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41. 無名の妃


 ことり、と重華の前にお茶が置かれる。

 それから、同様に方容華の前にも。


「あ、ありがとうございます……」


 いつものようにお礼を言えば、春燕はにこりと笑ってくれた。

 その笑みは、緊張している重華の心を少しばかり落ち着かせてくれる。

 しかし、それも長くは続かない。


「あら、珠妃様は侍女にもとても丁寧なのですね」

「え……?」

「丞相のお嬢様ですもの。もっと命令慣れした方を想像しておりましたの」


 そう言って、方容華は口元に手をあててころころと笑う。

 だが、重華の頭の中には、以前晧月に言われた『侍女に敬語は不要だ』という言葉が蘇り、とても共に笑う気になどなれない。


「癖みたいなもの、なんです……」


 ごまかすように、そう言うことが重華の精一杯だった。


(どうしよう、妃として相応しくない発言だったら……)


 方容華はずっと、にこやかな表情を崩すことはない。

 けれど、重華は晧月に迷惑をかけることになるのではないか、そんな不安で頭がいっぱいだった。

 とりあえず、落ち着かなくては、と淹れてもらったお茶に手を伸ばす。

 すると、方容華も重華と同様にお茶を飲んだ。


「まぁ、さすが珠妃様、よい茶葉をお使いですのね」


 方容華は、おいしいお茶だと褒めてくれた。

 重華も、飲んでみておいしい、とは思う。

 けれどそれは、いつも重華が好んで飲んでいる、晧月にもらった茶葉とは違う茶葉を使っただろうお茶だった。

 重華だって、わかっている。

 晧月にもらった茶葉は、決して高級な茶葉ではないことも。

 それ故に、来客には相応しくないのだろうということも。

 しかし、そのお茶の味は、重華をより一層落ち着かない気持ちにさせた。


「まあっ!」


 突如ある一点を見つめて、方容華が嬉しそうな声をあげた。

 重華も慌ててそちらに視線を向ける。


(陛下……っ!?)


 そこには、晧月の姿があった。


「陛下に拝謁いたします」


 方容華はすぐに立ち上がると膝をつき、恭しく頭を下げた。

 それを見て重華ははっとし、自分も同様にせねばと慌てて立ち上がろうとした。

 しかし、その瞬間にぱちりと晧月と目があう。


「いい。そのまま座っていろ」


 晧月はそう言うと、まるで方容華の姿など目に入っていないかのように、真っ直ぐと重華の傍まで来た。


「大丈夫か?」


 晧月は重華にのみ聞こえるよう小さな声で問いかけながら、重華の手を握る。

 重華は、手を握られてはじめて、自身の手が震えていることに気づいた。


「これは、どういう状況だ?」

「あ、あの……っ」

「珠妃様の昇進のお祝いに参りましたの。それで、お近づきの印に、わたくしが作った点心をお供にお茶をと思いまして。陛下も是非ご一緒に……」


 重華が説明するよりも早く、方容華が立ち上がり嬉々とした表情で晧月へと説明をはじめた。


「誰が立ってよいと言ったのだ?」

「え……?あ、申し訳、ありません……」


 方容華は一瞬で青ざめた表情となり、再び膝をついて頭を下げる。


「朕は珠妃と2人で茶をするために来たのだ。なぜ、そなたに邪魔されねばならぬ?」


 当然3人でお茶をするだろう、といった態度が晧月の気に障った。

 最初からそのつもりでここを訪れたに違いない、晧月は迷うことなくそう結論付けた。


「わ、わたくしは、ただ……」

「そもそも珠妃は病ゆえ、妃嬪の挨拶は受けられぬと通達しているはずだ。なぜそなたがここにいる?」


 未だ立ち上がる許可さえ与えることなく、晧月は問いただす。

 晧月は未だ妃嬪の誰にも、重華との接触など許していない。

 重華が自ら招くはずがないから、ここに妃嬪がいるということは、間違いなく晧月の命令を無視している何よりの証拠である。


「それは……で、ですが、珠妃様はもう回復されていらっしゃいます。今日も外で絵を描かれておられました。お元気な証拠ですわ。それなら後宮で最も高貴な妃として、わたくしたちのお祝いを受けていただいても……」

