの皇帝でも難しかったのだ。


「それから、今回の避暑には皇太后陛下も同行される。向こうに着いたら、一度くらいは挨拶しておいた方がいいかもしれんな」


 共に離宮で過ごすことになるのだから、後々面倒なことにならないためにも、と考えての一言だった。

 しかしながら、晧月の言葉を聞いた途端、重華の顔は一気に青ざめてしまって、晧月は苦笑する。


「そう青くなるな。朕も一緒に行ってやる。皇太后陛下もあまり頻繁に妃嬪からの挨拶を望むような方ではない、一度行っておけば後は変に呼び出されるようなこともないはずだ」


 むしろ行かなかった方が、後で呼び出されてしまうかもしれない。

 そうなれば、晧月が同行できるかもわからない。

 晧月が一緒に行くというのが重華に安心をもたらしたのか、重華の表情は少しだけ和らいだものとなった。




(まるで、子どもみたいだな)


 隣で、瞳をきらきらと輝かせながら窓の外を見つめる重華を見ながら、晧月は思う。

 馬車の移動に伴い流れていく景色がよほど珍しいのか、重華の視線はくぎづけだった。


「雪梅さん、雪梅さん、あれはなんですか?」

「ああ、あれはですね……」


 不思議そうに重華が眺めていたものを、たまたま雪梅が気づいて説明したのがきっかけではじまったこんなやり取りも、もう何度となく繰り返されている。


「陛下っ、見てください、あれっ!」


 そうして重華が指差す先に見えるのは、さして珍しくもない花が、風に揺られる様子だけ。


「あ、陛下っ!あっちには……っ!!」

「わかった、わかった。朕もちゃんと見ているから、落ち着け」


 次に指し示した先では、大木の傍で数名の子どもが遊んでいる。

 たいして珍しくもない光景ばかりを指差しては、重華は晧月に声をかけてくる。

 些細な光景の一つ一つが、重華には特別に映るらしい。

 終始はしゃいでばかりの重華に苦笑しながらも、晧月は適当にあしらうようなことはせず、しっかりと重華の視線の先を追いかけた。


(移動中、退屈するかと思ったが……)


 離宮までの道のりは長く、移動にはどうしても時間がかかる。

 ずっと馬車の中では時間を持て余すのではないかと晧月は当初心配していたのだが、重華の今の様子を見る限り、そんな心配はなさそうだった。

 そして、晧月もまた、そんな重華を見ている限りは退屈しなさそうだと思った。






「うわぁ、本当に涼しい……」


 皇宮での暑さが嘘のように、とても過ごしやすい気温に重華はただただ感動した。

 長時間かけて、といっても重華にとって馬車で過ごす時間はあっという間だったけれど、わざわざ移動してくるだけの価値のあると思えた。

 ここで過ごす夏ならば、きっと快適だろう。


「まず、そなたと朕の過ごす寝殿に案内しよう。移動で疲れただろうし、少し休むといい」

「え……?私と、陛下……?」


 まるで同じ寝殿で過ごすみたいだ、という重華の推測は当たっていた。


「大丈夫だ。部屋はたくさんある」


 聞けば、離宮では他の妃嬪たちも数人で同じ寝殿を使ったりもするようだった。

 しかしながら、皇帝ならば1人で使う権利もあるだろうと重華は思う。


(これも、寵愛しているように見せるため……?)


 つい、重華は周囲の人々の視線を気にしてしまう。

 重華は気にならないけれど、晧月は1人でゆっくりしたいのではないだろうか。

 ここまでする必要はないのではないか、そんな思いを抱えながら、重華は手を引かれるがままに晧月と一緒に使うらしい寝殿へと向かった。


(本当に広い……)


 重華からすれば、琥珀宮だって広い寝殿だったけれど。

 比べものにならないくらい、案内された寝殿は広く豪華だった。


(これなら、離れた部屋を使えば、そこまで気にならないのかもしれない)


 重華の中にはそんな考えも浮かんだ。

 けれど、重華と晧月がそれぞれ使う寝室は、重華が思うほど離れた場所でもなかった。


「今日はこのままゆっくりして、皇太后陛下のところには、明日伺うとしよう」

「明日で、大丈夫なのですか?」

「ああ、皇太后陛下だって、長旅で疲れているだろう。今日はゆっくりされたいはずだ」


 そう言われると確かに、と思い重華はこくりと頷いた。


「では、朕は政務があるから、また後でな」

「え?ここでも、政務を……?」

「当然だ。避暑に来たからと、政務を止めるわけにはいかんだろう」


 言われて、それもそうだと重華は思う。

 晧月から聞いた話だと、少なくとも夏の間はずっとここで過ごす予定のようだった。

 その間、ずっと皇帝が政務を行わないとなれば、あちこちで大変なことが起きてしまいそうだというのは、政治に疎い重華であってもなんとなく想像はできた。


(皇帝って、とても大変なのね……)


 とても自身には、真似できそうにない。

 避暑に来ても、のんびりすることもなくすぐさま政務に励む晧月を見て、重華は改めて皇帝とはとても偉大な存在なのだと思い知った。

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