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14. 実現


 晧月が重華の宮に泊まったのは初日に限ったことであったが、昼間の訪れはその後も途切れることなく毎日続いた。

 そのほとんどが、字の書き方や読み方を晧月が重華に教えるという時間でしかなかったが、重華が誰にも興味を示さなかった皇帝の唯一の寵妃であることは間違いなさそうだ、という噂が重華の知らない間に着実に宮中から皇宮の外へと広まりつつあった。

 そんなことを知らない重華は、今日は何を教えてもらえるだろう、とわくわくしながら晧月を待つのが日課になった。


『明日も来る』


 晧月は必ずそう言って帰り、その言葉通り多少遅い時間となろうとも必ず重華の元に来てくれる。

 気づけば重華は、今日は来ないかもしれない、と考えることさえなくなってきていた。




「今日は、これを持って来た。やっと取り寄せられてな」


 いつものように訪れた晧月は、そう言って持っていたものを重華の目の前に並べた。


「これが画材だ。朕も詳しくないが、とりあえずこれを持ってきた者から説明は受けたから、順番に説明していくぞ」


 そう言うと晧月は並べた道具を1つ1つ、重華にわかりやすく説明してくれる。

 重華は見たことない道具を興味深く眺めながら、晧月の説明を一生懸命聞いて覚えていった。


「これで全部だ。何かわからないことはあったか?」

「だ、大丈夫……だと、思います、たぶん……」


 しっかりと聞いて理解したつもりではいるものの、はじめて手にした道具を口頭による説明だけで使い切れるかという不安から、重華の言葉は徐々に自信なさげに小さくなっていった。


「わからなくなったら、また説明してやるから聞くといい」


 その言葉を聞いて、重華はほっとする。

 何度も聞くのも申し訳ない気はするものの、せっかく用意して貰ったのに、いざ使う時にわからなくなって使えずに終わってしまったら、と考えるとその方がものすごく申し訳ない気がしていたから。


「他にもいろいろと種類はあったんだが、持って来た商人に言わせると、そなたのようにはじめて絵を描くものにはこれが一番使いやすいだろうとのことだ」


 晧月自身、教養の1つとして画材を使って絵を描いた経験くらいはある。

 だからといって、画材について詳しいかと言われると人並程度であったがゆえ、重華が描いた絵も見せた上で、絵を描いた経験がないことも伝え、その上で重華に一番相応しい画材を持って来るよう商人に命じたのだ。

 そうして商人が選んだものが、今重華の目の前に並べられているものである。


「わざわざ、私にあわせて用意してくださったのですか?」

「せっかくなら、より適したものがいいだろう」

「あ、ありがとうございますっ、あの、私、上手く描けるようにがんばって……っ」

「違う」

「え……?」


 画材を用意してもらった晧月に応えられるように、絵が上達するように頑張ろうと重華は意気込んでいたのに、それを晧月に遮られて呆然とする。


「これは、そんなことのために渡したわけではない」


 重華がわかったのは、自身が何かを間違えてしまったらしい、ということだけ。

 何をどう間違えてしまったのかまでは、残念ながらわからない。

 せっかく用意してもらったのに、怒らせるような間違いをしてしまったのだろうかと不安になったが、晧月は思いのほか優しい表情で重華はほんの少しだけ安堵した。


「絵が上手くなるよう、努力しなければならないわけではない。ものすごく上手いを絵を描こうが、びっくりするほど下手くそな絵を描こうが、そんなことはどうでもいい。これはそなたが楽しむための道具だ。そなたが楽しんで絵を描ければ、どんな絵ができあがろうとかまわない」

「あ……」

「約束しろ、描きたいものを描きたいように描くために使うと」

「は、はいっ」


 それが画材を渡す条件だとでもいうように、そしてどこか小さな子に言い聞かせるかのように告げられた晧月の言葉に、重華はこくこくと何度も頷いた。


「画材をやった代わりというわけではないが、今日は少し朕に付き合ってくれないか?」

「はい?」

「一緒に来て欲しいところがある」


 晧月はそう言って重華に手を差し出した。

 わけがわからなかったものの、重華には断る理由もなかったため、重華はおそるおそるその手に自分の手を重ねた。






「ここが、天藍殿だ」


 連れて来られたのは、以前晧月が政務を行う場所だと教えてもらった天藍殿。

 この場に来るまで晧月に引かれてきた手は、この場に着いても放される様子はない。

 繋がれたままの手を気にしながら、重華ははじめて見るその豪華な建物をぼんやりと見上げた。


(陛下に付き合うってお話だったけど、これって私が見たいって言ったから連れて来てくれただけなんじゃ……)


