重華は自身が月長宮からどのように戻ってきたのか、記憶がなかった。
「おかえりなさいませ、蔡嬪様」
こうして、春燕と雪梅に声をかけられることで、ただ自身が戻って来たのだということを理解しただけだった。
「あら、それ、ひょっとして、陛下からですか?」
問われて、手の中にあるものを見る。
すると、そこには晧月がくれると言った茶葉がしっかりと握られている。
(そういえば、帰り際にもらったような気がする……)
晧月は忘れずに、ちゃんと茶葉を持ち帰らせてくれた。
けれど、貰った記憶すら重華の中ではおぼろげでぼんやりとしたものだった。
「あ、あの、雪梅さんに淹れてもらうといいって……」
「陛下が?」
今、重華の目の前で問いかけているのは、雪梅では春燕だった。
それ故に、重華はどこか申し訳なさそうにしている。
「では、お預かりして、後ほどお淹れしましょう」
少し離れたところにいたはずの雪梅にも、聞こえてはいたようで。
彼女はすぐに重華のそばまで来ると、重華から茶葉を受け取った。
「あ……その、春燕さんは、点心を作るのがお上手だと……」
「それも、陛下が?」
せっかく声をかけてくれたのに、茶葉を雪梅に渡してしまったことをいたたまれなく思い、重華は取り繕うようにそう言った。
春燕も雪梅も、全くもって気にはしていないのだが、重華にはそれを読み取れるだけの余裕などない。
「では、お茶にあわせておいしい点心をご用意しましょう」
くすりと笑ってそう言う春燕を見て、重華は少しだけ安堵した。
(陛下が必要なのは、丞相であるお父様の娘……)
晧月は怒ってもいいと言ったけれど、重華はそんな気にはならなかった。
むしろ、ただそれだけのために、皇帝である晧月がわざわざたくさん親切にしてくれたことに感謝しているくらいだ。
父や、父の家のものたちは、重華をもっと物のように利用するものたちばかりだったから。
『朕の妃は、蔡嬪は、蔡 重華、そなただ。この先入れ替わることは許さぬ、よいな?』
重華ははじめて晧月に会った日、そう言われたことが嬉しかった。
必要なのは、自分なのだと、そう言ってもらえたような気がしたから。
(もし、鈴麗でもどちらでもいいとしたら……)
途中で変わるのが面倒で、ただ先に来た重華を選んだだけだとしたら。
協力関係にある重華の父が頼み込めば、今後入れ替わる可能性はあるのではないだろうか。
父にとって娘だと認められていない自分より、可愛がられている娘の方が都合がいいことだってあるのではないだろうか。
いつの間にか忘れつつあった不安が、また膨れ上がっていくのを重華は感じた。
(怖い……)
かつての自分では考えられないほどの幸せが続いたからこそ、終わりを迎えることがどんどんと怖くなっていく。
(鈴麗よりも私が選ばれるなんて、絶対ありえない)
今まで生きてきた中で、重華は痛いほどに実感している。
(それでも、少しでも長く……)
一日でも長く、鈴麗が見つからなければいい、と願う。
そして、自身をどう利用したってかまわないから、どんな扱いを受けたって文句を言わないから、願わくば晧月が鈴麗より自分を使ってくれたらいい、とそう思った。
「陛下、調べてきましたよ」
天藍殿で政務に励む晧月の元を、白 志明が久方ぶりに訪れた。
その顔は、先日会った時よりも幾分か疲労感が漂っているように見える。
「やっと戻ったか、遅かったな」
「いやいや、大変だったんですよ!俺だから、こんなに早く戻って来れたんですって!」
疲れきって戻った志明を労うでもなく、遅いという晧月に志明は声を荒げる。
「ははっ、それだけ大きな声が出せるなら、大丈夫そうだ」
その言葉を聞いて、一応心配はしてくれていたらしいことを志明は悟った。
あまりにも晧月らしい心配の仕方だと思いつつも、その対応につい恨めし気な視線を向けてしまうのを志明は止められなかった。
「報告を聞こう」
「結論から言うと、蔡嬪様はわがまま放題に育ってはいなかったですね」
「そんなことはわかっている、もっと詳細に説明しろ」
重華がわがまま放題に育っただろうというのは、重華に会ったことすらない志明の想像でしかない。
晧月は一度たりとも、重華がそのように育ったなどと思ってはいないのだ。
だが、続きを求めても、志明はなかなかその先を話そうとはしなかった。
「志明?」
晧月が、続きを促すように名前を呼んだ。
志明は困ったように、どこかごまかすように笑って、仕方なく話をはじめる。
「あー、いや、本当に大変だったんですよ。丞相の住む地域で聞き込みしてまわったんですけどね、蔡 鈴麗という娘の話は山ほど出てくるんですが、蔡 重華という娘の話は全然出てこなくて……。あ、ちなみに蔡 鈴麗は……」
「志明」
今度は、志明の言葉を止めるために名前を呼んだ。
「蔡 鈴麗の話はいい」
わかるだろう、と視線でそう訴えられているような気がして、志明は逃げられないのだと心の中で白旗をあげた。
「ちゃんと調べたから、ここにいるんだろ。全て話せ」
重華の話が全然出てこなかったのなら、確かに調査は難航し大変だったのだろうと晧月は思う。
だが、志明は何の成果も得られないまま、戻ってくるような人物では決してない。
志明が今晧月の目の前にいるということは、志明がきちんと任務を遂行し晧月の求める情報を持ち帰ったという何よりの証だった。
「はぁ……わかりましたよ。ただし、ものすごく胸糞が悪い話ですよ。覚悟してくださいね」
「いいから、話せ」
「さて、どこから、話しましょうかね……」
志明は深く息を吐き出した後、苦労して調べた内容を1つ1つ晧月へと伝えていく。
晧月は、時に顔を歪め、不快感を顕わにしながらも、志明が話し終わるまでただ黙って耳を傾けていた。
志明が全てを話し終えるや否や、ぽきっと音がして志明は慌てて音のする方に目を向ける。
すると、晧月が持っていた筆が手の中でしっかりと折れているのが、目に入った。
「だから言ったでしょう、聞いて気分のいい話じゃないって」
「おまえが言ったのは、『ものすごく胸糞わるい話』だ」
「どっちでも、似たようなもんでしょう!」
今重要なのはそこではない、こんな時に揚げ足取るな。
志明はそう叫び出したい気持ちにもなったが、晧月を見ているとそれ以上何も言えなくなった。
折れた筆を握り続ける手も、握りしめられた反対側の手も、怒りに震えているのに、その表情はどこか泣きそうにも見えたから。
「くそっ」
晧月は、ただただ八つ当たりのように折れてしまった筆を投げ捨てた。
何に腹を立てているのか、自分でもよくわからない。
それでも、例えようのない怒りが湧き上がるのを、抑えることができなかった。
(だから、あの時醜いと……)
赤みを帯びた自身の髪を醜いと言った重華を思い出し、晧月は後悔に苛まれる。
あの時、晧月は触れられたくはないのだろうと、話を変えることに注力してしまった。
決して醜くはない、むしろとても美しいと、はっきり言えなかった自分が、今はただただ恨めしかった。
(重華……)
普段呼ぶことのない名を心の中で呟くと、泣いている幼い重華の姿が見えるような気がした。
しかし、手を伸ばしても、その手が幼い重華に届くことは決してない。
幼い頃の重華を慰めることも、助けてやることも、今の晧月にはもちろんできない。
できるのはただ、もどかしい思いを抱えることだけだった。