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47. 空腹

「へ、陛下、あの、自分で……」

「歩けるのか?」

「た、たぶん……?」

「やめておけ、また眩暈を起こすぞ」

「で、でも、今日は体調も悪くないですし……」


 きっとさっきはたまたま眩暈を起こしたのであって、もう大丈夫なのではないか、と重華は思った。

 しかし、晧月は降ろしてくれる様子は、微塵もなかった。


「最近まともに食事してないのを忘れたか?そんな状態で全力で走ったりするから、ふらつくんだ」


 重華には思い当たる不調はなかったが、晧月には思い当たる節があったらしい。

 晧月は重華を抱えなおすと、そのまま歩みを進める。


「そういえば……」

「ん?なんだ?」

「お腹が空いた気がします……」


 重華はそっと、自身の腹部に手をあてた。

 たくさん走ったおかげなのか、身体が空腹を訴えているような気がしたのだ。

 そんな重華の様子を見て、晧月はぷっと吹き出し声をあげて笑い出した。

 笑い声はどんどんと大きくなり、重華は恥ずかしそうに赤らめた顔を、隠すように晧月の胸に埋めた。


「そなたに食事させる、もっと簡単な方法があったかもしれんな」


 毒見などとまどろっこしいことよりも、激しい運動でもさせてお腹を空かせてみた方がよかったのかもしれない。

 そんなことを考える晧月を余所に、重華はますます恥ずかしそうに俯いた。


「まぁ、食べられるなら、なんでもいい。戻ったらすぐに食事を用意させないとな」

「あ、それなら……たぶん春燕さんが、おやつを用意してくれてると思います」

「おやつ……?」


 ここ数日は晧月と共にする三食が重華の精一杯であり、間食まではしていなかった。

 それなのに、戻れば間食があるという状況を、晧月は不思議に思う。


「出てくる前に、春燕さんにお願いしたんです。甘いもの、食べたいって……」

「ほう……」


 重華が自分から何かを食べたいと言えるまで回復したことを、晧月は純粋に喜んだ。

 しかし、ここで1つのことに解決の光が見えたからか、晧月の中に別の疑問が浮かぶ。


「そもそも、なぜあの場に現れたんだ?」


 今日、方容華の元へ行くなどと、晧月は重華に告げた覚えなどない。

 その上、重華は方容華の寝殿の場所など、知らないはずなのだ。


「甘いものをお願いした後、偶然お2人がお話をしているのを聞いたんです。今日のために、春燕さんが毒入りの点心を作ったって」


 晧月は、深くため息をついた。


(それを重華に聞かせてどうする……)


