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第51話


(よく、寝た……)


 いや、正確には寝てしまった。

 重華はあくまで晧月から逃げるためだけの口実のつもりで、本当に眠るつもりなどなかった。

 明るいうちから寝てしまっては、夜眠ることができなくなりそうだし、耐えられない眠気でもないと思っていたから。

 しかしながら、一晩中緊張状態のだった身体は思いのほか疲れていたようで、気づけばあっという間に夢の中へと旅立ってしまっていた。


(あれから、どれくらい経ったのだろう……)


 重華はきょろきょろと見渡すけれど、わかることといえば、さすがに暗くなるほどの時間は過ぎていない、ということくらいだった。


(陛下は、まだいらっしゃるのかな?)


 重華はそんなことを考えながら、恐る恐る寝室を出る。

 すると、すぐ傍にいた春燕がすぐに気づいて、笑いかけてくれた。


「お目覚めになられたのですね」

「あ、あの、陛下は……」

「政務のため、天藍殿へ向かわれましたよ」


 その言葉に、重華は安堵から全身の力が抜けていくのを感じた。






「ここに居たのか」

「ひゃあっ」


 真剣に絵を描いていたところに、耳元で晧月の声がして、重華は驚きのあまり、勢いよく飛びのいた。

 持っていた絵筆が、重華の動きにあわせて弧を描き、不要な線が絵に一本増えてしまったけれど、重華にはそれを気にする余裕などない。


「なんだ、人を化け物みたいに」

「も、申し訳、ありません……」


 言われてみれば、確かにとても失礼だった、と重華は素直に謝罪をする。

 しかし、その視線はやはり、晧月に向けられることはなかった。


「陛下に……」

「挨拶はよいと、いつも言っているだろう」


 顔を上げられなくて、そのまま膝をつき挨拶をしようとしたけれど、膝をつく前に晧月の手によってその行為は止められてしまう。


(いつも、ってもしかして、今日だけじゃなくて、ずっとってこと……?)


 重華の中でそんな疑問が浮かんだけれど、晧月の顔をまともに見ることすらできない今の状況で、それを問いかける勇気など重華にはなかった。


(あとで、お二人に聞いてみよう……)


 春燕と雪梅ならば、晧月の意図がわかるかもしれない。

 そんなことを考えていると、晧月の手が重華の顎にかかり、顔をぐいっと上に向けられてしまう。

 真っ直ぐに晧月を見つめるしかなく、重華の顔は一瞬で赤くなり、同時に瞳も潤んだ。


「……っ」


 今度は、自身の方へ視線を向けさせたはずの晧月が、勢いよく顔を背けた。

 本人にも理由はわからないが、どうしてか今の重華の顔を、直視できなかったのだ。


「く、隈は、消えたようだな……」


 何かを試されているような、そんな感覚を覚えながら、晧月はなんとか言葉を発する。

 一方で、重華は逆に晧月が顔を背けたおかげで晧月を直視する状況から解放され、僅かながら心に余裕が生まれた気がした。


「ほら」


 未だ晧月は重華の方を向くことはなく、重華もそれに対して不満を漏らすようなこともない。

 そんな状態の中で、晧月はあるものを取り出すと、重華の手のひらに置いた。


「こ、れは……」


 重華はまじまじと手の中のものを見つめる。


(かわいい……)


 ちょうど重華の手に収まるくらいの、桃の花の刺繍が施された香袋。

 なぜ重華に渡されるのか、理由は全くわからなかったけれど、重華は手の中のそれをとても好ましく思った。


「その……今朝の詫びだ」


 晧月はばつが悪そうに付け足した。


「悪かった。寝ぼけていて、月長宮に居るものだと思っていたのだ」

「そう、だったんですね……」


 重華から見ればいつも完璧そのものな皇帝の晧月が、寝ぼけるだなんて想像もつかなかった。

 しかし、今朝の一連の出来事が、全て寝ぼけていたためだと言われると、その行動に説明がつきしっくりくるような気がした。


「素敵な香袋ですね」


 重華はまた思い出してしまった今朝の一連の出来事を頭から追い払うように、再度手の中の香袋をじっくりと見つめる。


「気に入ったのなら、よかった。好きだろ、桃の花」


 晧月の言葉に、重華は酷く驚いた。

 雪中花も好きだけれど、最近の重華のお気に入りはもっぱら桃の花であり、雪中花よりもずっと好ましいと思っていた。

 だが、そんなことを晧月に告げた覚えなどない。


(たしかに、絵はたくさん描いたけど……)


