季節はあっという間に移り変わり、初夏を迎えた。
庭園にも夏を象徴する花が咲き乱れ、景色も随分と様変わりしたが、重華はあまり変わり映えのしない穏やかな日々を享受していた。
しかしながら、外へ出て絵を描く頻度だけは、各段に減ってしまった。
(暑い……)
晧月に貰った香袋も、心は落ち着かせてくれても、暑さまでは取り払ってはくれなかった。
こんな中、掃除だ洗濯だとかつてのように働かされないという点だけは、非常にありがたいのだけれど。
だからといって、暑さを感じなくなるということはなく、夏が来れば後宮でもしっかり暑いのだと、重華はまざまざと思い知らされていた。
(何もしたくない)
救いなのは、重華がそう願う限り、誰も何も強要して来ないことである。
ただ一人を除いては……
「また今日も引き籠っているのか?」
暑さに負けて、寝台にぐったりと寝そべる重華を、上から覗き込むように晧月が声をかける。
重華が慌てて起き上がろうとすれば、晧月はそれを助けるように腕を引っ張ってくれた。
「だって、外はとても暑くて……」
重華は、困ったように晧月を見上げた。
本来なら皇帝へ行う挨拶も、いつしかしないことが当たり前となった。
挨拶をしようとすらしなくとも、晧月は文句を言うことも不快感をあらわにするようなことはなかった。
「食事は?」
問われて、重華は俯く。
あまりの暑さに、最近では食事量もすっかりと減っていたのだ。
春燕と雪梅が暑い日でも食べやすい食事を必死に考えてくれているのは、重華もよく知っている。
それでも、なかなか食べ進めることができなかった。
「また、食べてないのか」
深くため息をつく晧月を、重華はどこか不思議そうに見つめる。
重華と違い、つい先ほどまで外にいたはずの晧月は、重華よりもずっと涼し気な表情を浮かべている気がした。
(陛下は暑さを感じないのかしら……)
それは、晧月に限ったことではない。
春燕や雪梅も、変わらずいつも通り働いているようにしか見えない。
重華は自分だけが暑さを感じていると、勘違いしてしまいそうだった。
「今日は、そなたが食べられそうなものを持ってきた。今、準備させているから、こっちへ来い」
晧月はそう言うと、重華を引っ張り上げるように立ち上がらせる。
重華はあれよあれよという間に、晧月によって寝室から連れ出された。
「これは……?」
「桃だ、食べたことないのか?」
問われて重華はこくんと頷いた。
(桃って、確か、すごく貴重な果物なんじゃ……)
重華は決して詳しくはないけれど、それでも高貴な人でもなかなか食べられないと聞いたことがあったような気がしたのだ。
「私が食べても、いいんですか……?」
「当たり前だろう。そのために持ってきたんだ。よく冷やしてあるから、食べやすいはずだ」
晧月はそういうと、一切れ手に取り、重華の口元へと運ぶ。
「あ、あの、自分で……」
「ほら、早くしろ、腕が疲れる」
そう言われてしまうと、急いで食べるしかなくて、重華は慌てて晧月の手から桃を食べた。
(冷たくて、甘くて、おいしい)
これは貴重なはずだ、と重華は思う。
暑さゆえ何も食べたくないと思っていた重華でさえ、いくらでも食べられてしまいそうだった。
美味しくて、これこそまさにほっぺたが落ちそうだという感覚なのだと、重華は自身の頬に手をあてながら思った。
「口に合ったようだな」
「はいっ、とてもおいしいです」
にこにこと笑う重華の口元にまた桃を近づければ、重華は顔を赤らめたもののまたぱくりと晧月の手から桃を食べた。
そしてまた幸せそうに笑うのが楽しくて、晧月は何度もその行為を繰り返していた。
「陛下は、食べないのですか?」
いつの間にか、皿に盛られていた桃は半分ほどに減ってしまった。
けれど、晧月は自身の口にそれを運ぶことはなく、ただひたすらに重華に差し出してくる。
「朕はよい。いいから、食べられるだけ食べておけ」
何も食べず倒れられても困る、と言われてしまえば重華には体調を崩した前科がありすぎて反論の余地もなかった。
その後も、晧月に運ばれるままに桃を食し、気づけば皿に盛られていた桃はきれいさっぱりなくなってしまった。
(全部、食べてしまった……)
貴重な食べ物を独り占めにしてしまって、重華の中に申し訳ないような気持ちが湧き上がる。
