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43. 震え


 晧月が知らせを受けたのは、翌日のことだった。

 重華はあれから飲食ができていなかった。

 春燕と雪梅が何を用意しようとも、重華は自身の震えを止めることができず、罪悪感から完全に寝室に閉じ籠ってしまっていた。


「重華、入るぞ」


 本当は誰にも会わずに、1人で居たかった。

 けれど、重華にはとても皇帝である晧月を止めることなどできなかった。


「申し訳、ありません……」

「それは何に対する謝罪だ?」

「その……ごはんを食べていないから……」


 食事量を増やすように言われていたのに、今の重華は増やすどころか何も食べれていない。

 重華は申し訳なくて、晧月をまともに見ることさえできなかった。


「どうやら、朕が脅かしすぎたようだ」


 晧月がそう言うと、何やらかちゃかちゃと音がしてきて、重華はようやく顔をあげる。

 すると、晧月が部屋に入る際に持ってきたのだろうか、ここにあるはずのない茶器があった。


「とりあえず、そこに座れ」


 言われて、重華は晧月の目の前に座る。

 すると、晧月は重華の目の前でお茶を淹れ始めた。


「あれから、飲み食いしていないのだろう?とりあえず、これはどうだ?」


 晧月はそう言って、重華に自身が淹れたお茶を差し出す。

 しかし、重華はそのお茶に手を伸ばすことができない。


(これでも、駄目か……)


 身体を震わせる重華を見て、晧月は無理そうだと判断する。

 徐々に重華の呼吸までも乱れるのを感じ、晧月は重華の手を掴んだ。


「もうよい、無理はするな」


 その言葉に、重華はびくりと肩を揺らすと、慌てて椅子から立ち上がり、床へと座り込んだ。

 そのまま床に手をつき、頭を床にこすりつけそうな勢いで震えながら頭を下げる様子は、晧月に輿入れしたばかりの重華を思い起こさせた。


「申し訳ありません、申し訳……っ」

「そのようなことをさせたいわけではない、ほら、立て」


 晧月がそう言っても、重華は立ち上がるどころか、顔を上げる事さえしない。


「陛下が淹れてくださったのに、私……っ」


 晧月はどこか既視感を覚えながら、重華の元へと近づく。


「大丈夫だ。そなたが朕を疑っているなどとは、思っていない。だから立て」


 晧月の言葉に驚いて、重華はがばっと顔を上げた。

 すると、晧月はふわりと微笑む。


「まったく、本当に泣き虫な妃だな」


 晧月の手に涙を拭われ、重華はようやく自分が泣いていることに気づいた。


「ほら、早く立て」


 晧月はそう言うと、重華を抱えるようにして立ち上がらせ、そのまま先ほどまで座っていた椅子へと座らせる。


「朕も、昔、毒を盛られたことがある」

「えっ!?大丈夫だったのですか……?」

「今、そなたが見ている通りだ」


 大丈夫だった、ということなのだろう。

 少なくとも重華の目には、今の晧月は健康そのもののように見えている。


「皇子には必ず毒見役がいる。毒を摂取したのは朕ではなく、その毒見役だった。それでも、しばらくは周りが全て敵に見えたものだ」

「わ、私は……」


 決して、晧月を敵だと思っているわけではない。

 春燕や雪梅に対しても、もちろんだ。

 けれど、自身の行動からは、とても信じてもらえる気がしなくて、重華は上手く言葉にできなかった。


「幼い頃から毒見役がいた朕とは違い、そなたは毒を盛られる想像すらしたことがなかっただろう。それがいきなり毒を盛られたとなれば、恐怖を覚えて当然だ」


 安心させるように、晧月が重華の手を握る。

 それだけで、重華は少しだけ身体の震えが収まったような気がした。


「そなたは、決して朕が毒を入れるなどとは考えていないはずだ。もちろん、春燕や雪梅がそんなことをするとも考えてはいない。だが、毒はいつどこで混入されるかわからない、だから怖いのだろう?」

