「寵妃ができたと噂になっていますよ、皇帝陛下」
晧月が政務を取る天藍殿を訪れたのは、この国の将軍の息子であり晧月の幼馴染でもある
自身はまだ将軍職にはついていないものの、武芸に秀でており、晧月が信頼を置く数少ない友人である。
しかしながら、にやにやとした笑みを浮かべながら晧月を見る様子に、呼びつけたのは自分でありながらも晧月は不快感を隠すことなく志明を睨んだ。
「うるさい。あれは、丞相の娘だ。だから他の妃嬪と差をつけてやってるだけだ」
後宮は皇帝の寵愛を得て、皇帝に他の妃嬪より大切にされている、と知られるだけでその妃の価値が上がる不思議な場所である。
たとえ妃位が高かろうとも、皇帝の関心を得られずお飾りでしかない妃嬪の価値は自然と下がる。
先帝の皇后、つまり現在の皇太后がまさにそれだった。
晧月の養育権を得るまでは、ただ家柄から選ばれただけのお飾りの皇后で、皇帝の関心は一切得られず虚しい日々を過ごしていた。
もし、皇子を育てることさえ叶わなければ、今の地位さえもなかったかもしれない人である。
「他の妃嬪が力を持つくらいなら、丞相の娘が力を持つ方がいいだろう」
「それだけの理由で、わざわざ毎日蔡嬪様の元に?」
「ああ、それだけだ。他に理由など、あるわけないだろう」
「そういうことにしておきましょうか。宦官の話だと、政務も途中だというのに嬉しそうに出ていかれたとか、楽しそうな顔で戻ってきた、なんて話もありますが」
「楽しそうになど……っ」
してはいない、と晧月は言えなかった。
あくまで丞相の娘の元に、義務的に毎日足を運び、寵愛を得たかのように見せるつもりだったが、いつの間にか楽しんでしまっているのを否定できない。
「だが、政務に支障はきたしていないはずだ」
「そりゃあそうでしょうとも。元々昼夜問わず政務に励み、かなり前倒してこなしていた方ですから、ほんの数刻お気に入りの妃嬪との時間を過ごしたところで……」
「別に、お気に入りなどではっ!ただ、ちょっと……想定外だっただけだ」
「想定外?あの丞相の娘でしょう?丞相のように偉そうに威張り散らしてるんでしょう、どうせ」
「そうでもない」
自身の言葉がすぐさま晧月によって否定されたことで、志明は意外そうに目を見開いた。
「そういう娘だったら、想定の範囲内だろう」
そういう娘だったら、たとえ丞相の娘であっても、他の妃嬪より優遇していると周囲に見せるという目的があっても、さすがに毎日通う気にはなれなかっただろうと晧月は思う。
「だから、調べてほしい。蔡 重華について」
「そういえば、嫁いできたのは当初聞いてた蔡 鈴麗という娘ではなかったんでしたっけ?」
「ああ。名前を伝える時、間違えたんだろ」
「皇帝に偽りを告げるなんて、丞相といえど罰を与えなくていいんですか?」
「今、丞相と険悪になったところで、お互い何も得をしない。それより、俺が寛大な心で見て見ぬ振りをしてやったという形を取る方が、いいだろう」
「なるほど、さすがは皇帝陛下」
「大袈裟に持ち上げるな、気持ち悪い」
蔡嬪の輿入れ前、伝え聞いていたのは丞相の娘、蔡 鈴麗が輿入れするということだった。
しかし、蔡嬪の輿入れ後すぐ、輿入れしたのは丞相の娘、蔡 重華だと訂正された。
とはいえほとんどのものは『蔡丞相の娘が輿入れする』としか知らなかったため、名前の訂正が行われたと知っているものの数は非常に少なく、皇帝自ら箝口令まで敷いているためそれ以上広まることもなく、大きな問題となることはなかった。
「で、蔡嬪様について、何を調べれば?」
「まずは、丞相の家で幼少期から輿入れまでどのように暮らしていたか、だな」
「そんなの、調べるまでもなく、わがまま放題に育ったに決まってるでしょう」
「そうとも限らない。だから頼んでいる」
「へぇ……で、まずはってことは他にも何か?」
「ああ。あとは、蔡 重華の産みの親について」
「丞相の夫人ではないんです?」
「どうも違うらしい。そのものについても、どのような身分で、どのように過ごしていたのか調べてくれ」
「はいはい、承知しました」
志明は調べるまでもないようなことばかリな気がしてならなかったが、それでも他ならぬ晧月の頼みであったため受けることにした。
あとでしっかりと報酬を弾んで貰おう、なんて考えているところまでは、残念ながら晧月は気づいていない。
最も、晧月は何を言われようとも、自身が相応だと思う報酬しか出す気がなく、それが多すぎると言われようとも、少なすぎると言われようとも変える気はないため、志明のそういった目論見は毎回失敗に終わっていたりするのだが。
「しかし、娘がすでに皇帝の唯一の寵妃だなんて騒がれるとなると、今からあの丞相の高笑いが聞こえてくる気がするなぁ」
「それはどうだろうな。案外この状況を、丞相は歓迎しないかもしれないぞ」
晧月はむしろ、悔しがるのではないかと予想している。
そう伝えると志明は怪訝な顔をした。