けれど、本当に美味しくて幸せで、お腹もいっぱいになり、それ以上の満足感に満たされていた。
「花だけでなく、実の方も好みだったようだな」
そう言って笑みを浮かべる晧月を見ているとなんだか気恥ずかしくて、重華は頬を赤らめて俯いた。
「陛下は、暑さを感じないのですか?」
「そんなわけないだろう。皇帝だって、暑いものは暑い」
やっぱり、それはそうか、と重華は思う。
しかしながら、見ていてやっぱり暑そうには見えないのが不思議だ。
(私が、我儘になったのかな……)
暑いから動きたくない、暑いから何も食べたくない。
かつての自分なら、そんなことを考えることさえ許されなかったはずだ。
「陛下、私、とても贅沢になってしまったみたいです……」
「贅沢?そなたが?」
どこがだ、とでも言いたげな視線が向けられる。
「だって、私、暑いからって何もしないですし、ごはんも食べないし。それなのに、貴重な桃はおいしいからって、独り占めして……」
重華はどこまでも真剣だった。
けれど、晧月は声をあげて大笑いしている。
「それが贅沢か。まあ、ある意味そうかもしれんな」
好き勝手自由に過ごせるというのも、贅沢なことかもしれない、とも晧月は思う。
けれど、晧月が想像する贅沢な妃というのは、まるで違う。
晧月からすれば、重華は贅沢とは正反対に位置するような妃であった。
「そなたはこの後宮で最も高位なのだから、それくらいは気にせずともよいが……今からその調子だと、確かに先が思いやられるかもしれんな……」
食事をしないことは歓迎できないが、それ以外については誰に迷惑をかけているわけでもない。
重華は非常に気にしている様子であったが、晧月からすれば些細なことである。
それよりも晧月が気になったのは、もっと別のことだった。
「先……?」
「ああ。夏はまだ始まったばかりだ。これからもっと暑くなるぞ」
言われて重華は、一瞬で顔面蒼白になった。
本当にかつての自分は、ここよりもずっと過ごしにくい場所で、一体全体どのように夏を乗り切っていたのか、重華は全くもって思い出せない。
今の重華は、これからさらに暑くなる夏を、とても乗り切れる気がしなかった。
「ふむ……今年は、避暑にでも向かうか」
重華の様子に苦笑しながら、晧月がぽつりと呟いた。
「避暑……?」
「ああ。ここよりもっと北の山の方に離宮がある。そこなら、夏でもここよりずっと涼しくすごしやすいはずだ」
晧月の言葉は、重華にとってとても魅力的だった。
けれど、重華はなぜか表情を曇らせて俯く。
「あ……でも、私、後宮は出られないって……」
「それは、そういう意味ではない」
「はい?」
「一生、朕の妃として後宮で暮らすという話であって、ここから一歩たりとも外に出るなという話ではないということだ。出かけるくらいの自由はある」
晧月は重華の勘違いに驚き、重華は晧月から告げられた言葉に驚いた。
「で、行きたいか?」
「は、はいっ!」
「わかった。では、今年は避暑に向かうよう準備しよう」
行ってもよいのだ、そう思うだけで嬉しくて、重華は二つ返事で頷いた。
とてもわかりやすく喜ぶ姿は、その心情をとてもわかりやすく晧月にも伝える。
「嬉しそうだな」
それほどまでに、これから襲い来るだろう暑さに不安を覚えていたのだろうと、晧月はそう思ったのだけれど。
「はい。私、どこかに出かけるの、生まれてはじめてで……」
返ってきたのは、晧月にとって驚くべき一言だった。
「はじ、めて……?」
「はい。ここに来るまで、家から出たこともなくて」
邸の中や庭をひたすら掃除し、さらには洗濯をし、それだけを繰り返す毎日。
丞相がわざわざ重華に金を持たせて買い物に行かせるようなことをすることもなく、重華は丞相の家の敷地内から一歩たりとも出たことなかった。
(だから、勘違いを……)
後宮から出られないと言ったことで、まるで軟禁のような勘違いをするなど、おかしいと晧月は思っていた。
しかし、これまでそれが当然のこととして過ごしてきたのであれば、納得もできた。
「離宮の近くには景色のよい場所がたくさんある。いろいろ連れて行ってやるから、楽しみにしてろ」
そう言えば、重華の瞳がぱっと輝いた。
その表情を見ていると、何度となく訪れたはずの晧月も、非常に楽しみに思えた。