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32. 英妃の事情


 英妃は、晧月の誕生日以降、怒りが治まることはなかった。

 宴会の主催者という立場でありながら、早々に主役である晧月に退席されたことで、妃嬪たちの笑いものになった。

 その悔しさをぶつけようにも、全ての元凶だと英妃が考えている重華には、晧月の命により妃嬪の誰も接触することが叶わない。

 それゆえに、怒りは治まるどころか、増す一方だったのである。






 英妃が輿入れしたのは、晧月が即位して間もない頃だった。

 今後宮に住まう妃嬪のほとんどが、英妃と同じ日に輿入れしている。

 多くの妃嬪を前に、晧月は嬉しそうにするどころか、むしろ不快感をあらわにした様子だったのを、英妃は今でもよく覚えている。

 その中で、英妃は父が役人であるとはいえ、あまり高位ではなかったため、最初は美人に封じられた。

 英妃もそれが妥当だったと思っており、そのこと自体に不満はなかった。

 輿入れの日だというのに、晧月が誰の元も訪れなかったことも、気にはならなかった。

 その時の英妃は、ただ身分相応に後宮で穏やかに過ごせれば、それで満足だった。


 晧月は後宮に妃嬪を迎え入れても、誰とも接触すらしないような日々を過ごしていた。

 そんな晧月が、英妃の宮を訪ねて来たのは、役人たちからいいかげん誰かを妃以上に封じ後宮の管理を任せるようにと騒ぎ立てる声から、晧月が逃げられなくなった頃のことだった。

