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36. 声


「やっぱり、陛下が助けてくださったのですね」


 それは、重華がずっと気になっていたことだった。

 重華の記憶は、池の中に沈んだところで途切れており、次に気がついた時には晧月の腕の中にいた。

 その時の晧月が水に濡れている様子からも、おそらくそうなのだろうと思っていた。

 そして、先ほど、それを裏付けるような晧月の一言があった。

 もし、晧月が間に合っていなかったら、重華は助からなかったかもしれない。

 それはつまり、晧月が間に合って、重華を助けてくれたということだ。


「本当は、もう少し早くあの場にたどり着いていたら、よかったんだがな……そうすれば、そなたがあのように恐ろしい思いをすることもなかっただろう」


 重華はわざわざ自身のために、自ら池に飛び込んでまで助けてくれたことに感謝しかなった。

 けれど、晧月は後悔の念にさいなまれ、落ち込んだ様子である。


「おかしいかもしれませんが、私、きっと陛下が助けてくださると、思っていました」


 皇帝にわざわざ助けてもらおうなど、生意気に思われてしまうかもしれない。

 けれど、重華はあの瞬間、確かに晧月が助けてくれるような予感があったのだ。


「なぜだ?」

「声が、聞こえたんです」

「声……?朕の?」

「はい。といっても『重華』と呼ばれたので、私の気のせいだと思うんですけど。でも、いつも私のことを助けてくれる声で、きっと今回も助けてくれるって。そう思ったら、怖くなくなりました」


 冷たい水も、重くなっていく着物も、遠ざかる水面も、そして水の中での息苦しさでさえも。

 晧月が助けに来てくれたなら、大丈夫だとそう思えたのだ。


「そうか。あの時、朕は咄嗟に名前を呼んだのだな」


 飛び込む前、確かに必死に叫んだような記憶が晧月にはうっすらとではあるがあった。

 しかし、余裕がなかったとはいえ、蔡嬪ではなく重華と呼んでしまっていたことは、晧月にとっても意外なことだった。

 それでも、そうして名前を呼んだことで、重華を少しでも安心させられたのであれば、必死に叫んだ甲斐もあったと晧月は思う。


「じゃあ、あれは……」

「朕の妃の名前を、他のものが呼べるわけがない。朕が呼んだのだ」


 晧月以外に呼ばれたかもしれない、とは重華も思ってはいない。

 ただ、重華の希望が作り出した幻の声だったかもしれないと、そう思ったにすぎないのだけれど。


「名を呼ばれるのは、嫌だったか?」

「い、いいえ……」

「では、これからも、2人の時は呼んでもいいだろうか?『重華』と……」


 重華の心臓がどくんと跳ねる。

 この後宮に来てから一度も呼ばれてないからなのか、それとも、元々あまり名前を呼ばれる機会がなかったからなのか。

 晧月の口から自分の名前を聞くだけで、心臓が暴れ出しそうだった。


「嫌か?」

「いいえっ」


 重華は慌てて勢いよく首を振る。

 決して嫌悪しているわけではない、ただ、落ち着かないだけである。


「そうか、よかった」


 了承と捉えた晧月が、再び重華の名を呼ぶ。

 重華の心臓がふたたび跳ねて、先ほどよりも煩くなった気がした。


(呼ばれるのはいいけど、慣れるのに時間がかかりそう……)


