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45. 融解


「落ち着いたか?」

「は、はい。申し訳ありません、久々に走った所為か、疲れてしまって……」


 多少駆け足になることはあっても、ここまで全力疾走したのを随分と久しぶりのことだった。

 少なくとも、後宮に入ってからは一度もないはずである。

 思った以上に息もあがり、足もまるで力が入らない様子に、重華自身も非常に驚いた。


「ここまで、走って来たのか……」

「はい、じゃないと、間に合わないかと思って……」


 呼吸はまだ完全に落ち着いたわけではなく、重華は未だ若干の苦しさを感じている。

 それを知ってか知らずか、晧月の手はまだ重華の背中を撫でている。

 そんな晧月を重華は、真っ直ぐに見上げた。


「陛下、毒を食べさせるなんて駄目です。どうかお考え直しください」


 晧月は予想通りの言葉に、ため息をついた。

 一方で、方容華はあまりにも予想外で、目を見開いている。


「珠妃様……?まさか、そのために、こちらに……?」

「はい。あ、もしかして、遅かったですか……?」

「いや、残念ながら、しっかり間に合っている」


 方容華に問いかけたつもりだったが、答えは晧月から返ってきた。

 間に合っているのだとしたら、重華としては残念ではないのだけれど。

 どうやら晧月には歓迎されていないらしい、ということだけは重華にもよく理解できた。

 それでも、間に合ったのなら、苦しくとも走った甲斐があった、と重華は思った。


「どうして珠妃様がそのようなことを、陛下にお願いなさるのですか?」


 方容華には、重華の行動が全く理解できなかった。

 皇帝の考えを変えさせようなど、一歩間違えば皇帝の逆鱗に触れる恐れがある。

 そうなれば、たとえ寵妃といえど、一瞬にして寵愛を失うかもしれない。

 そこまでして方容華を助ける理由など、重華にあるはずがないのだ。


「どうしてって……だって、そうしないと、毒を食べさせられてしまいますから」

「珠妃様が食べさせられるわけではないでしょう?」


 重華はよかれと思って、ここまで来たつもりだった。

 けれど、方容華と話していると、あまり歓迎されていないのかもしれない、と思う。

 もしかすると、余計なことだったのかもしれない、という不安が重華を襲う。


「あ、あの、ご迷惑、でしたか……?もしかして、毒を食べるくらい気にならなかったり、するんでしょうか……?」

「そんなわけないでしょうっ!!」


 方容華のあまりの剣幕に、重華は思わず傍にいた晧月にしがみついてしまい、慌てて離れる。

 すると、一連の様子を見ていた晧月が耐えきれないとでも言ったように、声をあげて笑いはじめた。


「方容華には、そなたの行動が理解できないそうだ」


 未だ笑いは収まらない中、晧月は重華にそう言ったが、重華からすればそれこそ理解できない、と思えてならない。

 晧月はその表情からそんな重華の心情が全て読み取れるような気がして、苦笑した。


「方容華、珠妃がここに居る理由は、急いで朕を止めないとそなたが毒を飲まされるから、ただそれだけだ。それ以上は、何を聞いても出てこないぞ」

「珠妃様は、わたくしがしたことを、ご存知ないんですの……?」


 晧月が重華に全ての出来事を隠しているのだとしたら、重華が何もしていないのに毒を飲まされるのだと勘違いしているのなら、全て納得がいくと方容華は考えた。

 しかし、晧月はすぐさまそれを否定する。


「珠妃には朕が全て話している」

「だったら、なぜ……っ!?」

「それでも珠妃は、そなたが毒を飲まされるのを止めたいと思っている。それだけだ」

「そんな馬鹿なこと……っ」


 鋭い方容華の視線が、突然重華へと向けられる。

 重華はその視線に怯え、晧月の着物をぎゅっと握りしめてしまう。


「何が目的ですの?こんなことをして、いったいわたくしに何をさせたいんですのっ!?」


 重華は当初、方容華は自分よりも落ち着きのある優雅な大人の女性という印象を抱いていた。

 もっとも、重華本人は知らないけれど、方容華は重華より10歳年上なので、重華よりも大人だというのは間違ってはいない。

 しかしながら、現在の重華の印象はすっかりと変わってしまった。


(こ、怖い……っ)


