ことの発端は、春燕と雪梅に準備してもらった食事を2人で食べ始めたことである。
並べられた料理と次々とお腹へ収めていく晧月とは対象的に、重華は早々に箸を置いた。
重華からすれば十分たくさん食べたつもりだったけれど、晧月から見ればほとんど減っていないように見えたようで、それ以上食べ進める気がなさそうな重華に対し、晧月は睨みつけるような表情を向けた。
「さすがに少なすぎるだろう」
先ほどより、声色が低くなった気がするのは、おそらく重華の気のせいではないだろう。
食事に誘うのにどぎまぎしたり、墨で描いた絵を欲しいと言われて慌てふためいたのが、もう随分と昔のような気がしてしまう。
それほどまでに、今の晧月は雰囲気が違っていた。
「も、申し訳ありません、でも、あの、本当にお腹いっぱいで……」
せっかく用意してもらった食事である、重華だってできることなら全部食べたいと思っている。
しかし、こればっかりは、重華にもどうすることもできないのだ。
晧月は少ないと言うが、重華としてはかなり無理をした結果なのだ。
「謝罪はいい、それよりもっと食べろ」
「こ、これ以上は、本当に……」
重華の言葉が嘘ではないというのは、晧月にもわかる。
だからといって、こればかりは、仕方がない、と終わらせてしまうわけにもいかないと晧月は思う。
(食べる量が少ないと聞いていたが、これは酷すぎるだろう。幼子だってもっと食べるだろうに)
晧月は食卓に並べられた料理を見渡し、少しでも食べやすそうなものを探した。
「これはどうだ、あっさりとしていて食べやすいだろう」
そうして、器を重華に差し出してみても、重華はただ首を横に振るだけ。
「なら、こっちは……」
別の器を差し出してみたが、やはり重華は左右に首を振った。
その様子に、晧月から深いため息が落ちる。
「はぁ……今食べられないのであれば、後で夜食に点心でも用意してもらえ」
「え、いえ、そんな……」
その言葉は重華に向けられているようで、しかしながら晧月の視線は春燕と雪梅へと向かっている。
重華は全く気づいていないが、春燕と雪梅はそれが自分たちへ向けた指示でもあるというのを、しっかりと理解した。
「ちょうどこの後、これを読んでみようと思っていた。その後であれば、腹も減っているかもしれんだろう」
これ、と出されたのは一冊の書物。
書物を持ってくるという約束も、しっかり守ってくれたのだと重華は嬉しく思うが、今の状況が手放しでそれを喜ばせてはくれない。
「1度にそれ以上食べる量を増やせないのであれば、回数を増やしてなんとかしろ」
「で、でも、すでに1日に3回も食事していますし……」
「3回も?日に3回なら普通だ、多いわけではない」
吐き捨てるように言われ、重華は目を丸くした。
「その様子だと3食以外に間食は一切していなさそうだな」
見透かしたようなその言葉は、重華が肯定せずとも春燕と雪梅によって肯定される。
「夜食以外にも間食を増やせ。昼食と夕食の合間に、何か甘いものでも食べろ」
「そ、そんなに回数が増えると、春燕さんと雪梅さんのお仕事が増えて、ご迷惑が……」
「大丈夫ですよ、蔡嬪様」
「ええ、料理をするのは好きですから、蔡嬪様に召し上がっていただく機会が増えるなら嬉しいです」
「で、でも……」
春燕と雪梅は、安心させるように重華に笑いかける。
重華は、ここに来てまだ日が浅いというのに、何度こんな風に2人に笑いかけてもらっただろうかと考える。
(きっとお2人は、私が気にしないようにしてくれてる……それに、そんな合間に食べちゃったら、結局食事の時にごはんがより食べられなくなるんじゃ……)
ただ2人の仕事を増やすだけで、何の解決にもならなければ、あまりにも春燕と雪梅に申し訳なさすぎる。
そう思うと、重華はなかなか晧月の提案を受け入れる気にはなれなかった。
「春燕と雪梅の心配はしなくていい。とりあえず一度試してみろ、駄目なら別の方法を考えればいいだけだ」
やはり晧月の言葉は、重華の考えなど全てお見通しのようだった。
(それで量を増やせる気はしないけど……でも、柳太医ももっと必要だって言ってた……)
食べる量が増やせなければ、それはそれで迷惑がかかるのかもしれない。
晧月の言う通り、試して駄目なら元に戻して違う方法を考えればいい。
何もしないままよりいいのかもしれない、そう思い重華は提案を受け入れることにした。
(なんだか心地よくて、眠くなってしまいそう……)
食事が終わった後、晧月は約束通り持って来た書物を重華に読み聞かせながら、文字の読み方を教えてくれた。
晧月が持って来たのは、自身が幼い頃に読んだ詩集だった。
時に詩の内容も説明しながら読み進めて行く晧月の声は、非常に穏やかで耳に心地よかった。
そのためか、最初のうちは興味深く聞いていたはずなのに、重華にはそれがだんだんと眠りに誘う子守歌のようになっていく。
(ちゃんと、聞きたいのに……)
目を閉じてしまっては、晧月がせっかく見せてくれている書物の文字を追えなくなってしまう。
