目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

38. 一段落


 重華は突然、寝台からがばっと勢いよく起き上がった。

 傍にいた雪梅は、それはそれは酷く驚いたけれど、そんな素振りは見せず、すぐに重華に水を差し出した。


「そんなに勢いよく起き上がっては、眩暈がしてしまいますよ」


 そんな言葉とともに差し出された水を、重華は迷うことなく受け取った。

 なぜだかわからないが、ものすごく喉が乾いていたのだ。

 珍しく、勢いよく水を飲み干して、ほっと息を吐く。

 その様子を見て、雪梅がくすりと笑った。


「やはり、喉が乾いていらしたのですね」

「どうして、わかったんですか?」

「丸一日以上、眠っていらっしゃったので」

「そ、そんなに!?」


 聞けば、熱を出して薬を飲んだのは一昨日のことだという。

 昨日は一日寝台の上で眠って過ごし、さらに翌日となった今日の朝、重華はようやく目を覚ましたのだ。


「あ、そ、それよりも、あのっ」


 重華が突然起き上がったのには理由がある。

 ある大事なことを、思い出したからだ。

 なぜ今まで忘れてしまっていたのか、自分で自分が信じられないと思うほど大切なことを。


「私が着ていた着物の中に、その、えっと……」

「こちらですか?」


 要領得ない重華の言葉にも戸惑う様子も見せず、雪梅は重華の手にあるものを置いた。


「これっ!これです……っ」


 重華はぐっと手の中のものを握りしめた。


(よかった、落としてなかった……っ)


 それは、池に落とされる少し前、天藍殿で晧月に貰った軟膏だった。

 とても貴重なものだと聞いていたのに、もし池に落としてしまっていて、今もそのままだったらどうしようかと思って焦っていたのだ。


「でも、どうして、これって……」

「昨日、陛下も同じものを探しておられたので」

「え……?」

「陛下からの伝言です。今日はちゃんと自分で塗るように、と」


 それは、晧月が重華が目覚めたら伝えるようにと、春燕と雪梅に命じたものである。


「今日は……?」

「はい、昨日は眠っておられたので、陛下がなさっておりました。今日も起きられなければ、陛下がなさるおつもりだったかと」

「え?ええっ!?」


 重華は慌てて自身の両手を見た。

 だが、さすがに時間が経っているため、塗られた痕跡を感じることはできなかった。


「蔡嬪様、ご存知ですか?その軟膏、この国に献上されたのは、たった3つだけなんですよ」

「え?3つ、だけ……?」


 貴重なものだとは聞いていたけれど、そこまで数が少ないとは思わず、重華は非常に驚いた。


「1つはとても貴重なものということで、陛下がお持ちになっています。もう1つは、老いた手も若々しく美しい手に蘇らせることができる、とも使者が言っていたそうで、皇太后陛下に贈られました。そして、最後の1つが蔡嬪様に贈られたのです」