 すごい剣幕と勢いに、重華はすっかり圧倒され、おろおろと縋るように晧月を見ることしかできなかった。


「珠妃はそのようなことは、何も考えておらん。さっきも言っただろう、何も出てこないと」


 むしろ、助ける代わりに何か望むくらいの思いがあれば、まだよかったのにと晧月は思う。

 しかし重華にはそのような見返りを求めることなど、考えも及ばないことだというのを晧月はよく知っている。

 晧月は苦笑しながら、自身を見つめる重華へと向き直った。


「で?」

「はい?」

「毒を飲ませるのを止めるなら、罰はどうするんだ?冷宮にでも送るのか?」


 冷宮と聞いて、方容華の表情が一気に青ざめる。

 だが、それも一瞬のことだった。


「そ、それも、駄目ですっ!!」

「じゃあ、罰はどうする?」

「え?えっと……」


 2人のやり取りに、方容華は驚きを隠せなかった。


(あの陛下が、珠妃様の意見は聞くの……?)


 表情1つ変えず淡々と決めたことだけを告げる晧月の心など、誰にも動かせないと思っていた。

 しかし、重華の意見によって、罰を変えようとしている晧月に驚きを隠せない。

 それどころか、必死に代わりの罰を考える重華の言葉を、じっと待っている。

 とても、先ほど自身に罰の内容を告げた人物と同じには思えなかった。


「お、お庭の、草むしりとか、でしょうか……?」


 重華が必死に考えて、考えて、考え抜いて出した答えだったが、方容華はすっかり呆気に取られてしまった。


(そんなものが、罰になるわけないじゃない)


 そう思ったのは、決して方容華だけではなかった。


「なんだ、その悪戯をした子どもにでも与えるような罰は……」

「だ、駄目、でしょうか……?」

「当たり前だ。そんなものでは罰にならん」


 重華は正直なところ、罰と言ってもどのようなものが考えられるのか、よく知らない。

 考えたところで、晧月が納得してくれるような適当な罰を考えられるはずなどなかった。


「罰、無いと、駄目ですか……?」


 その言葉に、最も驚いたのは方容華だ。


(何を、言っているの……?)


 もし、自分が重華の立場だったら、と方容華は考える。

 あれほど冷酷な態度を見せる皇帝が、自身の意見だけは聞いてくれるのならば、と。


(わたくしだったら、もっと厳しい罰を望むはずだわ。もう二度と、誰もわたくしに手出ししようと考えないように、と)


 同じ毒では生温い、もっともっと苦しめないと気が済まない。

 それだけ、自分は皇帝に大切にされている、自分が害されようものなら決して皇帝が黙っていない。

 周囲にそう知らしめることで、自分の安全を確保するためにも、厳しい罰でなければならない。

 そうでなければ、また何度も同じ目にあうかもしれないのだ。


(珠妃様は、それを、わかっていないのかしら……?)


 お咎めなしだなんて、到底ありえない。

 そう考えているのは、決して方容華だけではなかった。


「駄目に決まっているだろう!そなたに毒を盛ったのだぞ。不問にできるはずがないっ!!」

「で、でも、私は陛下のおかげで、何事もなく無事でしたし……」


 重華の言葉に、晧月の表情が歪む。


(何事もなく、だと……?)


 確かに、毒を摂取することはなかった。

 しかし未だ食事の際は全身を震わせているのを、晧月はよく知っている。

 食事量も元通りであっても少なすぎると思っているのに、その元通りには程遠いほど少ない。


「とにかく駄目なものは駄目だ。他に罰を思いつかないのであれば、当初の予定通り……」

「だ、駄目ですっ、考えます、ちゃんと考えますから……っ」


 重華の必死な様子に、方容華はまたも驚きを隠せずにいた。


(誰も、助けてくれなかったのに……)


 自身と自身の父が今まで仕えてきた有力な役人たちが、皆切り捨てるかのようにそっぽを向いた。

 しかし、自身に危うく毒を飲まされそうになった重華だけが、自身を助けようと必死になってくれている。

 方容華はしばし目を閉じ、それから何かを決意したように立ち上がった。


「おい、何をする気だ」


 すぐに晧月が動きを警戒し、低い声色で問いかける。

 しかし、方容華はそれに怯えた様子を見せることもなければ、答えることもなく、近くの棚の引き出しの奥から紙の束を取り出すと重華の元へと歩みよる。

 警戒した晧月が重華を庇うように抱き込むのを確認しながらも、方容華は先ほど取り出した紙の束を重華に差し出した。


「こちらを、珠妃様に」

「え……?」


 重華はわけがわからず、ただ方容華を見つめることしかできなかった。

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