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40. 変化の兆し


 重華が妃になっても、呼ばれ方が変わった以外は驚くほど変化を感じない日々が続いた。

 だがその一方で庭園では、梅の花が咲き終わり、桃の花が咲き始めた。

 気温もすっかり暖かくなり、晧月に貰った手炉も最近はめっきり出番がない。

 そんな心地よい春の日差しの中で、お気に入りの桃の花を描くのが最近の重華の楽しみだった。


「ほう……桃の花の絵か」

「へ、陛下!?」

「ああ、いいからそのまま続けろ」


 重華と、重華の描いている絵を、真上から見下ろすようにして晧月は声をかけてきた。

 続けろと言われても、なんだか落ち着かなくて、重華の手は止まってしまう。


「よく描けているな。その絵、完成したら、朕にくれないか?」


 色もほとんど塗り終わっている。

 おそらく、もうすぐ完成するだろうと思って、晧月は訊ねた。


「え……?これ、ですか?こんなの、どうするんですか?」


 重華の描いた桃の花の絵など、晧月が持って行ったところで役に立つとは思えない。

 特別大切なもの、というわけではないから、渡すのは構わないけれど、渡す必要性があるようにも重華は思えなかった。


「最近政務が忙しくて、花を愛でる時間もない。だから、花の代わりに天藍殿に飾ろうかと思ってな」

「そ、そんなに忙しいんですか!?」

「ああ。だから、それ、くれないか?」

「だったら、あの……毎日来なくても大丈夫ですよ?」

「は?」


 晧月としては、重華の絵をもらうための適当な理由付けでしかなかった。

 しかし、それをきっかけに晧月の想定とは随分と違う方向へと話が飛んでしまって、晧月はしばし呆然とした。


「お忙しいんですよね。ここに来る頻度が少し下がったくらいで、私が寵愛を失ったなんて噂にもならないと思いますし、もっとここに来る回数を減らしたら……」


 重華は、晧月が忙しい中無理してここに来る時間を作っているのだと思った。

 きっとここに来る回数を減らせば、その分政務も捗り、忙しさが落ち着くだろう。

 会える回数が減るのは、重華としては寂しい気持ちもあったけれど、晧月のことを思えばそれが一番いいはずだ。

 重華は、そう信じての提案だったのだが。


「朕が毎日来るのは嫌か?」


 なぜ、重華が嫌かどうかという話に変わってしまったのだろうか。

 重華はどうも会話が噛み合っていない、そう思わずにはいられなかった。

 しかし、そう思っているのは決して重華だけではないことに、重華が気づくことはない。


「いえ、私の事ではなくて、陛下が……」

「嫌なのか?」


 なぜだかわからないけれど、重華はこの質問に答えない限り先に進めないような気がした。


「嫌ではありません。ただ、陛下が……」

「そうか、なら、いい。で、それ、くれないのか?」


 重華の一番伝えたい、大事な部分を飛ばされてしまったような気がした。

 つい、怪訝な表情を浮かべてしまう重華を見て、晧月は考えている事が手に取るようにわかってしまいくすりと笑う。


「陛下、あの……」

「息抜きくらい、いいだろう?ずっと天藍殿にこもって政務ばかりでは、息も詰まる」


 かつては、それが晧月にとって当たり前の光景だったのだけれど。

 いつの間にか、重華の元に通う事が当たり前となり、晧月はもう以前のようには戻れない気がした。


「ここに来るのが、息抜き、ですか?」

「ああ」

「それなら……」


 息抜きの頻度を減らせ、と言うのはさすがに酷な事だと重華も思う。


「陛下がご無理をされていないのでしたら」


 重華がそう言うと、晧月は満足そうに笑って重華の隣に腰掛けた。


「その絵が駄目なら、他の絵を描いてくれないか?」

「天藍殿に飾るのでしたら、私が描いた絵よりも……」

「重華が描いた絵がいい」


 名のある絵師の絵の方が、なんの知識もなく好きに絵を描いている重華の絵より、ぜったいいいはずなのに。

 こんな絵のどこがいいのだろう、と重華は自身の描いた絵を眺める。


「この絵でよろしいなら、差し上げます」


 しばしの沈黙の後、重華はそう言った。

 重華は絵を描く過程を楽しんでいるのであって、描き終わった絵を大事に持っていたいわけではない。

 天藍殿に飾るに相応しい絵だとは到底思えないが、ここまで欲しいと言ってくれる相手を頑なに拒む理由もなかった。

 重華の言葉に、晧月はただ嬉しそうに笑う。

 その表情を見ていると、落ち着かない気持ちになって、重華は慌てて視線を絵に戻す。