 もしかしたら、好きなのかと聞かれ、頷いたことがあるかもしれない。

 けれどそういった好みを晧月が気にしてくれていたなんて、重華は思いもしなかった。


「ありがとう、ございます……」


 自身の好みを考えて選んで貰ったのだと思うと、より一層好ましく思える気がした。


「その中には、心を落ち着け、安眠を促す効果のあるものが入っている」

「え……?」


 言われて重華は、香袋を鼻に近づけ、その香りを嗅いでみる。

 そう言われたから、というのもあるかもしれないが、すっと心が落ち着いていくような気がした。


「いい、香りですね」

「香りの好みはさすがにわからなかったが、嫌なものでなかったなら、何よりだ」


 きっと、眠れなかった重華を心配して用意してくれたのだろう。

 そう思うだけで、幸せな気持ちで満たされていくようだった。


「あ、あの、陛下は、大丈夫ですか?」

「何がだ?」

「その、昨日は、なんというか……」


 今日はそうでもないけれど、昨日は皇帝の威厳などまるで感じられないほど弱々しい姿だった。

 けれど、それを感じたままに伝えるのは憚られ、何かいい言葉はないかと重華は必死に考えを巡らせる。


「少し、お元気がなかったというか、その……」


 どうもしっくりとくる上手い言葉は見つからなかったけれど、晧月は何か察したようだった。


「ああ、そなたのおかげでぐっすり眠れたから、朕はもう大丈夫だ。そなたは、朕の所為で眠れなかったようだがな」


 隣に自身が寝ていたため、ずっと緊張状態にでもあったのだろうと晧月は考えていた。

 だが、重華がぴくりと肩を揺らしたことで、晧月は少しばかり違和感を覚える。


「昨夜、やはり朕は何かしたのか?」

「え?えっと、その……昨日のこと、陛下はどこまで覚えておいでですか?」

「そなたとともに寝台に入り、並んで眠ったことくらいだ。他に、何かあったか?」


 晧月の言葉で、昨夜の寝台の上での出来事もまた、全て晧月が寝ぼけてやったことなのだと重華は悟った。


(もう、全部忘れよう)


 昨夜の出来事も、今朝の出来事も、寝ぼけた晧月によるもの。

 晧月がそれほどまでに弱っていたのだと思うこととし、また晧月が元気を取り戻せたならそれが一番だと自身を納得させた。


「何もありません、ただ一緒に眠っただけです」


 重華は、ようやく真っ直ぐと晧月を見ることができた。




「ところで、この絵はどうするのだ?」

「え……?」


 問われて、先ほどまで描いていた絵を見て、重華はぎょっとする。

 そこには修正不可能なほどしっかりと、不要な線がくっきり一本描かれ、それまで描いていた絵の完成を邪魔している。


(い、いつのまにこんな線が……)


 上手くごまかして続きを描くのは、なかなかに難しそうだった。


「か、描き直します」


 期限があるわけでもなければ、必ず絵を完成させなければならないわけでもない。

 ただ、好きに描いているだけだから、失敗作が出来たってそれはそれでかまわないのだ。


「なら、その絵は朕が貰っても?」

「はい!?」


 意味がわからない、とでもいうように重華は晧月を見る。

 しかしながら、晧月はただ、楽しそうな笑みを浮かべるだけだった。


「こんな絵、いったいどうするのですか?」

「面白いから、持っておこうと思ってな」


 重華からすれば、面白くもなんともない。


「だ、駄目ですっ。これは、捨てます」

「捨てるなら、朕が貰っても問題ないだろう?」

「駄目なものは駄目ですっ!」


 失敗作を大事に持たれても、嬉しくなんかない。

 そんな気持ちで、重華はしばらく晧月と押し問答を続けた。

 だが、重華が晧月に叶うはずもなく、結局絵は晧月のものになってしまった。

 満足気な表情で絵を手にしている晧月を、重華は恨みがましく見つめる。


(でも、笑ってくださるなら……)


 昨日のような表情を見るよりはずっといい。

 重華は自身にそう言い聞かせて、納得させることにした。

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