天藍殿を後にした重華は、目の前に突如現れた人を見て、酷く動揺していた。
「あら、蔡嬪。体調はもういいのかしら?」
重華はその言葉に、びくりと肩を揺らすことしかできない。
(どうしよう、伏せっていることになっているのに、こんな風に出かけたところを見られてしまうなんて……)
きっと、これは晧月の望まない事態なのではないか。
そう考えるだけで、重華は全身の血の気が引くような気がした。
ここには、いつも重華を助け、上手くごまかしてくれた晧月はいない。
重華は、どうすることが正解なのかわからず、その場に立ち尽くすしかなかった。
「後宮指南役でもあるわたくしに、挨拶の1つもないのかしら?」
何も言わず黙り込んだ重華に対し、痺れを切らしたかのように英妃が言う。
「あ、も、申し訳……」
重華は、声が震えてしまうのを止められなかった。
(陛下への挨拶と、同じでいいの……?)
それしか、重華は知らないのだ。
ここで英妃に出会うなど、想定外の事態だったのだから。
「陛下の寵愛を受けた自分の方が上、とでも言いたいのかしら?」
「い、いえ、決してそのような……」
冷ややかな視線を向けられて、重華は背筋がぞくりと震えるのを感じた。
全身が凍り付いて、立っていられなくなりそうだった。
だが、自身に対して怯えを見せる重華の様子は、英妃の気分を少しだけ良くしたようだった。
「まぁ、いいわ。挨拶は許しましょう」
とりあえず、挨拶はしなくてもよくなった事に重華はほっとした。
しかし、とても良い態度には捉えられていない様子に、不安も募る。
重華はそもそも皇帝の寵愛を受けているとも思っていないし、もちろん自分の方が上だなどという考えもない。
けれど、どうすればそれが伝わるのか、重華には検討もつかなかったのだ。
「琥珀宮とは反対の方からいらしたわね。どちらに行っていらしたの?」
英妃は、ある程度予想がついていた。
それでも、本人の口から聞かずにはいられなかった。
「て、天藍殿に……」
「天藍殿は、陛下が政務を行うところです。何の用が?」
これも、ある程度は予想がついている。
妃嬪が天藍殿を訪れる理由など、晧月に会いに行くか差し入れを持って行くくらいしかありえない。
「点心を作ったので、その、陛下に……」
「まぁ!そんなことで、陛下の政務の邪魔をしに行ったんですの!?」
英妃は大袈裟に驚いてみせる。
重華は、すごく悪い事をしてしまったような気分になって俯いた。
(でも、雪梅さんは確か……)
重華だけではなく、他の妃嬪たちもそうしているのだと言っていた。
晧月だって、突然訪れた重華を怒るようなことはなかった。
むしろ、去り際には、また何か作ったら持ってくるようにと言ってくれたくらいなのだ。
けれど、それでも重華は、自信を持って政務の邪魔をしていないと言うことはできなかった。
「陛下はお忙しい方ですから、お会いになれなかったでしょう?」
「い、いえ、一緒にお茶をしていただきました」
「なんですって!?」
英妃の一際大きな声が響き渡り、重華は思わず後ずさってしまう。
重華の視界に、わなわなと震える英妃の両手が映る。
顔をあげて、英妃の表情まで見る勇気は、今の重華にはなかった。
(わたくしは、一度も入ったことがないのに……)
何度訪れようとも、決して招き入れられることはなかった天藍殿の中。
いくら重華であっても、門前払いだったに違いない、と英妃は思っていた。
いや、どこかで重華だけは許された可能性は考えていたけれど、それでも門前払いであって欲しかったという英妃の希望だったかもしれない。
けれど、重華はあっさりとそこへ入ることを許され、お茶までしたのだという。
きっと持って行ったという点心も、その場で食べたに違いない。
そう考えると、英妃は怒りを抑えることができなかった。
(許さない)
そんな思いだけが、英妃を支配していく。
「蔡嬪、あなたには罰を与えなくていけませんね」
「ば、罰、ですか……?」
「ええ、陛下の大切な政務の時間を邪魔したのです。それに、妃であるわたくしに挨拶もできない。後宮指南役として、これを見過ごすわけにはいきません」
重華は黙って俯くことしかできなかった。
そのことが、より英妃を調子づけることになるとは気づくこともできないまま。
「だいたい、体調が良くなったのであれば、わたくしや皇太后陛下への挨拶が先ではなくて?それをないがしろにして、陛下に媚びを売ることだけ考えるなんて」
「わ、私は媚びを売ったりなんて……」
「まぁ、わたくしに口答えする気ですの!?」
「い、いえ、決してそのような……」
なんと嘆かわしい、と大袈裟な身振りを加えながら英妃は重華を問い詰めていく。
重華は反論しようにも上手くいかず、結局黙り込むことしかできなかった。
「そこの池を覗いてごらんなさい。鯉がいるでしょう?」
そう言って英妃は、すぐ傍にあった池を指差した。
(鯉を見るのが、罰……?)
もしかしたら、妃嬪の間で与えられる罰はそんなに酷いものではないのかもしれない。
重華はそんな風に思いながら、おそるおそる池へと近づいて、中を覗き込んでみた。
(鯉なんて、どこにもいない……)
鯉はおろか、魚の姿など全くなかった。
「英妃様、鯉なんてどこにも……えっ?」
それは、重華が英妃を振り返った瞬間のことだった。
英妃は傍に控えていた侍女とともに、重華の身体を強く押した。
重華の身体はその力に逆らえず、重力に従って池の中へと吸い込まれていく。
「た、助け……っ」
ばしゃんと重華が池に落ちる音と、わずかに聞こえた重華の声に、すぐさま数名の衛兵が重華を助けるため池に飛び込もうとした。
「まだ、助けてはなりません!これは、後宮指南役としての命令です」
英妃がそう言うと、衛兵たちは動けなくなった。
皇帝の寵妃だという点を除いたとしても、すぐに助けなければ大変なことになるのは、明らかだった。
「英妃様、早くお助けしないと蔡嬪様が……っ」
1人の衛兵が勇気を出して声をあげたが、英妃から冷ややかな視線を向けられるだけだった。
「助けないとは言っていません。しばらく水の中で反省させているだけです」
そんなやり取りをしている間にも、重華の身体はどんどんと池の中へと沈み、姿が見えなくなっていってしまう。
しかしながら、英妃が後宮指南役として命を下してしまった以上、それを超える皇帝の命令でもない限り、衛兵たちはただ池に沈む重華を眺めることしかできなかった。
もう春だと、以前晧月は言ったけれど、池の水はまだまだ冷たかった。
必死に水面に手を伸ばしたけれど、泳いだ経験などなかった重華は、上手く浮き上がることはできなかった。
助けを呼ぼうと必死に声を出したけれど、すぐに顔も水につかってしまい、たくさん水が入って来るだけになってしまった。
水を吸った着物はどんどんと重くなり、重華の身体をどんどんと池の底へと沈めていく。
身体もどんどんと冷たくなり、手を伸ばす力さえなくなっていった。
もう、このまま沈むしかないのだ、と重華が全てを諦めそうになった時だった。
「重華っ」
誰かが重華を呼ぶ声が聞こえた。
(ここでは誰も、私を名前で呼んだりしないのに)
けれど、その声は重華を安心させてくれた。
重華の視界の端に、誰かの手が見えたような気がした。
同時に、重華は全身が光に包まれたような感覚を覚える。
(きっと、もう、大丈夫)
なぜかはわからないけれど、重華はそう思えた。
そして、重華の意識は、そこでぷつりと途切れてしまった。