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39. 昇進


 重華の熱がようやく下がった翌日、晧月は驚くほど朝早く琥珀宮を訪れた。

 まだ寝起きでぼんやりとしていた重華は、慌てて身支度を整えることとなった。


「へ、陛下、お待たせして、申し訳、ありません……っ」


 いつもより数倍は急いだと思う重華は、すでに息も絶え絶えな様子だった。


「そんなに急がずともよかったものを」


 そう言って晧月は呼吸の落ち着かない重華の背中を撫でながら、近くの椅子へと重華を座らせる。

 すると、こんな早くから、筆と硯が机の上に用意されているのが重華の目に映る。


(こんな早くから、文字を書く練習……?)


 重華は不思議そうに、それを眺めていた。




「覚えているか、頼みがあると言ったのを」

「は、はい、もちろんです」


 重華はずっと気になっていたのだ。

 熱も下がったし、ようやく聞けるのだ、そう思うと不謹慎かもしれないが少しわくわくしてしまう。


「そなたも知っての通り、英妃が降格したため、この後宮に妃以上のものがいなくなった」

「あ……」


 晧月の言葉で、重華はその先の想像がついてしまった。


(陛下はきっと、私を妃に封じられるおつもりなんだ……正確には私ではなく、丞相の娘を……)


 以前晧月から聞いた話を考えれば、納得がいく。

 丞相である父の勢力をさらに強固にするためにも、そして他の敵対勢力に力を持たせないためにも、この後宮で次の妃を選ぶなら、きっと重華しかいない。


「察しがついたか。そなたを妃に封じ、後宮指南役を任せたい」


 やはり続いたのは、重華の予想通りの言葉だった。


(私なんかに務まるのだろうか……)


 晧月の役に立てるのであれば、受けたいとは思うし、この場合断ってしまえば晧月は他の妃嬪から選ばなくてはならなくなり、きっととても困ることになるだろうというのも重華は理解している。

 けれど、妃位があがるだけならまだいいが、後宮指南役まで自身に務まるかは自信がなかった。

 重華はまだまだ後宮のことをよく知らない。

 そんな状態で自分よりも先に後宮に入った妃嬪たちをまとめ、管理することができるとは、とても思えなかった。


「難しく考えなくていい。できるだけ、今まで通りでいられるように取り計らうつもりだ」

「え……?」

「本来なら、後宮指南役は妃嬪をまとめる立場であるがゆえ、定期的に妃嬪の挨拶を受けたりしていたが、そういった慣習は全て無くす」

「ええっ!?無くしてしまって、いいんですか?」

「別に、挨拶を受けたいわけでもないだろう?だったら、無くても困らないだろう」


 確かに重華は挨拶を受けたいなどとは思ってはいない。

 無くしてもらえるなら、今までと変わらない生活を送れるのなら、重華にとってこれほどありがたいことはない。


(英妃様は、挨拶を受けたい方だったのかしら?)


 だから、定期的に挨拶を受けていたのかもしれない。


「わかりました、お受けいたします」

「そうか、助かる」


 そうして向けられた笑みに、重華はどきっとしてしまう。


(勘違いしてはいけない、陛下が必要なのは、丞相の……父の娘である妃)


 自分だから選ばれた、そう思ってしまわないように、重華は何度もそう言い聞かせた。


「で、そなたの封号を考えたのだが……」


 そう言うと、晧月は筆を取る。


(このために用意していたのね……)


