重華は突然、寝台からがばっと勢いよく起き上がった。
傍にいた雪梅は、それはそれは酷く驚いたけれど、そんな素振りは見せず、すぐに重華に水を差し出した。
「そんなに勢いよく起き上がっては、眩暈がしてしまいますよ」
そんな言葉とともに差し出された水を、重華は迷うことなく受け取った。
なぜだかわからないが、ものすごく喉が乾いていたのだ。
珍しく、勢いよく水を飲み干して、ほっと息を吐く。
その様子を見て、雪梅がくすりと笑った。
「やはり、喉が乾いていらしたのですね」
「どうして、わかったんですか?」
「丸一日以上、眠っていらっしゃったので」
「そ、そんなに!?」
聞けば、熱を出して薬を飲んだのは一昨日のことだという。
昨日は一日寝台の上で眠って過ごし、さらに翌日となった今日の朝、重華はようやく目を覚ましたのだ。
「あ、そ、それよりも、あのっ」
重華が突然起き上がったのには理由がある。
ある大事なことを、思い出したからだ。
なぜ今まで忘れてしまっていたのか、自分で自分が信じられないと思うほど大切なことを。
「私が着ていた着物の中に、その、えっと……」
「こちらですか?」
要領得ない重華の言葉にも戸惑う様子も見せず、雪梅は重華の手にあるものを置いた。
「これっ!これです……っ」
重華はぐっと手の中のものを握りしめた。
(よかった、落としてなかった……っ)
それは、池に落とされる少し前、天藍殿で晧月に貰った軟膏だった。
とても貴重なものだと聞いていたのに、もし池に落としてしまっていて、今もそのままだったらどうしようかと思って焦っていたのだ。
「でも、どうして、これって……」
「昨日、陛下も同じものを探しておられたので」
「え……?」
「陛下からの伝言です。今日はちゃんと自分で塗るように、と」
それは、晧月が重華が目覚めたら伝えるようにと、春燕と雪梅に命じたものである。
「今日は……?」
「はい、昨日は眠っておられたので、陛下がなさっておりました。今日も起きられなければ、陛下がなさるおつもりだったかと」
「え?ええっ!?」
重華は慌てて自身の両手を見た。
だが、さすがに時間が経っているため、塗られた痕跡を感じることはできなかった。
「蔡嬪様、ご存知ですか?その軟膏、この国に献上されたのは、たった3つだけなんですよ」
「え?3つ、だけ……?」
貴重なものだとは聞いていたけれど、そこまで数が少ないとは思わず、重華は非常に驚いた。
「1つはとても貴重なものということで、陛下がお持ちになっています。もう1つは、老いた手も若々しく美しい手に蘇らせることができる、とも使者が言っていたそうで、皇太后陛下に贈られました。そして、最後の1つが蔡嬪様に贈られたのです」
この国の中で最も高貴な、皇帝と皇太后という2人しか手にできていないような貴重なものを、まさか自身が受け取っていたなど重華は夢にも思わなかった。
本当に貰っても大丈夫なのか、重華は今さらながら不安に襲われる。
「これも、陛下のご寵愛の証ですね」
「ご、ごちょ……っ!?ち、違います、そんなんじゃなくて、そんなんじゃ……っ」
重華の声は徐々に小さくなった。
春燕や雪梅に、どこまで事情を話していいのか、2人がどこまで知っているのかわからなかったというのもある。
だがそれ以上に、改めて自身は寵愛されているわけではない、そう見せているだけにすぎないのだと考えると、なぜか妙に悲しい気持ちになったのだ。
「蔡嬪様?」
「あっ、ごめんなさい、なんでもないんです、なんでも……っ!これ、ちゃんと使いますね」
気を抜くと、泣いてしまいそうな気がして、重華は必死に笑顔を作ってそう言った。
「こらっ」
そんな一言とともに、読んでいた書物が目の前から消えて、重華は顔をあげる。
「陛下……」
「こんなもの読んでないで、おとなしく……」