 まだ日の高い明るい時間であったため、その目的が夜伽でないことは明らかであった。

 英妃はむしろ、皇帝が訪れて嬉しいというよりは、妃嬪の元を訪れない皇帝が訪れたということで、何か罰せられるのではないかと心配しながら晧月を迎えた。

 しかし、晧月の用件は英妃の想像とは大きくかけ離れていた。


「そなたを、妃に封じ後宮指南役を任せたいと思っている。どうか朕に力を貸してくれないだろうか」


 相手は力のない役人の娘である。

 こうして意向を訪ねなくとも、皇帝が宣旨を下してしまえば断ることなどできない。

 それなのに、わざわざこうして訪ねてきたこと、そして何より強い意思を持った真っ直ぐな瞳を向けられ、英妃はその瞬間、恋に落ちてしまい二つ返事で了承の意を伝えた。


 英妃はよく理解していた。

 自身が輿入れできた理由も、またこうして妃に封じられることになった理由も。

 皇帝の妃となるべく秀女選びに参加した女人のほとんどは、晧月ではなく第三皇子を支持する勢力の家の娘だった。

 当時、晧月を支持していた丞相をはじめとする丞相側の勢力の家には、適齢期の娘がいなかったのである。

 その中で、英妃の父は、力こそあまりないが、どちらの勢力にも属していない中立的な立場にいた。

 敵対勢力の娘を選ぶくらいなら、力のない家柄でも、中立的な立場の役人の娘がよい、晧月はそう考えただけにすぎない。

 そこには決して、英妃を気に入っただとか、そういった要素は一切ないのだ。


 しかし、英妃が『英』という封号を授けられ、妃に封じられたことで、父は多少なりとも昇進を果たし、今までよりは力を持つことができるようになった。

 また、英妃も後宮で最も高貴な存在となり、住まいも水晶宮という他の妃嬪たちよりも各段に豪華な寝殿が与えられた。

 その上、晧月から訪れがあった唯一の妃として、妃嬪から一目置かれる存在にもなった。

 ただ穏やかに過ごせればいいと思っていたはずの娘は、権力を得てしまったことでさらに多くのものを求めるようになってしまう。




 英妃が最も強く求めたのは、晧月の寵愛であった。

 他の妃嬪には可能性は皆無であっても、自分であればいつかそれも得られるのではないか、英妃にはいつしかそんな期待が芽生えていた。

 なぜなら、晧月はいつだって英妃の行うことを容認してくれたから。

 英妃が後宮指南役として他の妃嬪たちをどれほど酷く罰しようと、晧月は何も言わなかった。

 他の妃嬪が耐えきれず、晧月に助けを求めても、晧月は決して応じることはなかった。

 晧月はただ興味がなかっただけにすぎないが、英妃は自身を信頼してくれているのだと信じて疑うことはなかった。


 理由は、それだけではなかった。

 英妃は他の妃嬪たちが少しでも晧月の関心を得ようと、差し入れ等を持って天藍殿を訪れては門前払いとなっていることをよく知っている。

 しかし、英妃に対しては違っていた。

 天藍殿に足を踏み入れることも、晧月の顔を見ることも叶わなかったけれど、持って行ったものは受け取って貰えた。

 実際のところ、宦官によって受け取られたところで、それを晧月が手にすることはなかった。

 ただ、他の妃嬪よりも低い家柄出身である英妃が、後宮指南役という立場となった事で、多少なりとも不便な事が発生するかもしれない。

 少しでも円滑に事を進められる手助けになれば、それくらいの気持ちで晧月が宦官に指示を出していただけの事だった。

 英妃は、決して受け取った後の事を聞けた事もなければ、晧月からお礼や感想を伝えられた事もなかった。

 けれど、食べ物であれば晧月の口に入ったと信じ、それ以外のものも全て晧月の傍にあるのだと、信じて疑うことはなかった。


 自分だけは、他の妃嬪たちとは違う。

 ゆっくりだけれど、晧月と着実に距離を縮めている。

 宴会の時だってそうだった、本来皇帝の左右に妃嬪の席が並ぶべきだが、英妃の席しか隣になくても、晧月は文句も言わなかった。

 自分だけが、晧月に必要とされている女人なのだ。

 そんな思いが、英妃にさらに晧月の寵愛を求めさせ、そして皇后の座という未来までも夢見させるようになった。




 しかし、その全てを打ち砕いたのが、蔡嬪の輿入れだった。

 輿入れしたその日の夜、晧月が蔡嬪の元を訪れたという話は、瞬く間に妃嬪たちの間で広まった。

 だが、英妃は、丞相の娘だから一晩だけ訪れたにすぎないのだと、そう思っていた。

 ようやく輿入れした、晧月を支持する勢力の娘であるがゆえ、無碍にはできなかっただけなのだと。

 だから、それで調子に乗ってしまわないよう、自分がしっかりと釘を刺してやらねばならない。

 それが後宮指南役である自分の役目であり、またそうすることが晧月のためでもあるのだと英妃は信じていた。


 だが、そんな英妃の元に、晧月から一通の文が届く。

 晧月から文が届くなどなかなかない事であり、英妃は歓喜に震えたが、その中身を読んですぐに落胆した。

 内容は蔡嬪が輿入れ後、慣れない環境で体調を崩したため、しばらくどの妃嬪とも顔をあわせなくて済むように取り計らってほしいという内容である。

 その妃嬪の中には、当然英妃も含まれる。

 英妃は自身が蔡嬪と顔をあわせないことはもちろん、他の妃嬪が興味本意で蔡嬪の元を訪れたりしないよう、しっかりと見張らなければならなくなったのだ。

 それはつまり、晧月は英妃が蔡嬪に釘を刺すことなど望んではいないと言われているような気がしてならなかった。


 英妃の落胆と失望はそれだけに留まらなかった。

 誰も顔を見ることすら叶わない状況下で、晧月だけは毎日のように蔡嬪の元を訪れた。

 最も信頼する太医を毎日通わせ、状態を毎日詳細に報告させているにも拘らずだ。

 さらには、着物や装飾品など、様々なものが蔡嬪の宮へと運ばれ蔡嬪に贈られたらしいという噂も流れてきた。

 これぞ寵愛の証だと、蔡嬪こそが寵妃なのだと、皇宮中に広がるのにそう時間はかからなかった。


 もし、蔡嬪の元を訪れることができるのであれば、多くの妃嬪がこぞって蔡嬪の寝殿を訪れたことだろう。

 そこに居れば蔡嬪の元を訪れた皇帝に会う機会を得られるかもしれない上に、蔡嬪ばかりが寵愛される状況を邪魔することもできるかもしれない。

 さらには、あわよくば自身への興味を惹くことができるかもしれないのだ。

 英妃をはじめ、普段ほとんど晧月と会う機会を得られない妃嬪たちからすれば、喉から手が出るほど魅力的な話である。

 しかし、晧月の命がある以上、誰もそうすることは叶わない。

 まるでその命が、晧月が蔡嬪を独り占めするために出されたかのように思えてしまって、英妃はただただ不快だった。




 そんな英妃の不快感と怒りが最高潮に達したのが、晧月の誕生日を祝うための宴会だった。

 誰もが現れると思っていなかったその場に、蔡嬪はあろうことか晧月と仲睦まじい様子を見せつけるかのように2人一緒に現れた。

 蔡嬪は病で伏せっている事を肯定するかのように痩せ細り、儚げであったが、それがまた晧月の庇護欲をかきたてるのだろうか。

 おそらく誰も見た事のないだろう慈愛に満ちた表情が、蔡嬪へと向けられていた。

 2人の醸し出す空気が、2人の間で交わされる会話が、寵妃とは、皇帝の寵愛を受けるという事は、こういうことなのだと見せつけられているようだった。

 それは同時に、英妃ではどれほど時間をかけようとも、そこにはたどり着けないのだと告げられているように思えてならなかった。


 怒りに震える英妃を置き去りに、蔡嬪の体調を理由に2人は早々に立ち去った。

 英妃は、2人きりの時間を作るための口実なのではないかと疑い、人を送って探らせた。

 なんでもいいから、蔡嬪の後ろ暗い部分を知り、少しでも優位に立ちたいという思いもあった。

 けれど、わかったのは太医が蔡嬪の診察に訪れたこと、そして、晧月がかなり遅い時間まで琥珀宮に居たということだけだった。




 英妃は、あれから何度も何度も自身に言い聞かせた。

 晧月が蔡嬪を大切にしているのは、蔡嬪が他でもない蔡丞相の娘だからにすぎないのだと。

 そこに、寵愛などあるはずもないのだ、と。

 しかしながら、そう言い聞かせるたびに、蔡嬪の体調を気遣い、寄り添う晧月の姿が浮かんだ。

 自身に言い聞かせたその言葉を、誰よりも否定しているのもまた、英妃だった。


(認めない、認めない、認めない)


 心の中で何度そう呟いても、自分の心は偽れない。

 やはり蔡嬪だけが、晧月の寵妃なのだと、唯一大切にしている妃なのだと、どうしてもそう思ってしまう。

 英妃はそれが悔しくて、やり場のない怒りが募る一方だった。


 そして、そんな英妃は偶然にも見つけてしまった。


(あれは、蔡嬪……?)


 伏せっているはずの蔡嬪が、天藍殿の方から歩いて来るのを。


(向こうから来たのだもの、わたくしのせいではないわ)


 英妃は冷ややかな笑みを浮かべながら、傍に居た侍女とともに一歩一歩蔡嬪との距離を詰めて行った。



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