「ごめんなさい、ごめんなさい…」


 晧月に信じてもらえているのだとわかって、嬉しかった。

 けれど、だからこそ、より一層自身が情けなく思えてしまう。


「大丈夫だ、春燕や雪梅もそなたが疑っているなどとは思っていない。だからもう、自分を責めるな」


 それは、重華が最も欲しかった言葉なのかもしれない。

 情けない弱い自分を、許して貰えたような気がした。

 いろんな感情が入り混じり、重華は溢れる涙を止められなかった。

 晧月が重華の身体を抱き寄せると、重華は晧月の胸に縋りつくようにして泣きじゃくった。

 重華が落ち着くまで、晧月はただ黙って重華に寄り添ってくれた。




「落ち着いたか?」


 重華がこくんと頷くのを確認すると、晧月は重華に淹れたはずのお茶を自分で飲み干した。

 そうして空になった湯呑みに、再度お茶を注ぎ、一連の動作を不思議そうに見つめている重華へと湯呑みを差し出した。


「これはどうだ?先ほど朕が飲んだ茶と同じものだ」

「あ……」

「無理はしなくていい。駄目なら、また他の方法を考える」


 その言葉で、晧月が自分のためにいろんな方法を考えてくれていることを重華は知った。

 それに少しでも応えたい、そんな気持ちが重華の中に芽生えた。

 重華は震える手で、湯呑みを手にとった。

 湯呑みを手にして尚、手の震えは止められなかったけれど。


(大丈夫、大丈夫)


 重華は何度も自分にそう言い聞かせて、ようやく一口、お茶を口に含んだ。


「よく、がんばったな」


 たった一口お茶を飲んだだけで、大袈裟だとは思ったけれど、それでも晧月に褒められたことが重華は嬉しかった。


「食事も共にしよう。大丈夫だ、ちゃんと食べられる」


 そこには、何の根拠もなかった。

 けれど、晧月にそう言われると、重華は本当に食べられそうな気がした。




 机の上には、いつものように様々な食事が並べられる。

 しかし、重華はやはり箸を持とうとするだけで手が震えてしまい、とても食べられそうにはなかった。

 そんな重華の目の前にあるお椀を、晧月はひょいっと取り上げる。


「陛下……?」


 晧月は重華の目の前で、迷うことなく一口食べると、重華の目の前にお椀を戻した。

 すると、今度は別のお椀へと手を伸ばし、また一口食べては、重華の前へと戻す。

 そうした行為を、晧月は全てのお椀に対して同様に行っていった。


「あ、あの……」


 晧月の意図が読めず、重華がおそるおそる声をかけると、晧月は安心させるように重華に笑いかける。


「大丈夫だ、全部ちゃんとおいしい。だから、食べてみろ」


 全てのお椀を重華の元へ戻し終えた後、晧月がそう言う。

 先ほどのお茶と同じなのだ、と重華はようやく気づく。

 目の前にあるのは全て、晧月が食べて大丈夫だった料理ばかりだ。

 重華は震えながらも、なんとか箸を握りしめた。


(大丈夫、大丈夫、大丈夫)


 先ほどのお茶の時と同様に、何度も何度も自分に言い聞かせる。

 それでも、お茶よりも勇気が必要で、なかなか先には進めなかったけれど、重華はようやく目の前の料理を一口、食べることができた。


「おいしい……」


 食事ができなくなったのはつい昨日のことなのに、重華はなぜかものすごく久しぶりに食べたような気がした。

 春燕と雪梅は、まだたった一口ではあるものの、重華がようやく食事に手をつけられたことにほっと胸を撫でおろしている。

 とはいえ、食べる速度は非常にゆっくりで、食べられた量はいつもの半分にも満たないほど。

 それでも、その日は晧月にもっと食べるようにとは言われなかった。


「しばらくは一緒に食事をしよう。朕が毒見をしてやる」

「え?そ、それでは……」

「大丈夫だ、毒なんか入っていないんだから」


 あくまで、重華を安心させるための形式的なもの。

 この琥珀宮で、春燕と雪梅によって調理されたものは、決して毒など入ったりしないと重華が信じられるように。

 晧月はしばらくの間、3食全てを重華と共にとることに決めたのだった。

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