重華の顔を覗き込んだ晧月は、重華の瞳に違和感を覚え、言葉が不自然に止まる。
それを不思議そうに見つめる重華の表情を、晧月はさらに近づいてまじまじと見つめる。
「泣いた、のか……?目が少し赤い」
「え?いえ、その……たぶん、たくさん寝たからだと……」
「そうか。後で目を冷やしてもらえ」
そう言うと、晧月は重華のいる寝台の上に、腰掛けた。
そして、まるでそうする事が当たり前であるかのように、重華の額に手を伸ばす。
「ひゃっ」
晧月の手が重華の額に触れた瞬間、重華の身体がびくりと跳ね、重華が勢いよく身体を引いた。
「悪い、冷たかったか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
ただ、どきっとしただけだった。
重華自身も、自分の取った反応に驚いている。
「熱があるかみるだけだ、少しおとなしくしていろ」
「は、はい……」
晧月の手が、再び重華の額へと伸びる。
重華は反射的に身体を引いてしまわないよう、ぎゅっと固く目を閉じた。
「やはり、まだ少し熱いな……」
自身の額の温度と比べながら、晧月が呟く。
額から晧月の手が離れたことで、重華はゆっくりと目を開けた。
「書物を読むのは、熱が下がってからにしろ」
「だめ、ですか……?」
「体調が悪い時に、難しい書物なんか読んでいたら、頭が痛くなるだろう?」
晧月が幼い時はそうだった。
具合に悪い時に、無理に勉強しようとしても頭痛に悩まされるだけで、内容はまるで頭に入らず、とても効率が悪かったのだ。
しかし、重華はしばらく首を傾げた後、ふるふると左右に首を振る。
「痛くならないのか!?」
晧月は非常に驚いて、目を見開いた。
それから、何か考え込むように、顎に手をあてる。
「それなら、読んでいても問題ないか?いや、だが、もし……」
小さな声でぶつぶつと独り言を言い始めた晧月を、重華はただじっと眺めていた。
すると、晧月が重華を振り返り、ぱちりと目があう。
「読みたいか?」
先ほど重華から奪い取った書物を持ち上げ、晧月が問いかける。
問われた重華は、すぐにこくこくと頷いた。
「わかった。ただし、ほどほどにしろよ。体調を悪化させたりしたら、すぐに取り上げるからな」
そうして、晧月は取り上げた書物を、重華の手に戻す。
重華はすぐに嬉しそうに笑った。
(そんなに嬉しいか……)
たかだか書物一冊が手元に戻ってきただけだというのに、宝物でも手に入れたかのような笑顔に、晧月は苦笑する。
しかし、その笑みを見れただけでも、返してよかったのかもしれないと思っていた。
「あ、そういえば、その、英妃様は……」
重華がふと、思い出したように晧月に訊ねる。
「もう、英妃ではない。才人に降格させ、同時に後宮指南役の任も解いた。寝殿から出ることも禁じているから、そなたと会うことも二度とない」
「才人……」
確か一番低い妃位だったはず、と重華はぼんやりと晧月に教わったことを思い起こす。
後宮で一番高い身分だった人が、一番下まで落ちることもあるのだと、重華は少なからず驚いた。
「そなたの希望通り、冷宮には送っていないから安心しろ」
「よかったぁ……」
「まったく、そなたを害したものを、そんなに心配するとは」
心底安心した様子を見せる重華に、晧月はまたも苦笑した。
重華らしいとも思うけれど、やはり後宮で過ごすにはなかなか苦労しそうだと思ってしまう。
「その件で、そなたに頼みがあったのだが……熱が下がってからにしよう」
「え?なんですか?」
「熱が下がったら、話してやる」
「き、気になります」
「だったら、早く治せ」
その後も重華はどうしても気になって、少しだけでも内容を教えて欲しいと何度も懇願した。
けれど、晧月は頑なに教えてくれず、重華は結局諦めるしかなかった。