 重華は少しでも落ち着こうと、ただそれだけに必死だった。




「ど、どうして陛下は、あの場所に?私を、追いかけて来たんですか?」


 これもまた、重華が気になっていたことではある。

 だが、訊ねた理由は、気になっていたからというより、話題を変えて少しでも落ち着きたかったからという方が強い。


「たまたま、そなたの簪についていた飾り石が落ちているのを見つけて、届けようとして追いかけたんだ」

「簪の飾り石……そんなもののために、わざわざ……?」


 晧月は重華の元へ毎日のように訪れるのだ。

 わざわざ追いかけなくても、そうした何かのついでに届けてくれたので十分なはずである。

 けれど、そうして晧月が追いかけてくれていなければ、重華の身体は池の中に沈んだまま誰にも助けて貰えなかったかもしれない。

 重華は晧月の行動全てに、感謝の気持ちでいっぱいだった。


「ちなみに、飾り石の方はどこかに落としてしまったようだがな」


 月長宮に戻った時に身の周りを確認したが、どこにも見当たらなかった。

 あの時、咄嗟に投げ捨てたのか、池の中に落としたのか晧月は最早覚えていない。

 わかっているのは、ただ、晧月の手元にない、ということだけである。


「今度新しい簪をやるから、それで許せ」

「い、いえ、そこまでしていただかなくても、大丈夫です」


 飾りが1つないくらい、重華は気にしない。

 それでも十分に華やかできれいな簪だと思うから。

 けれど、晧月はそうは思ってくれないらしい。


「そうはいかん」


 重華は何度も大丈夫だと、必要はないのだと訴えてはみたが、結局は一歩も引いてくれる様子のない晧月の言葉を受け入れるしかなかった。






 2人で穏やかに会話をかわす空気がしばし続いていた。

 しかし、重華からはぁはぁと荒い呼吸音が聞こえはじめ、その空気は一転する。


「重華、どうした?」


 晧月がそうして、重華の顔を覗き込むと、心なしか重華の顔が先ほどよりも赤くなっているように感じる。


「少し、触るぞ」


 そうして、今度は額に触れてみると、少しではあるが晧月よりも体温が高いような気もする。


「少し熱があるかもしれんな」

「あ……さっき、柳太医が……後で熱が出るかもしれないから、そしたら飲むようにって、薬を……」

「そういうことは、早く言え」


 そうと知っていれば、長々とこうして話すこともなく、大事をとって早めに寝かせることもできたのに、と晧月は思う。


「春燕、雪梅、どちらでもいい!すぐに蔡嬪の薬を持って参れ!」


 他の部屋にいるだろう2人に聞こえるよう、晧月が声を張る。

 近くに控えていたのだろう、ばたばたと動き出す音がすぐに聞こえた。


(あ、ここでは変わらず蔡嬪なんだ……)


 晧月も2人きりのとき、と言っていた。

 気心が知れている様子の2人の前でさえ、重華と呼ぶことはないのだと、この時の重華はそう思っていた。




「重華、薬だ。飲めるか?」


 すぐに用意された薬を受け取り、晧月は重華に自ら飲ませようとする。

 しかし、重華はそれどころではなかった。


(あれ?ここでは重華でいいの?)


 薬を用意した春燕も雪梅も、すぐそばに控えている状態だ。

 晧月が名前を呼んだことに少なからず2人も驚いたのか、顔を見合わせている。

 基準があまりにも曖昧で、重華は首を傾げた。

 もっとも晧月次第であるので、基準なんてあってないようなものなのだが。


「重華?」

「あ、じ、自分で飲みます」


 再度、晧月から声がかかり、とりあえず重華は一旦浮かんだ疑問は忘れ、薬へと手を伸ばす。

 しかし、手が届く直前で、ひょいっと薬は逃げてしまった。


「あ……」

「朕が飲ませてやる、ほら」


 しっかりと晧月に身体を支えられ、口元に薬の入った器を近づけられる。

 重華は逃げるに逃げられず、そのまま薬に口をつけるしかなかった。


「よし、全部飲んだな、えらいえらい」


 口に広がる苦味に耐えながら、なんとか全て飲み干した重華に対し、晧月はまるで子どもを相手にしているかのようにそう言った。

 それから、重華の身体を寝台へと横たえる。


「まったく、よく体調を崩すやつだ」


 こんなに頻繁に体調を崩していては、輿入れ以降ずっと伏せっているという嘘も、あながち嘘ではなくなってしまいそうだと晧月は思う。


「申し訳、ありません……ですが、このくらいであれば、たいしたことは……」


 重華からすれば、今さらなことである。

 輿入れ前であっても、やはり身体が弱っていたのか、体調は頻繁に崩した。

 ただ、それでも動けと言われれば動くし、働けと言われれば働いただけである。

 今も寝込まずいつも通りにしていろと晧月が命じたなら、重華は病人らしく寝台に横たわったりなどしない。

 もっとも、晧月はむしろ絶対に安静にしていろ、と言うだろうけれど。


「間違ってもたいしたことないからと、動き回ったりするなよ。熱が下がるまで、おとなしくしていろ」


 晧月の言葉を聞いて、重華はふわりと笑った。


(ああ、やっぱり……)


 予想通りだった、そう思いながら重華はゆっくりと目を閉じた。


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