 この国の中で最も高貴な、皇帝と皇太后という2人しか手にできていないような貴重なものを、まさか自身が受け取っていたなど重華は夢にも思わなかった。

 本当に貰っても大丈夫なのか、重華は今さらながら不安に襲われる。


「これも、陛下のご寵愛の証ですね」

「ご、ごちょ……っ!?ち、違います、そんなんじゃなくて、そんなんじゃ……っ」


 重華の声は徐々に小さくなった。

 春燕や雪梅に、どこまで事情を話していいのか、2人がどこまで知っているのかわからなかったというのもある。

 だがそれ以上に、改めて自身は寵愛されているわけではない、そう見せているだけにすぎないのだと考えると、なぜか妙に悲しい気持ちになったのだ。


「蔡嬪様?」

「あっ、ごめんなさい、なんでもないんです、なんでも……っ!これ、ちゃんと使いますね」


 気を抜くと、泣いてしまいそうな気がして、重華は必死に笑顔を作ってそう言った。






「こらっ」


 そんな一言とともに、読んでいた書物が目の前から消えて、重華は顔をあげる。


「陛下……」

「こんなもの読んでないで、おとなしく……」


 重華の顔を覗き込んだ晧月は、重華の瞳に違和感を覚え、言葉が不自然に止まる。

 それを不思議そうに見つめる重華の表情を、晧月はさらに近づいてまじまじと見つめる。


「泣いた、のか……?目が少し赤い」

「え?いえ、その……たぶん、たくさん寝たからだと……」

「そうか。後で目を冷やしてもらえ」


 そう言うと、晧月は重華のいる寝台の上に、腰掛けた。

 そして、まるでそうする事が当たり前であるかのように、重華の額に手を伸ばす。


「ひゃっ」


 晧月の手が重華の額に触れた瞬間、重華の身体がびくりと跳ね、重華が勢いよく身体を引いた。


「悪い、冷たかったか?」

「い、いえ、そういうわけでは……」


 ただ、どきっとしただけだった。

 重華自身も、自分の取った反応に驚いている。


「熱があるかみるだけだ、少しおとなしくしていろ」

「は、はい……」


 晧月の手が、再び重華の額へと伸びる。

 重華は反射的に身体を引いてしまわないよう、ぎゅっと固く目を閉じた。


「やはり、まだ少し熱いな……」


 自身の額の温度と比べながら、晧月が呟く。

 額から晧月の手が離れたことで、重華はゆっくりと目を開けた。


「書物を読むのは、熱が下がってからにしろ」

「だめ、ですか……?」

「体調が悪い時に、難しい書物なんか読んでいたら、頭が痛くなるだろう?」


 晧月が幼い時はそうだった。

 具合に悪い時に、無理に勉強しようとしても頭痛に悩まされるだけで、内容はまるで頭に入らず、とても効率が悪かったのだ。

 しかし、重華はしばらく首を傾げた後、ふるふると左右に首を振る。


「痛くならないのか!?」


 晧月は非常に驚いて、目を見開いた。

 それから、何か考え込むように、顎に手をあてる。


「それなら、読んでいても問題ないか?いや、だが、もし……」


 小さな声でぶつぶつと独り言を言い始めた晧月を、重華はただじっと眺めていた。

 すると、晧月が重華を振り返り、ぱちりと目があう。


「読みたいか?」


 先ほど重華から奪い取った書物を持ち上げ、晧月が問いかける。

 問われた重華は、すぐにこくこくと頷いた。


「わかった。ただし、ほどほどにしろよ。体調を悪化させたりしたら、すぐに取り上げるからな」


 そうして、晧月は取り上げた書物を、重華の手に戻す。

 重華はすぐに嬉しそうに笑った。


(そんなに嬉しいか……)


 たかだか書物一冊が手元に戻ってきただけだというのに、宝物でも手に入れたかのような笑顔に、晧月は苦笑する。

 しかし、その笑みを見れただけでも、返してよかったのかもしれないと思っていた。




「あ、そういえば、その、英妃様は……」


 重華がふと、思い出したように晧月に訊ねる。


「もう、英妃ではない。才人に降格させ、同時に後宮指南役の任も解いた。寝殿から出ることも禁じているから、そなたと会うことも二度とない」

「才人……」


 確か一番低い妃位だったはず、と重華はぼんやりと晧月に教わったことを思い起こす。

 後宮で一番高い身分だった人が、一番下まで落ちることもあるのだと、重華は少なからず驚いた。


「そなたの希望通り、冷宮には送っていないから安心しろ」

「よかったぁ……」

「まったく、そなたを害したものを、そんなに心配するとは」


 心底安心した様子を見せる重華に、晧月はまたも苦笑した。

 重華らしいとも思うけれど、やはり後宮で過ごすにはなかなか苦労しそうだと思ってしまう。


「その件で、そなたに頼みがあったのだが……熱が下がってからにしよう」

「え?なんですか?」

「熱が下がったら、話してやる」

「き、気になります」

「だったら、早く治せ」


 その後も重華はどうしても気になって、少しだけでも内容を教えて欲しいと何度も懇願した。

 けれど、晧月は頑なに教えてくれず、重華は結局諦めるしかなかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?