そう思って、かぶりを振ったところで、晧月がぱたんと書物を閉じてしまった。
「あ……」
「今日はこのくらいで止めておこう。一度に詰め込んでも、覚えきれないだろう。続きはまた後日だ」
そう言うと、晧月は閉じた書物を重華の手に乗せた。
「それはそなたにやるから、時間がある時先ほど読んだ部分を読み返してみるといい」
重華は手のひらの上に置かれた書物を見つめる。
こうして、書物を貰えることは、また読み返して勉強できることは、ありがたいことだし、嬉しいことのはずである。
けれど、重華に込み上げたのは罪悪感だった。
(なんだか、もらってばっかり。昨日は筆と硯をいただいたし、今日は書物、それに画材もくださるって言うし……)
重華が貰ったものはそれだけではない。
今、重華が着ている着物も、簪や耳飾りも、全て晧月に貰ったものだ。
(ここにあるもののほとんどが、陛下にいただいたもの……私はいつか、この方に何か返せる日が来るのだろうか)
何でも用意できてしまう皇帝と、何も持っていない自分。
あまりに差がありすぎて、自分が晧月に渡せるものなど重華は何も思いつかないし、今後何かを返せる日が来ることも、まるで想像がつかなかった。
「なんだ?朕の使い古しでは、気に入らないか?」
「え?いえ、決してそんなことはっ!」
俯いたまま何も言わなくなってしまった重華を見て、晧月は気に入らなかったと勘違いしてしまったらしい。
重華はとんでもない誤解に、慌てて両手を大きく振って否定する。
その様子に晧月が笑みをこぼしたのを見て、重華はほっと息を吐いた。
(これ、陛下がお使いになっていたものなのね)
よく見ると、ところどころくたびれた様子で、それだけ何度も晧月によって読まれたものなのだろうと重華は思った。
(陛下もきっと、たくさん勉強されたんだ)
今、重華に返せるものは何1つないけれど、こうして物を貰って時間を割いてもらった分、せめて晧月のように自分も勉強を頑張ろう、重華はそうして自身をなんとか奮い立たせた。
「終わったのでしたら、お2人ともこちらをどうぞ!」
危うく暗くなってしまいそうだった雰囲気を変えたのは、春燕の明るい声だった。
春燕はにこにことしながら、重華と晧月の前にできたばかりの点心を置く。
「お勉強の後の甘いものは、きっとおいしいですよ」
次いで雪梅がお茶を出し、自然と2人で出された点心を食べる流れになった。
(さっき食事をしてからあまり時間が経ってないけど、食べられるかしら)
せっかく用意してもらったのに、全く手をつけられなかったら申し訳ない、と思う。
しかし、点心からほんのり薫る甘い匂いは、重華の食欲を刺激してくれるような気がした。
(少しなら、食べられそうな気がする)
重華は点心を1つ手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
「おいしいっ!」
一口食べるだけで、自然と笑みが零れた。
「お口にあったようで何よりです」
そんな春燕の言葉を聞きながら、重華は二口目を頬張った。
(甘くて、もちもちしていて、本当においしい)
甘いお菓子は贅沢品で、重華は今まで口にする機会などなかった。
重華にとってはここへ来てからの食事もこれまでとは比べものにならないくらいおいしく、満足感を得られるものばかりだったけれど、甘いものはそれ以上の幸福感を与えてくれるようなそんな気がした。
実際のところ、そんなにたくさんは食べられないけれど、でも何個でも食べられてしまいそうな気がする。
「甘いものは別腹というが、これなら少しは食べられそうだな」
少しずつではあるが、順調に食べすすめられている様子の重華を見て晧月が呟いた。
「別腹、ですか?」
「甘いものなら、お腹いっぱいでも食べられてしまう、ということですよ」
雪梅にそう説明されて、確かにそうかもしれないと重華は思う。
先ほどまでは、食事をしてからそんなに時間が経っていないこともあり、何も食べられないと思っていたのに。
甘い匂いに釣られてつい食べてしまったし、苦しくて食べられないというより、もう少し食べたいという気持ちが強い。
「食べているだけで、幸せになれそう」
何より口に運ぶごとに、笑顔になれるような気がして、重華はそう言ってふわりと笑った。
すると、同様に点心を食べていたはずの晧月の手が重華へと伸び、重華の頬にそっと触れた。
「へい、か……?」
「す、すまないっ!」
パッと晧月の手が重華から離れる。
幸せそうに笑う重華の瞳がいつもより綺麗で、もっと近くで見たいと、無意識に手が伸びていた。
(我ながら、どうかしている)
自分の食べている点心の方がよかったのか、などと見当違いのことを考える重華から、晧月はばつが悪そうに視線を逸らす。
それから自身を落ち着けるように、そして何かをごまかすように、点心へと手を伸ばした。
しかし、それを口に運ぶと、重華がふわりと笑いかけてきて、晧月はより一層落ち着かない気持ちを抱えることになった。