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22. 接触


 重華は悪夢をぱたりと見なくなった。

 それが、追い出されないという言葉に安心したからなのか、目が覚めたら絵を描けるという楽しみができたからなのか、重華自身にもはっきりとはわからないけれど。

 とりあえずぐっすり眠れるようになったのだと、重華が周囲に笑顔で報告している頃、晧月の元には待ちに待った丞相が謁見に訪れていた。




「待っていたぞ、丞相。そなたには、感謝の意を伝えねばと思っていたのだ」


 鈴麗を探すことに必死だった丞相の元に、ようやく届いた1つの噂。

 それは、皇帝が最近嫁いできた蔡 重華という丞相の娘を寵愛しているというものだった。

 鈴麗として嫁がせたはずの娘の名前が変わっていることも驚きだったが、皇帝と娘が何度も顔をあわせてしまっているという事実に丞相は愕然とした。

 重華と鈴麗は姉妹でありながら欠片も似ていない。

 丞相からすれば自分の娘である鈴麗と、そうではない重華が似ても似つかないのは当然のことなので、それ自体は気にもとめていないけれど。

 しかしながら、重華の姿を見られてしまっては、皇帝に知られずに娘を入れ替えるという丞相の計画は破綻してしまう。


(あの娘、決して顔を見せずおとなしくしていろと言っておいたのに)


 顔を見られたどころか、なぜか名前まで知れ渡っている。

 すぐに事実の確認をしなければ、と慌てて皇宮を訪れた丞相を迎えたのは、それはそれは楽しそうな笑みを浮かべた晧月だった。


「朕の好みの美しい娘を輿入れさせてくれたこと、礼を言う」

「め、滅相もないことです、陛下」


 自身の娘を皇帝が気に入った、本来なら喜ばしいことだが、今の丞相はそれどころではない。

 晧月の顔色を伺いながら、必死に現状を把握しようと頭を働かせた。


「ま、まさか、めったに妃嬪の元を訪れない陛下が、こんなにも我が娘を気に入って寵愛してくださるとは……」


 丞相は引き攣りそうになりながら、なんとか笑みを浮かべる。

 重華に寝殿に引きこもり、おとなしくさせている間は、晧月の目になど止まらないだろうという算段だった。

 本来ならそれほど誰の元も訪れなかった皇帝が、自身の娘の元だけ訪れたのであれば、これほど喜ばしいことはないはずだ。

 丞相とて、寵妃だと噂がたったのが鈴麗であれば、あちこち自慢してまわったに違いない。

 しかしながら、今は想定外の行動を取った目の前の皇帝が、憎らしくてたまらなかった。


「確かに、今までどのような娘が輿入れしてこようとも、朕の心が動くことはなかった。だが、重華は違ったのだ。朕はすっかり重華に骨抜きにされてしまったようだ」


 晧月が重華とはっきり名を呼んだことで、丞相はやはり鈴麗ではなく重華だと認識されてしまっていることを悟り、顔を歪める。

 一方の晧月は決して笑みを崩すことはなかったものの、内心では怒りに震えていることを丞相は気づいていない。


「恥ずかしながら、臣下に重華の元へと通い過ぎていると指摘されるほどだ。仕事をおろそかにせぬよう、気をつけねばな」

「そ、それほど陛下にお気に召していただけたとは……」


 それが鈴麗だったなら、どんなによかっただろうか。

 本来なら喜ぶ場面であったとしても、丞相の頭に浮かぶのはただそれだけだった。


(この者が、蔡嬪の傷をつけた張本人か)


