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16. 先帝の過去


 先帝には、多くの妃嬪がいた。

 その中で皇后の座についたのは、当時丞相に次ぐ官職である尚書令の娘であった今の皇太后であった。

 しかし、先帝と皇太后は先帝の地位を確固たるものにするための完全な政略結婚であり、2人の仲は完全に冷え切ったものだった。

 皇太后は先帝との間に子がいないどころか、皇太后は夜伽すらしたことがなかった。

 また、先帝は自身の地位をより盤石なものとするために、多くの高官の娘や親戚を娶った。

 しかしながら、その者たちもまた政略結婚でしかなく、先帝の関心を得ることができなかった。


 そんな先帝が最も寵愛した妃が、現皇帝である晧月の生母であった。

 晧月の母の実家は役人を排出するような家ではなく、何の力もなかった。

 しかしながら、先帝は当時宮中で侍女として働いていた晧月の母を見初め、すぐさま美人に封じた。

 そして、帝位を次いだ先帝のはじめての夜伽を命じられ、容華へと昇格を果たす。

 以降、先帝の最初の子である第一皇子の晧月を身籠るまで、先帝は晧月の母以外の誰とも夜伽を行わなかった。

 それほどまでに、先帝の愛を一身に受けたのが晧月の生母であった。


 晧月を出産後、後宮で唯一の皇子の母となった晧月の母には、先帝より『花』という封号が贈られた。

 しかし、第一皇子の出産で大きく昇格するかと誰もが思った妃位は、婕妤までしか上がらず、それ以降も上がることは決してなかった。

 先帝は娘や親戚を入宮させた高官たちの反感を買うことを非常に恐れており、高位な妃位には高官の娘しか封じなかった。

 花婕妤となった晧月の母をどれほど寵愛しようとも、家柄を考慮し高位に封じないことで、他の妃嬪たちの体面を保っているように見せたのである。


 花婕妤は晧月を出産して3年後、2人目の子を身籠った。

 しかしながら、婕妤の身でありながら、相変わらず先帝の夜伽に召される唯一の妃でもある花婕妤をよく思わないものは、後宮にはたくさんいた。

 花婕妤はは高位な妃嬪から度重なる嫌がらせを受けるようになるが、先帝に相談したところで解決はしなかった。

 対抗できるような強い権力を与えられることもなければ、高官たちの手前、先帝が他の妃嬪に強い態度で出るようなこともない。

 決して守っては貰えないまま、ただ寵愛を受け続けた花婕妤は予定よりも早く産気づき、生まれた子は皇子であったが死産となった。


 悲しみに暮れる花婕妤を慰めるかのように、先帝の寵愛はさらに深くなり、花婕妤が3人目の子を身籠るのにそう時間はかからなかった。

 だが、それがさらなる悲劇を呼ぶこととなってしまう。

 相変わらず止まない妃嬪たちの嫌がらせに神経をすり減らしていただけではなく、前回の死産から身体が回復しきっていなかったこともあり、安定期を迎える前に流産となってしまったのだ。

 性別すらわからず亡くしてしまった我が子を思い、さらに花婕妤の悲しみが深くなる中、追い打ちをかけるように大臣たちをはじめとする臣下たちが先帝へと進言する。

 晧月が生まれて以降5年近く新たな御子の誕生に恵まれていないため、他の妃嬪とも夜伽をするように、と。

 受け入れたくなかった先帝は、世継ぎならば晧月がいるから問題はないと主張したが、皇室の繁栄のために御子は多いに越したことはないと押し切られてしまい、受け入れざるを得なかった。




 花婕妤にとって心の支えであった先帝のお渡りの頻度が減り、先帝は気乗りしない中他の妃嬪の元へも訪れるようになる。

 先帝が最初に訪れたのたのは、序列を考慮し皇后の元であった。

 しかし、数回ほど訪れたものの特筆するようなことは何も起きず、当時の皇后が夜伽をする機会は一度もないまま先帝の訪れもなくなっていった。


 先帝が次に訪れたのは、当時兵部尚書の娘であった婉妃であった。

 証拠がなかったためお咎めもなかったが、婉妃はおそらく薬を使ったのであろうと言われている。

 たった一度の皇帝の訪れで、婉妃は皇子を身籠った。

 しかしながら、先帝は詳細を明かされぬまま終わったこの一度きりの訪れで起きたことに怒り、それ以降婉妃の元を訪れることはなくなった。

 婉妃は第三皇子を出産後、功績をたたえられ貴妃に封じられたが、その後は生まれてきた皇子ともども先帝に冷遇されることになる。

 花婕妤より家柄もよく身分の高い自身の息子が、晧月よりはるかに劣る待遇であるのが許せなかった婉貴妃は、やがて身分の高い自身から生まれた皇子こそ次期皇帝に相応しい、と考えるようになる。

 先帝が晧月を寵愛し世継ぎとして教育する中、婉貴妃は自身の子を皇帝にすべく優秀な教育者を探し、さらに自身の味方となる人間を増やし、虎視眈々と世継ぎの座を晧月から奪う機会を狙っていた。