 早朝から文字を書く練習をするわけではなかったらしい、重華はそんなことを思いながら、筆を走らせる晧月を見つめる。

 真っ白な紙に大きく『珠』という文字が書かれた。


「これで、『じゅ』と読む。宝石という意味を持つ漢字だ」

「宝石……」


 重華は自分には分不相応にもほどがある、と思わずにはいられなかった。


「はじめて見た時からずっと思っていた。そなたの瞳は、宝石のように美しいと」

「ひょえっ!?」


 あまりに驚いて、重華は素っ頓狂な声をあげてしまう。

 顔が一気に熱くなるのを感じて、重華は俯いた。

 すると、晧月がくすくすと笑うのが聞こえてきて、そのまま顔を上げられなくなってしまう。


「わ、私には、もったいないかと……私は、その、傷だらけで、醜いですし、宝石のような美しさなんて、とても……」


 重華は言いながら、悲しい気分になって落ち込んだ。

 けれど、重華は美しさとは無縁だ。

 皆一様に醜いと、そう評するはずなのだ。


「世の中には、傷がある方が美しいと評される宝石もあるそうだ。まるで、そなたのようだと思わないか?」


 そんな風に言われたことなど、重華はもちろんない。

 考えたこともなかったような言葉に、重華は驚いて目を見開いた。

 いろんな感情が重華の中で複雑に絡み合っていて、上手く言葉が出てこない。


「それから、この字を選んだ理由は、もう一つある」


 そう言うと、晧月は自身が書いた『珠』という字から左側の王の部分を隠して見せた。


「右側の文字は、『しゅ』。赤という意味を持つ漢字だ」

「あか……」

「そなたはあまり好きではないようだが……」


 そう言うと、晧月は重華の髪をひとすくいだけ持ち上げる。


「朕はそなたのこの赤みを帯びた髪も、美しいと思う」


 重華の瞳から、一粒の涙が零れ落ちる。

 そして、それが引き金だったかのように、ぽろぽろと涙が溢れだした。


「な、なぜ泣く!?そんなに嫌だったか?嫌なら変えよう、他のものを考えるから……」


 重華は慌てて首を横に振る。

 決して、嫌だったわけではない。

 自身はそんな風に言ってもらえるほど、美しいわけがない。

 そう思っていても、晧月の言葉が嬉しくて仕方がなかった。


「嫌では、ないんだな?」


 晧月が重華の顔を覗き込み、確かめるように問えば、すぐに頷きが返ってくる。


「そうか、よかった」


 晧月は重華に近づき、重華の身体を抱き寄せる。

 そして、あやすように。何度も重華の頭を撫でた。


(身体の傷も多いが、心の傷はきっともっと多い……だが、だからこそ……)


 晧月は、重華を抱く腕に力を込める。


「朕にとっては、そなたが最も美しい。今日から、そなたは朕の『珠妃』だ、よいな?」

「はい……」


 重華の涙は止まるどころか、溢れる一方だった。

 晧月は、重華の涙が止まるまで、何も言わずただ重華に寄り添っていた。






(たくさん泣いてしまった……)


 涙が止まると、重華に押し寄せたのは恥ずかしさだった。

 晧月の着物の胸のあたりは、重華の涙でしっかりと濡らしてしまった。

 重華は居たたまれなくて、晧月を見ることができない。


「珠妃様、こちらをどうぞ」


 泣きすぎて腫れた目を心配して、春燕が冷えた手ぬぐいを渡してくれる。

 だが、重華は手ぬぐいを見つめて、しばし固まっていた。


「どうかしましたか?」

「あ、なんだか、慣れないな、と……」


 ついさっき貰ったばかりの封号だ。

 仕方がないといえば仕方がないのだが、なかなか自分が呼ばれているという感じがしなかった。


「すぐに慣れますよ」

「ええ、きっと、これから、たくさん呼ばれることになりますから」

「そ、そういうもの、でしょうか……?」


 慣れた自分が想像できない、そう思いながら手ぬぐいを受け取って、重華は目元にあてる。

 泣いて腫れぼったい目に、ひんやりとしたそれが、とても気持ちよかった。


「蔡嬪、と呼ばれるのも、最初から慣れていたわけではないだろう」

「へ?」


 ぽんと頭に手を置かれて、重華は顔を上げた。

 すると、視界が晧月の姿でいっぱいになり、濡れてしまった晧月の着物もしっかりと見える。

 重華は慌てて、ごまかすように手ぬぐいを目元にあてた。


(たしかに、最初は蔡嬪と呼ばれるの、違和感があったかも……)


 なんなら、今だって若干違和感があったかもしれない。

 けれど、確かに徐々に慣れていったような気もした。


「まぁ、慣れる前に、また昇進して呼び名が変わることも、あるかもしれないがな」

「ええっ!?」


 重華はまた手ぬぐいを目から離して、また顔をあげる。

 すると、晧月がふわりと笑った。


「やっと、こっちを見たな」

「あ、あの、あの……っ、ごめんなさい……お召し物を、その、濡らしてしまって」

「なんだ、そんなことを気にしていたのか」


 重華にとっては、ものすごく居たたまれない気持ちにさせる事だった。

 けれど、晧月は特に気にしていないようだった。


「気にするな。そなたが泣き虫なのは、よく知っている」


 くすりと笑ってそう言われてしまい、重華はより一層居たたまれない思いを抱えることとなった。


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