 そう思うだけで、晧月は沸々と怒りが込み上げるのを抑えることはできなかった。

 それでも決して笑みを崩すことはなく、もはや表情を取り繕うことすらできていない丞相を晧月はまじまじと見つめる。

 手足にあった重華の傷は、数はそれなりに多かったものの、軽いものが多く柳太医によって治せるものは全て治したと報告を受けている。

 それでも、過去の手当てされずに放置された傷など、どうしても残ってしまったものもあるが、輿入れした時よりも随分ときれいになったはずだ。

 しかし、背中や腹部等にある傷や痣は、まだほとんど治りきっていなかった。

 晧月は直接その傷を目にしたことはないけれど、明らかに殴る蹴るといった行為によってつけられたものだと思われるそれらは、治りきらないうちに同じところを何度も傷つけられ酷くなってしまったようだと報告を受けている。

 志明の報告によれば、重華に傷を負わせたのは決して丞相1人ではない。

 しかし、最も傷を負わせた人物が目の前の丞相であることを、晧月は確信している。

 その上、使用人まで暴力を振るう状況を、黙認した人物でもある。


(しっかりと釘は刺してやる)


 それがせめて、自身が重華の代わりにしてやれるささやかな仕返しだと晧月は考え、口を開いた。


「しかし、丞相もうっかりだな。娘の名前を、間違えて朕に伝えるとは」

「そ、れは……」


 間違ったわけでは、決してない。

 だが、現状ではそう言ってしまう方が問題となりうるため、丞相はただ口を噤むしかない。


「聞いていた名前と違っていたから、丞相が急遽身代わりでも用意したのかと驚いたではないか」

「身代わりなど、滅相もない……」


 身代わりという言葉に、動揺を隠しきれず少し肩を揺らしたのを、晧月は気づいた。

 しかしながら、丞相はそのことに気づく余裕すらなかった。


「娘が2人いるからと名前を間違えていては、せっかく可愛がっている娘たちに嫌われてしまうぞ」

「き、肝に銘じます」

「ああ、名前の間違いは気にするな。そなたと朕の仲だ、大事にならぬよう、朕がこっそり訂正させておる」

「お気遣い、感謝いたします」


 感謝など、丞相には欠片もない。

 後宮に入った娘の名前は、蔡 鈴麗でなくてはならなかったのだ。

 その上、間違いを不問にしてやったと、恩を売られている状態だと気づかない丞相ではない。

 丞相にとって、いいことなど1つもなかった。

 だからといって、鈴麗が逃げたから一時的に入れ替えただけだ、見つかったら戻して欲しい、などと言えるはずもない。

 丞相はただ重華を恨みながら、いかにも感謝しているかのように頭を下げ、この場は耐えるしかなかった。


「重華は決してこの後宮を出ることは叶わぬ。だが、朕が大切にすると約束しよう。だから心配するでない」

「は、ありがたきお言葉でございます、陛下」


 それは、晧月から丞相への決して今後入れ替わりなど許さぬという、遠まわしの圧力でもあった。

 丞相はなんとか笑みを浮かべたものの、両手は悔しさのあまりわなわなと震えていた。

 一方の晧月は、自身が明らかに終始優位に進んだ状況に、満足そうに笑っていた。






 重華はその日も絵を描いていた。

 晧月に言われた通り、手炉をしっかりと携えて。

 手が冷たくなったら手炉で手を温めながら、いつも通り目の前の景色を描いていく、そんな折のことだった。

 いつもとは違う、予想外の来訪者に、重華は目を見開く。


「やっと、見つけたぞ……っ」

「お、お父様!?」

「誰が父だ!皇帝の妃となり、偉くなったつもりか!」


 重華はつい父と呼んでしまい、慌てて口を両手で抑えたが遅かった。

 現れた時から、明らかに怒っている様子だった丞相は、さらに怒りをあらわにする。


「そなたは鈴麗の代わりだ、おとなしくしていろと言ったであろう!」


 そう言うと同時に、ぱしんと耳慣れた音がする。


(鞭……!?)