 その味方の1人となり、後に婉貴妃の一派の1人と言われるようになるのが、怜嬪であった。

 怜嬪の父は兵部尚書の次官であったため、父子ともに婉貴妃の一族に仕える立場となり、逆らえなかったというのも理由のひとつだろう。

 婉貴妃の指示の元、怜嬪は何度も皇帝の元へと通い、第三皇子がいかに優秀かを語り、婉貴妃を許し第三皇子を晧月同様にかわいがるよう進言する。

 先帝は当初全く相手にしていなかったが、自身のためではなく他人のために恐れることなく何度も自分の元へと訪れる怜嬪を徐々に気にかけるようになる。

 やがて図らずも寵愛を受けるようになった怜嬪は、第四皇子を産むが婉貴妃の手前昇格は断り、以降第四皇子ともども婉貴妃と第三皇子に仕え、協力する立場となった。


 しかし、皇子がたて続けに2人増えたことにより、先帝は花婕妤以外の妃嬪との夜伽をぱたりと止めてしまった。

 かつてと同様に、先帝の寵愛は花婕妤のみへと向けられることになる。

 そして、流産から数年が経ち、身体も回復していた花婕妤は第五皇子を出産するが、妃嬪たちの日増しに過激になっていく嫌がらせに弱っていた花婕妤はその後回復することなく命を落としてしまった。




 先帝は花婕妤の死を深く悲しみ、政務以外はほとんど寝殿から出ない日々が続いた。

 母を亡くした第一皇子と第五皇子の養育は全て皇后に任されることとなり、皇后は皇子にすら関心を示さず閉じこもる皇帝の代わりに2人を厳しく教育した。

 そんな中、皇帝の寝殿である月長宮に新たな侍女がやってくる。

 先帝はその侍女を見て、驚きのあまり目を見開いた。なぜなら、彼女の容姿は花婕妤にそっくりだったから。

 侍女はその容姿からすぐに先帝の寵愛を受けるようになったものの、先帝は花婕妤の時のような悲劇を恐れ、侍女を妃嬪として迎えることはしなかった。

 やがて侍女は身籠り、第六皇子を出産する。

 先帝は望むのであれば妃嬪として迎え入れると提案したが、先帝の恐れを理解していた侍女はその提案を断った。

 そして異例ではあるが、第六皇子は生母の身分の低さを理由に母親が誰か明かされないまま皇后に預けられ、第六皇子の生母は先帝が亡くなるその日まで侍女として先帝に仕え続けた。




 そして、第一皇子である晧月が20歳を迎える歳、先帝は病により崩御した。

 婉貴妃はすぐさま自身の子を皇帝にしようと画策したが、当時第三皇子は齢わずか14歳。

 難なく1人で政務をこなせる晧月に対し、政務を行うにはあまりに幼いと指摘されてしまう。

 また、晧月の母は名目上では花婕妤ではなく皇后となっていたことも、晧月に有利に働く要素となった。

 さらに、第三皇子が皇帝になることで婉貴妃の生家が力を持ち、自身の立場が脅かされるのではないかと考えた蔡丞相が、晧月が帝位についても変わらず丞相で居続けられることを条件とし、晧月を支持する立場についた。

 結果、婉貴妃につくものも多く、敵も多い状態ではあるものの、当時の丞相と尚書令の二大勢力、さらに皇后を味方につける晧月が婉貴妃の一派を退け、皇帝に即位することとなった。


 しかし、現在婉貴太妃となった第三皇子の生母を支持する一派は今もまだ健在で、虎視眈々とその機会を伺い続けている。

 第三皇子は18歳となり、ようやく1人で政務を行うのに問題のない年齢を迎えた。

 また、第四皇子も17歳となり、第三皇子の補佐を十分に担える年齢に達している。

 一方で、第五皇子、第六皇子はともに皇后の養子であることもあり、第五皇子に至っては生母も同じであることから、晧月を支持しているが、第五皇子は14歳、第六皇子に至っては8歳とどちらもまだ非常に幼い。

 よって、そろそろ本格的に動き出すのではないかと、晧月はより一層婉貴太妃の一派の動きを警戒している。






 皇帝の寵愛を受けた妃嬪、そしてさらにその一族の元には、その恩恵を受けようと人が集まりやすい。

 ただでさえ、皇帝と強く結びつき協力関係にあると広く知られる丞相である。

 その娘が皇帝の寵愛を独占しているとなれば、現在中立的な立場にいるもの、さらには婉貴太妃側の人間の中から、蔡丞相の側につくことを考えるものも現れるだろう。

 そうして、晧月を支持する側の勢力を拡大することが、晧月の狙いである。

 そのために、晧月は多くの役人が集まった日に、あえて重華を天藍殿に招き2人でいる様子を見せてまわったのだ。

 わざわざ、いかにも重華を寵愛してやまないと装いながら。


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