「はぁ!?皇帝に輿入れさせた娘が皇帝の寵愛を得て、喜ばない親なんていないでしょう?」
まぁ、実際のところ寵愛を得ているわけではないかもしれないが。
しかしながら、蔡嬪が寵愛を受けているという噂が流れるだけで、少なくとも先に輿入れしていた妃嬪たちの親はさぞ悔しがることだろう。
そして、その親たちのほとんどが、丞相、そして皇帝である晧月の政敵といっていいような状態である。
自身の政敵たちが悔しがる様子を見るだけで、あの丞相なら気分よく笑いそうなものだと志明は思う。
(それに関してはこいつも同じか)
晧月は蔡嬪が寵妃だとどれだけ騒がれようとも否定することはなく、むしろ噂が広まるのを助長しているようにさえ思えた。
噂が広まり、多くの人の耳に入るのを心待ちにしているように見える。
「ま、いいや。とりあえず俺は、任務をしっかり遂行してきますね」
「ああ、頼んだぞ」
ひらひらと手を振って立ち去る志明を見送って、晧月は政務に取り掛かる。
(確かに最近、少し遅れているかもしれないな……)
元々期限ギリギリではなく、余裕を持ってこなしてきていたので、何か支障をきたすような遅れが出ているわけでは決してない。
だが、ここ数日だけの進捗を見ると、これまでに比べ処理された政務がかなり少なく感じられた。
宦官たちに言わせれば、それでも晧月の政務の処理速度は非常に早い方であるがゆえ、なんの問題もない。
むしろ、仕事ばかりしていた晧月が息抜きを覚えたのだとすると、非常に喜ばしいことなのだけれど。
(早く来い、丞相)
志明の考える通り、晧月は噂が広まるのを待っている。
正確には広まった噂が丞相の元へと届き、慌てた丞相が晧月の元を訪れるのを、だ。
噂を聞きつけた丞相は、必ず自分のところへ来ると晧月は確信している。
そして、少なくともそれまでの間、晧月は蔡嬪の元へ通い続けるつもりでいる。
『明日は何か簡単に読めそうな書物を持ってきてやるから、それを一緒に読んでみよう』
昨日の去り際、晧月は重華に確かにそう言った。
けれど、いつも明るいうちに現れる晧月は、もう間もなく日が暮れようとする時刻となっても姿を現わさなかった。
(忙しい人だもの、必ず来れるわけじゃない)
妃嬪から皇帝を呼ぶことができないのが、この後宮の決まりの1つである。
妃嬪たちにできるのは、ただいつか皇帝が自分の元を訪れてくれるのを待つことだけ。
それなのに、最初は毎日来ることに戸惑いを覚えていたはずの重華は、いつの間にか毎日来ることを期待してしまっていたことに気づく。
(これが、当たり前であるはずがない)
これ以上期待してはいけない、重華は自分を戒めるように自身にそう言い聞かせた。
けれど重華は、晧月を待つのをなかなかやめることができなかった。
「すまない、遅くなった」
そう言って晧月が重華のいる琥珀宮を訪れたのは、すっかり日が暮れてしまってからのことだった。
しかし、そこにいるはずの重華の姿はなく、いるのは侍女である雪梅だけだった。
「蔡嬪は?」
周囲を見渡しながら、雪梅に問いかける。
(さすがにまだ寝る時間ではないはずだが……)
そうは思ってもいつもより遅かったため、すでに就寝した可能性も晧月は否定できなかった。
「蔡嬪様はただいま湯浴み中で、春燕が付き添っております」
「そうか」
とりあえず眠ってしまったわけではなかったことにほっとし、晧月は手近な椅子に腰掛けた。
すると、目の前には重華が文字を書いたと思われる紙が、たくさん散らばっていた。
「先ほどまで、ずっと字を書く練習をされながら陛下をお待ちになっておられたんですよ」
誰が、なんて言われなくてもわかる。
数枚手に取って眺めるだけで、昨日晧月と一緒に書いた文字をお手本に、重華が一生懸命に練習している姿が晧月には容易に想像できた。
「ん?これは……?」
1枚だけ、文字とはまったく違うものが書かれていて、晧月は手を止める。
「雪中花、か」
そこには、摘んできた日より少し元気がなくなったものの、未だに部屋に飾られたままの雪中花がそっくりそのままに描かれていた。
「上手いもんだな」
実際の雪中花と見比べながら、晧月が呟く。
「これも、蔡嬪が?」
「はい。文字を書くのに、少し飽きてしまわれたのかもしれませんね」
「ほう……」
字に関しては、最初に書いたものほど酷くはないが、まだまだお世辞にも上手いとは言えないので、上手く書くためには練習が必要そうであった。
けれど、そこに描かれた雪中花の絵は、墨だけで描かれているにもかかわらず、実際の花にも負けないくらい美しく描かれていると晧月は思う。
「どうやら蔡嬪には、絵の才能がありそうだな」
他の絵も是非とも見てみたい、晧月がそんなことを考えながら絵を眺めていると、足音が聞こえ始め、晧月は重華がこちらへ向かってきているのを悟った。
きっと自身が不在の間に晧月が訪れたことで、重華はきっと慌てふためくだろう。
そんな姿も、今から目に浮かぶような気がして、晧月はくすりと笑みを漏らしながら重華が来るのを待った。