「おや、陛下もいらしていたのですね」
柳太医の姿を見送った後、寝室でただ呆然と座っていた重華に、別室からそんな柳太医の声が聞こえた。
(え……へい、か……?)
ここに訪れるであろう、陛下と呼ばれる人物で重華が思い浮かぶのはたった1人、皇帝である晧月のみだ。
重華は慌てて立ち上がり、別室へと駆け出した。
「も、申し訳ありません。いらしているとは知らず……」
「そう慌てるな、柳太医が来ていたことは知っている。太医が帰ったら、声をかけようと思っていたのだ。ちょうど準備もあったしな」
「準備?」
非常に慌てていて、礼すらまともにできていない重華を、晧月は怒る様子もなくただくすくすとおかしそうに笑うだけだった。
そして、重華の疑問に対しても、晧月はやはり笑ってみせるだけで、答えが返って来る様子はない。
(怒ってはいらっしゃらないけど)
何も言われないのも、重華はやはり不安に感じた。
「柳太医、報告は後ほど頼む」
「かしこまりました」
「蔡嬪はこっちだ」
「え……?」
あっさりと柳太医を帰してしまった晧月は、半ば強引に重華を自身がいた近くの椅子に座らせた。
戸惑う重華の前には、真っ白な紙が広げられており、傍には硯と筆もある。
「あ、あの……」
「今日は文字の書き方を教えてやろうと思ってな。そなたが柳太医の診察を受けている間に、準備していたのだ」
硯を見れば、しっかりと墨が磨られているのがわかる。
(さっきの準備って、このことだったの……忙しいのに、陛下がわざわざ……?)
それこそ、侍女である春燕か雪梅に準備して待つように伝えれば、事足りたのではないかと重華は思う。
自身のためにそこまでさせてしまったと思うと、申し訳ないような気持ちになるが、同時に嬉しく思う自分もいて、重華は複雑だった。
「今まで、字を何か教わったことは?知っている文字は、何かあるか?」
「自分の、名前なら……」
それは重華が幼い頃、唯一母に教わった文字であった。
まだ、それほど母の心が壊れてはいなかった、まだ重華に優しい笑みを向けられることが多かった頃、名前くらいは書けないといけないと教えてくれた。
『重華』とつけたのは母なのだ、と教えてくれた時の母の笑顔を、重華は今でもとてもよく覚えている。
「そうか、では書いてみよ」
そう言って、晧月に筆を渡され、重華は戸惑った。
母が教えてくれた時、今目の前に置かれているような上等な真っ白な紙はもちろん、筆も墨もなかった。
重華の目の前にあったのは、砂地と母がどこから拾ってきた細い木の棒だけ。筆で文字を書いた経験など、あるはずもなかった。
それでも、重華は震える手でなんとか筆を握り、幼い頃に教わったことを思い出しながら自分の名前を書いた。
しかし、線は上手く引けず、思わぬところで墨が滲んだり太くなったり、筆は重華が思っていた以上に思い通りに動いてはくれなかった。
できあがった『蔡 重華』という文字は、幼い頃木の棒で地面に書いたものよりもずっといびつに見えて、重華は酷く落ち込んだ。
「筆ははじめてだったか」
晧月はそういうと、重華から筆を取った。
重華はそれが、自身は筆を持つのに相応しくないと言われているような気がして落ち込んだ。
(仕方ない、だってこんなに下手なんだもの)
きっと、晧月だって、こんなもの見たくなかったはずだ。
そんな重華の思いに呼応するかのように、晧月が目の前の紙を新しい真っ白なものと入れ替える。
やっぱり、とさらに重華が肩を落としたところで、晧月がぽんと重華の肩を叩いた。
「そう、落ち込むな。誰でも最初から上手くはいかないものだ。次は朕が教えてやる」
そういうと、重華から奪った筆に晧月は丁寧に墨をつけると、再度重華に筆を握らせる。
「筆はそう握るものではない、こう持つのだ」
晧月の手が、正しい持ち手になるように、筆を握る重華の指を直接動かしていく。
「よし、これでいいだろう。では、次は朕と書いてみよう」
「え?」
晧月は、重華の真後ろに立ち、そして重華が持つ筆を重華の手に自分の手を重ねるようにして持った。
「もう少し力を抜け」
そうは言われても、指には晧月の指が重ねられ、背中には晧月の身体が時折触れる。
重華は緊張でおかしくなりそうだった。
「朕が筆を動かすから、動きを覚えるんだ」
「は、はい」
晧月によって筆がゆっくりと動かされる。
重華は決してその動きを邪魔しないように、力を入れてしまわないように必死だった。
すると、晧月による筆の動きが重華の手によく伝わるような気がした。
その動きは、重華にどこで力を入れ、どこで力を抜き、どこで止まってどのように動かせば文字が書けるのか、1つ1つ丁寧に教えてくれているように感じられた。
(すごく、きれいな字……)
自分が書いたものとは全く違う、あまり文字に触れたことがない重華が見ても、晧月が書いた文字は美しいと思った。
「よい名だな。誰がつけてくれたのだ?」
「母です」
晧月は筆から手を放し、重華にも筆を置くように指示する。
重華は言われるがままに、筆置きに筆を置き、ようやく、ゆっくりと息ができるような気がした。
「名前の書き方も、母君に教わったのか?」
「はい」
「そうか。母君は今もご健在か?」
「いえ、私が幼い時に……」
(丞相の夫人は健在のはず……蔡 重華を産んだのは、別の人間か)
血の繋がらない子どもを、継母がいじめるといった類の話は、この国ではそう珍しい話ではなかった。
丞相の娘にしては、随分と酷い扱いを受けて育ってきたように見えるのは、その辺が関係しているのかもしれないと晧月は考えた。
(少し調べさせるか)
こういった類の調査に適任な部下の顔を思い浮かべながら、晧月は戻り次第すぐに指示を出そうと決心した。
「そなたも、寂しい幼少期を過ごしたのだな」
晧月は幼子にそうするように、重華の頭を撫でた。
目の前の重華の向こうに、母を亡くして悲しむ幼い重華が見えるような気がしたから。
また、母を亡くして寂しさに泣いていた幼い頃の自分とも、重なるような気がしたから。
(私も、つまり、陛下も……?)