「あと、この部分に色をつけたら、完成しますから」

「そうか、ではここで完成を待つとしよう」


 そう言われると、途端に晧月の視線が気になりはじめてしまった。

 あと少し、使う色もあと一色、色を塗る場所もほんのわずか。

 それなのに、なんだかこの絵が一気に駄目になってしまいそうなくらいの大失敗をしてしまいそうな、それくらいの妙な緊張感が重華を襲う。

 驚くほど手が震えていて、なかなか色を塗ることができない。

 そんな自身と必死に格闘しながら、重華はなんとか絵を完成させた。






「珠妃様にご挨拶いたします」


 それは、変わらないと思っていた重華の日常に、大きな変化をもたらすきっかけだったのかもしれない。

 庭園で絵を描く重華の前に現れた1人の女性、その女性は膝をついて重華にお辞儀をしている。


「あ、あの、お立ちください」

「ありがとうございます、珠妃様」


 そんな風に頭を下げられた経験などなく、重華はあたふたとしてしまう。

 とりあえず、女性が立ち上がってくれたことに、重華はほっと息を吐いた。


「やっぱり、思った通りでしたわ」

「え……?」

「最近、暖かく過ごしやすい時期になりましたでしょう?ですから、珠妃様の体調も回復なされているのではないかと思ったのです」

「あ……」


 まずい、と重華は思った。

 こんなところで呑気に絵を描いているのを見られてしまっては、病に伏せっているため挨拶を受けられない、という言い訳はまず通用しないだろう。

 そんな重華の心の内など知らないだろう目の前の女性は、にこやかに笑っている。


「ああ、わたくしったら、名乗るのを忘れておりました」


 変わらずにこやかな笑みを浮かべたまま、女性は小さく礼をする。


「容華の、ほう 慧霞けいかと申します」

「あ、えっと……」

「珠妃様の昇進をずっとお祝いしたいと思っておりました。今日はわたくしめが作った点心をお持ちしましたの。ご一緒にお茶でもできればと思いまして」


 目の前の女性は、容華。対する重華は、妃。

 それなのに、重華よりもずっと堂々としていて、高貴な女性に思えてしまう。

 重華はどうしていいかわからず、頭の中が真っ白だった。

 それでも、何か、ととりあえず立ち上がろうとした際、画材にぶつかりがたんと大きな音が鳴ってしまう。


「珠妃様、何かありましたか?」


 音を聞きつけた春燕が、慌てて中から飛び出してきてくれた。

 重華はその姿を見ただけで、酷く安心感を覚えた。




「方容華様に、ご挨拶いたします」


 春燕はすぐに重華の元へと駆けつけ、まずは重華を安心させるように微笑んだ。

 その後、方容華の方へと振り返り、まさに彼女が重華に対してやったのと同様の挨拶を行う。


「珠妃様の侍女ですの?」

「はい、春燕と申します」

「そう……わたくし今日は珠妃様の昇進のお祝いと、お近づきの印にお茶でもご一緒にと思って参りましたの。準備していただけませんか?」

「恐れながら、申し上げます。珠妃様は療養中であるため、他の妃嬪の方々とお茶をともにされるのは難しいかと」

「あら、先ほどまでそちらで絵を描いていらっしゃいました。とても病に伏せっているようには見えませんわ。もう、元気になられていらっしゃるのでは?」

「いいえ、方容華様、珠妃様はまだ……」


 春燕が、重華の代わりに上手く断ろうとしてくれているのはわかった。

 けれども、この状況ではそれもきっと難しいだろうと思った重華は、春燕の腕を掴んでそれを止める。


「珠妃様……」

「お茶だけなら、大丈夫です」

「ですが……」


 重華は知らないが、春燕と雪梅は英妃との一件以降、重華が他の妃嬪たちと必要以上に接触しないよう、くれぐれも注意するようにと晧月にきつく言われている。

 そのため、春燕は何がなんでも方容華にはお引き取り願うつもりで、ここに立っているのだ。

 しかし、重華としては簡単に帰らなさそうな方容華の様子に、これ以上春燕を煩わせたくないという気持ちが強くなった。

 お茶をするだけで事が終わるなら、その方がきっといいだろうと、そう思ったのだ。


「用意を、お願いできますか?」

「……かしこまりました、珠妃様」


 春燕はできる事なら寝殿の中に、方容華を入れたくはなかった。

 しかし、重華に強く出ることも憚られ、重華の代わりに画材を全て持ち、方容華を中へと招き入れることとなった。

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