 見てみたいと言った重華に、晧月は機会があれば案内すると約束してくれた。

 少しでも晧月の役に立てることがあればと思ってついてきた重華は、結局全て自分のためのように思えて拍子抜けしてしまう。


「あれで、『てんらんでん』、と読むのですか?」


 見上げた先に琥珀宮と同様に文字が書かれているのを見つけ、重華はもしかしてと晧月に聞いてみた。


「ああ、よくわかったな」


 晧月は小さな子どもにするように、頭を撫でて褒めようと動きかけていた。

 しかし、すぐ傍に人の気配を感じてその動きを止め、気配のした方を振り返る。

 晧月を追うように、重華もまたそちらへと視線を向ければ、そこには中年の男性と、白髪混じりの初老の男性が笑みを浮かべて立っていた。


「陛下に拝謁いたします」


 男性2人はそう言って、晧月へと頭を下げる。


「楽にせよ。先ほど謁見を受けたはずだが、まだ何かあったか?」


 人がいることに慌てて手を放そうとした重華の手を、離れないよう強い力で握りなおしながら晧月は問いかける。

 晧月にもやはり笑みが浮かんでおり、重華は和やかなで仲の良さそうな雰囲気に思えて少し安堵する。


「いえ、用件は済んだのですが、少し天藍殿の周りを散策させていただいておりまして……」

「そうしましたら陛下のお姿が見えたもので」


 2人はそういうと、なぜか突然重華へと視線を向け、重華の心臓はどくんと大きく音を立てた。


「ああ、この者は先日輿入れした蔡嬪だ」


 まるで2人の視線から庇うかのように、晧月は重華の一歩前へと出る。

 2人は重華に対しても軽く頭を下げたものの、視線は重華から離れることはなく、むしろ上から下まで品定めでもされているかのように見られてしまい、重華はいたたまれなくなって俯いてしまう。


「蔡嬪様は、お輿入れの後、ずっと伏せっておられたとお聞きしましたが」

「ああ。だが今日は少し体調がよさそうだったのでな、ずっと引きこもっているのもよくないと思い、連れ出してみたのだ」


 え、と重華が声を発するよりも早く、初老の男性の言葉に晧月が答えた。


(ずっと……?)


 確かに輿入れしてすぐ熱を出してしまったけれど、数日で回復したし、重華としてはその後伏せっていたつもりではない。

 今日も少し体調がいい、という状態ではなく、よくも悪くもいつも通りである。

 しかし、そういうことになっているのかもしれない、と重華はあえて晧月の言葉を否定するような発言はしなかった。


「陛下自らそのようになさるとは、ご寵愛の深さが伺えますな」

「やめてくれ。朕もいろいろとはじめてゆえ、戸惑っておるのだ」


 寵愛を否定することなく、むしろどこか照れくさそうな仕草を見せる晧月に、一番驚いたのは重華である。

 2人の男性は、ただ様子を微笑ましそうに眺めるだけだった。


「あ、あの、陛下……」

「ああ、すまない。ずっと立ちっぱなしでは疲れるだろう。あちらに綺麗な花が咲いているから、そこへ案内しよう」


 花を見るのは好きだろう、と問われ、重華は他に言いたいことがあったけれど、全て呑み込んでただ頷くに留めた。


「用がないのであれば、これで失礼する」

「はい。お楽しみのところ、失礼いたしました」


 晧月の言葉に2人は一礼し、あっさりとその場を立ち去った。

 本当に用があったわけではなく、ただ晧月の姿が見えたから挨拶に来ただけのようだ、と重華は2人と話す時間がすぐに終わったことに安堵して息を吐いた。


「悪かったな、では行こうか」


 そうして、晧月が重華の手を引いて歩き出し、重華は慌ててそれについて行く。

 きっと先ほど言っていた花が咲いている場所に連れていってくれるのだろう、と思っていたが、わずか数歩で晧月の足は止まってしまった。


「陛下に拝謁いたします」


 声のする方を見れば、今度は3人の男性が見える。

 既視感を覚える光景とやり取りがはじまり、重華は頭を抱えたくなった。

 晧月の元に訪れるものは、皆何か大事な用件を抱えているわけではなく、ただにこやかに晧月と挨拶を交わし、重華の姿を見ては去っていくだけ。

 しかしながら、その後、数歩進むごとに似たようなことが3、4回ほど発生し、重華は何もしていないはずなのに、すっかり疲れ果ててしまっていた。


「すまない、随分と疲れさせてしまったようだ」

「い、いえ、大丈夫です」


 ようやく花の見えるところへと来たけれど、ゆっくり花を眺めるような余裕が今の重華にはなかった。


「ここが月長宮だ、ほら、あれで『げっちょうきゅう』と読む」


 晧月の指差す方向を追いかけ、ようやく重華はすぐ傍に天藍殿とは違う建物があることに気づいた。

 綺麗な花が咲いている場所というのは、どうやら月長宮の庭園だったらしい。


「天藍殿と月長宮はすごく近いのですね」

「ああ、実はあそこの渡り廊下で繋がっているのだ」


 晧月が指し示す方向を見ると、確かに二つの建物を繋ぐ廊下が見えた。

 皇帝が政務を行う場所と、皇帝の寝殿、確かに繋がっていた方が何かと便利かもしれないと重華は思う。


「だが、こちらには先ほどのような者たちが来る心配はないから、安心するといい」

「は、はい」


 皇帝の寝殿には、誰でも気軽に入ることはできないのだろう。

 重華はようやく安心できる場所まで来れた気がして、ほっと息を吐いた。


「少し中で休んで行くといい」

「わ、私が入っても、大丈夫なのでしょうか?」

「朕が誘ったのだから、問題ないに決まっているだろう」


 皇帝の寝殿なんて、簡単に足を踏み入れてはいけない神聖な場所のように思えたけれど、重華は晧月に引っ張られるようにして月長宮に足を踏み入れることになった。


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