「そなたが珠妃の体調を決めるな。ずっと室内に籠っているのも身体に悪いから、たまに外に出ているだけにすぎない」


 晧月がはっきりとそう言えば、方容華はそれ以上重華が元気であると主張できなくなった。

 主張してしまえば、皇帝に対し嘘をついていると主張することになってしまう。

 途端に勢いを失くす方容華を見ていると、重華は方容華が不憫に思えて申し訳ない気持ちになる。

 重華が元気だというのは、決して間違ってなどいないのだ。


「陛下、私がお招きしましたので……」


 どうか許してあげて欲しい、とは続かなった。

 突然、晧月の手が重華の頬に触れ、重華が息を呑んだから。


「顔色が真っ青ではないか。無理をしたのだろう」


 聞かずとも、晧月には容易に想像ができた。

 ここまで来てしまった者を、重華が追い返せず招き入れてしまう様子が。

 きっと強く断ることができない重華を、目の前の女が無理矢理押し切ったのだろう、そう思うと晧月の怒りは増すばかりだった。


「珠妃の病が悪化すれば、そなたにその罪を問うぞ」

「も、申し訳、ありませんでした。すぐに、立ち去ります……」


 方容華は震える声でそう言うと、慌てて立ち上がりこちらを振り返ることなく急ぎ足で立ち去った。

 重華の目に、残された小さな包みが映る。

 中身はきっと、先ほど言っていた手作りの点心に違いない。

 今なら、まだ追いかければ間に合うかもしれない、そう思って重華はその包みに手を伸ばした。


「触るなっ!」


 厳しい晧月の声が響いて、重華はびくりと身体を震わせ動きを止めた。


「ああ、すまない。怖がらせるつもりではなかったんだが……」


 そう言うと、晧月は重華の手から離すように包みを手に取ると、それを春燕に渡した。


「中身を調べろ」

「かしこまりました」


 調べずとも、中身は手作りの点心が入っているのではないのだろうか。

 通じ合っている様子の2人を余所に、重華だけが首を傾げていた。




「まったく……さっさと追い返せばいいものを。無理をして、また倒れでもしたらどうする」

「も、申し訳、ありません……」


 言いながら、晧月は当然のように重華の向かい側へと腰掛けた。

 すると雪梅がすぐに机の上にあった湯呑みを全て片づけ、新しく淹れ直したお茶を持ってくる。

 おそるおそる口をつけると、重華が好むいつものお茶の味がして、重華はようやく心が落ち着いていくのを感じた。


「謝罪はいい。だが次は、春燕か雪梅にちゃんと追い返してもらえ」


 自分で追い返せ、とは晧月は言わない。

 重華にそんなことができるとは、期待していないし、まず無理だろうと考えている。

 しかし、あくまで推測だが、今回もどちらかが追い返そうとしたはずなのだ。

 それでも中へと入り込んでいたということは、重華がそれを制止してまで中へ招き入れてしまった可能性が高い。

 重華はその場の方便だと思ったようだが、晧月が来た時、不安の所為か重華の顔色は本当に悪かった。

 手だって震えていたし、そこまで無理をして他の妃嬪たちの応対などすることを晧月が重華に求めてはいないのだ。


「そういえば、さっきの妃嬪は、誰だ?」

「方容華様ですよ、陛下」


 そんな晧月と雪梅のやり取りに、重華はぎょっとした。


(嘘、陛下の妃なのに、誰だかわかってなかったの……?)


 自身の妃の名前が出てこない皇帝にも驚かされるが、春燕といい、雪梅といい、直接名前を聞いたわけでもないのに、迷うことなく名前を言い当てたのもまたすごいと思った。

 さすが、元皇帝の侍女というべきだろうか。

 2人が覚えていたからこそ、晧月が妃嬪の名前を覚えきれていなくとも、どうにかなっていたのかもしれない。

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