 その場に重華がいるとは、夢にも思わなかったのだろう。

 けれども、いつ重華が現れてもおかしく無い場所で、そのような話をするなど不用心だ。

 後でしっかり2人に注意しなければ、と晧月は心に決めていた。


「だが、春燕も雪梅も、そなたに場所までは教えなかっただろう?」


 あの2人なら、どれほど重華が懇願しようとも、それが晧月の意思に反している以上、上手く断るはずなのだ。


「聞いてはないんですけど、たぶん教えてくれないだろうなと思って。外に出て、衛兵の方々に聞きました」


 衛兵であれば、皇帝の妃に訊ねられて教えないということはありえないだろう。

 それも、相手は後宮指南役を担う妃だ、どの妃嬪の元を訪れようとも疑問を抱くものなどまず居ない。

 晧月はまたしても、深くため息をついた。


「まったく、妙な悪知恵を働かせおって……」

「わ、悪知恵……!?」


 重華としては、どうすればたどり着けるか、必死に考えを巡らせただけだったのに。

 悪知恵と表現されるだけで、なんだかすごく悪い事をしてしまった気になってしまう。


「だが、今回はそなたに助けられた部分が大きい」


 自身への罰を回避することに必死だった人間に、罰を甘んじて受け入れ、さらには持っている情報まで差し出させることはなかなかできることではない。

 今回得た情報はかなり大きい、それが全て重華の行動あってこそとなれば、晧月とて認めざるを得なかった。


「まさか、方容華からこれほどのものを引き出すとはな」

「わ、私は何も……でも、これから、仲良くなれたら嬉しいです」


 重華にはない、落ち着いた大人っぽい雰囲気と、堂々とした立ち振る舞いに憧れた。

 敵意を向けられるようなことはなさそうだったし、これを機に親しくなって、そういった部分を見習いたいと思った。


「仲良くか……近いうちに出家させる事にはなるゆえ、後宮から出ることにはなるが……まぁ、たまには会えるよう善処しよう」


 晧月の言葉に、重華は少し表情を曇らせ俯いた。


(後宮を出ることもあるんだ……)


 純粋に、ようやくこの後宮で仲良くなれるかもしれないと思えた人が、離れていくことへの寂しさもある。

 けれどもそれ以上に、決して出ることができないと信じていた後宮から、出ていく妃嬪がいることもあるという事実に、漠然とした不安が押し寄せる。


「以前そなたには話さなかったが、稀にこうして処罰などにより後宮を出ることもある。だが、そなたが不安に思うことはない」

「え?」

「不安なら、ここで誓ってやる。朕が皇帝である限り、そなたが後宮を出ることは決してないと」


 晧月の言葉に、重華は目を見開いた。


「ほん、とう、に……?」

「ああ。信じられないか?」


 問われて、重華は勢いよく左右にぶんぶんと首をふる。


「ただし、出たいと泣き喚いても出られないぞ、覚悟しておけよ」


 すると、今度は勢いよくこくこくと首が縦にふられる。

 音が聞こえそうなほどの勢いに、晧月はくすりと笑った。

 重華には、なぜ自分だけは後宮を出ることはないと約束されるのかは、理解していない。

 けれど、晧月がそう言ったならば、決して出ることはないだろうと思えた。

 その事実があれば、重華はそれで満足だった。




「あ、あの、今さらかもしれませんが、重く、ないですか……?」


 自身を抱き上げて運ぶ晧月に、重華はおそるおそる問いかける。

 それは、本当に今さらで、晧月は笑いを堪えきれなかった。


「本当に今さらだな。大丈夫だ、これでも朕は鍛えている、人一人運ぶくらいはなんてことない。そうでなくとも、そなたは軽い方だしな」


 人一人が羽根のように軽い、などということはさすがにない。

 けれど、晧月からすれば、想定よりはずっと軽かったおかげか、あまり負担には感じなかった。

 その分やはり食事量が気になるところでもあるのだが。


「戻ったら、おやつをたくさん食べないとな」

「一緒に、食べて、くださいますか……?」

「ああ、もちろんだ」


 もう晧月による毒見など、重華には必要ない。

 春燕に甘いものを強請ったのだって、もう1人で食べられると思ったからだ。

 けれど、きっと、晧月と2人で食べた方が、もっとおいしいはずだと重華は思った。

 久しぶりに、食べるということが、とても楽しみになった。






「春燕、雪梅、主に脱走されて気づかないとはどういうことだ?」


 晧月に抱きかかえられて戻ってきた重華を見て、春燕と雪梅は目を丸くし互いに顔を見合わせた。


「まぁ、いつの間に……」

「全く気づきませんでしたわ」


 重華が気配を消して2人に内緒で宮を抜け出すようなことは、決してなかった。

 そのため、すっかり警戒を怠ってしまっていた事を、2人は反省する。


「これからは、もっと注意しなくてはなりませんね」


 きっと、これからはこんなに簡単に抜け出すことはできなくなるのだろう。

 2人の様子を見た重華は、そう思わずにはいられなかった。


「ところで、珠妃様、体調が優れないのですか?」

「いや、どうやら、腹が減って動けないようだ」

「へ、陛下……っ」

「まぁ、それはすぐにご用意しませんと」


 くすくすと笑われて、重華は顔を赤らめて俯いた。

 けれど、久々に食べた春燕の作る点心は、やはり甘くておいしくて幸せな味だった。

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