 重華は丞相の家に居た頃、直接殴る蹴るという暴力も受けたが、鞭によって打たれることもよくあった。

 しかしながら、こんなところまでわざわざそんなものを持ってきているとは思わず、驚きとそして恐怖に震えた。


(だめ、これはせっかく陛下にいただいたのに)


 丞相の持つ鞭に、いつものごとく打たれそうになった瞬間、重華の目に入ったのは画材と手炉だった。

 重華は慌てて画材と手炉を抱え込み、丞相の鞭から守るようにして丞相に背を向けた。


(大丈夫、大丈夫。私は、いつものようにおとなしく耐えていれば平気)


 恐怖に怯えながらも、自身に必死にそう言い聞かせる重華の背中に丞相の鞭が勢いよく当たる。


(え……?)


 いつもと同じはずなのに、いつもと違う感覚を覚え、重華は驚いて丞相を振り返った。

 すると、怒りに震える丞相としっかりと目があってしまう。

 目があった所為で、丞相の怒りがさらに増した気がして、重華は慌てて目をそらしぎゅっと目を閉じた。


(声を出しちゃだめ、泣いちゃだめ、終わるまで我慢しなきゃ……)


 いつだって、誰も助けてくれなかった。

 大きな声を出して泣き叫べば、さらに相手の怒りを助長させてしまうだけ。

 相手の気が済むまでただおとなしくしていること、重華にできることはそれだけなのだと身に染みて学んだのだ。

 背後からは、耳を塞ぎたくなるような丞相の怒号が聞こえる。

 重華は丞相に背を向けたまま、画材と手炉を抱える腕にさらに力を込めて、ただ時間が過ぎるのを待った。




「何をしているっ!」


 何度となく鞭が重華の背中を打った後、怒号が後ろからではなく前からも聞こえた。

 おそらく、周囲にはあまり聞こえないよう意識していただろう丞相のそれよりも、もっと周囲に響き渡るような声だった。


「へい、か……?」


 目の前にいる声の主を呼ぶと同時に、鞭の音がしなくなった。

 けれど、重華に丞相の方を振り返る勇気はなかった。


「大丈夫か?」


 晧月はすぐに重華の元へ駆け寄り、震える重華の身体を支えた。

 同時に、その向こうにいる丞相を鋭い視線で睨みつける。


「これは、どういう状況だ?」

「へ、陛下、これは、その……父として、娘にしつけを……」


 しどろもどろになる父の声を、重華ははじめて聞いた。


(助けて、くれたの……?)


 誰も父には逆らえなかった。

 怒って暴力を振るう父を、誰も止めることなんてしなかった。


「しつけだと!?例え父親といえど、皇帝の寵妃に朕の許可なく鞭を打つなど、許されると思うなっ!」


 叫んだ晧月が視線を動かすと、衛兵が数名現れる。


「丞相を捕らえ、人目につかぬよう天藍殿の誰もいない部屋に閉じ込めておけ」


 その言葉でようやく重華は、もう鞭を打たれないのだとほっと息を吐いた。

 何かを必死に訴えている丞相の声と、それを引き摺るように連れて行っているのだろう衛兵たちが発する音、重華はそれらを耳にしたがその姿へと視線を向けることはなかった。


「助けるのが遅くなってすまない」


 そんな声を聞いて、ようやくその場にいるのが晧月だけではないことに気づく。

 騒ぎを聞きつけたのだろうか、いつの間にか春燕と雪梅も傍にいて、心配そうに重華を見ていた。


「すぐに、太医を呼んで、手当てしてもらおう」


 その言葉で、重華はあることを思い出した。


「陛下……」

「ん?なんだ?」

「背中……痛い、です……」

「……っ!?」


 丞相の鞭が背中に当たった時、重華はぴりっとした痛みを感じた。

 その痛みは、鞭で打たれるたびに感じ、回数を重ねるごとに痛みはどんどんと酷くなった。

 今も尚、重華の背中の痛みは増すばかりだ。


「蔡嬪!?」


 やがて、痛みに耐えきれなくなったのか、重華は気を失った。

 晧月に抱えられたままの身体はくったりと力を失って、そのまま晧月へと倒れ込む。

 慌てた晧月の声も、春燕や雪梅の声も、重華にはもう聞こえなかった。


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