重華からすれば、皇帝になれるような人間は何でも持っていて、いつもたくさんの人に囲まれていて、寂しいなんて感じることなどないような存在だと思っていた。
しかし、今の晧月の目は、重華よりもずっと寂しそうに見えて、重華の中でほんの少し皇帝という存在に対する印象が変わった気がした。
「そなたの母の髪も、このように赤みを帯びていたのか?」
頭のを撫でていた晧月の手は、そのままするりと下へ向かい重華の髪を一房掬い持ち上げた。
だがその瞬間、重華は怯えたような表情を見せ、その手から逃げるように身を引き、髪はすぐにするりと下へ落ちた。
「ち、違います。母は……陛下のように美しい黒髪でした。決して、このように醜い髪では……っ」
突然身体を震わせる重華に、晧月もまた驚き少し身を引いて距離を取った。
(醜い……?そんな意味で言ったわけでは、なかったのだが……これ以上、触れぬ方がいいか)
髪の色は重華にとって触れられたくない部分なのだと、晧月は瞬時に悟った。
晧月の手は、引き寄せられるように重華の髪に触れたのだ。
それは、決して醜いと思ってのことではない、むしろ非常に美しいと思うからこそだったはずである。
しかしながら晧月自身、その行動にらしくないと思うところもあり、あえて美しいと口に出すことはなかった。
「そなたの母は、きっと美しかったのだな」
晧月はそれだけ言うに留め、この話を終わらせることにした。
そして、空気を変えようと墨を磨り直し、筆に墨をつけ、それをまた重華に持たせる。
「もう1度だ」
そう言うと、晧月は先ほどと同様に、重華の持つ筆に自身の手を添えて重華の名前を書いた。
それを、数回繰り返したところで、晧月の手はようやく重華から離れた。
「そなたの名前を書くのはこれくらいでいいだろう。他に何か知っている文字はあるか?」
「い、いいえ……」
「そうか。では次は、何を書くのがいいだろうな……」
知っている文字が他にもあれば、次は重華とそれを書いてみようと考えていた。
しかし、重華が知っている文字は残念ながら自分の名前だけだった。
目論見がはずれてしまったので、晧月は慌てて他の候補を考えようとした。
すると、自身の方を振り返った重華と目があう。
「ん?どうした?」
「あ、あの、陛下のお名前、では駄目でしょうか?」
「朕の?かまわぬが、それでいいのか?」
問えば重華は晧月から視線を逸らし、俯いた。
それから、どこか恥ずかしそうに小さく頷いてみせた。
「そなたがそれでよいなら、次は朕の名前にするか」
そう言うと、晧月はまた重華の持つ筆に手を添え、真っ白な紙に『李 晧月』と書いた。
「これで、『り こうげつ』と読む。これが朕の名だ」
「素敵、です」
「そうか?まぁ、朕の名を朕の母がつけてくれたもので、朕もなかなか気に入ってはいるがな」
そう言うと、晧月はまた重華とともに自身の名前を書いた。
「次は、春燕と雪梅の名でも書いてみるか」
重華の名前同様、晧月の名前を何度か書いた後、晧月がそう呟いた。
2人の名前も書いてみたかった重華に異論はなく、重華はすぐに頷いた。
春燕と雪梅の名前も、重華の名前同様何度か書いてからは、目についたものの名前を書いた。
部屋に飾られた『雪中花』に始まり、雪中花を活けている『花瓶』、目の前の『机』、今座っている『椅子』といった具合で、どんどんと書いた文字が積みあがっていく。
「次はそうだな……ああ、『窓』にするか」
光が差し込む窓を見つけた晧月がそう言って、2人して窓を書いた後は、
「では次は『空』はどうでしょう?」
と窓の向こうに見える空を見ながら、重華が提案する。
晧月と一緒に次の対象を探すのも、見つけたものが文字になって書かれていくのも、重華は楽しかった。
そして、楽しんでいたのは重華だけではなかった。
普段、皇帝としての自分がやるようなことと、大きくかけ離れたことだったため、晧月にとっても新鮮だったからだろうか。
重華のためだったはずのこの時間を、晧月もまたいつの間にか楽しんでいた。