(随分と、楽しそうではないか)
晧月は重華の手を引きながら、努めてゆっくりと庭園を歩いた。
すると、後ろをついてくる重華は、ゆっくりと変わってゆく景色を興味深そうに眺めている。
先ほどまで花を見ることに興味を見せなかったのが、嘘のようだった。
そんな重華が、ある場所でふと、歩みを止める。
「ん?ああ、雪中花か……」
重華の視線を追った先に咲く花は、晧月が名を知る数少ない花の1つだった。
「雪中花……この花はご存知なのですか?」
晧月が花の名を聞くなと言ったから、重華は1度も花の名を訊ねたりしていない。
そして、梅の花以降、晧月が花の名前を言うこともなかった。
それなのに、特に惹かれて思わず足を止めた花、その花の名前だけは晧月からすんなりと出てきて重華は少し驚いた。
「ああ、母が好きな花だったからな」
「陛下の、お母様……」
(それって、つまり……)
重華は、まだ一度も姿を見たことのない皇太后を思い浮かべた。
「ああ、皇太后陛下ではない」
「え……?」
重華は二重に驚いた。
晧月の母が皇太后ではないということも驚きだが、自身が思い浮かべたものがまるで手に取るように知られているかのような言葉が返ってきたのが、さらに驚きだった。
「皇太后陛下は、育ての親だ。この花が好きだったのは、朕の生みの親の方だ」
「陛下をお産みになられたのは、皇太后陛下ではなかったのですね」
「それより、そなたもその花が好きなのか?」
「え、ええ、その、なんだか神秘的に見えて……」
「神秘的、か。朕の母はよく、その花が幸運を運んでくれると言って、愛でていた」
「幸運、ですか……」
そう言われると、本当に目の前の花が幸せを運んでくれそうな気がした。
「あの、お母様は、今もお元気でいらっしゃるのですか?」
「いや、いろいろあってな、朕が8歳の時に亡くなった。それ以降、朕は実子のいなかった当時の皇后陛下、つまり今の皇太后陛下の息子として育てられたのだ」
「いろいろ……」
「そう、いろいろと、な……」
晧月を産んだ母は、当時皇帝だった父から最も寵愛を受けた妃と言われたが、実家はあまり裕福ではなく、晧月が当時の皇帝の第一皇子として生を受けたにもかかわらず、後宮での妃位もいつまでも低いままだった。
そのため、高貴な妃嬪たちからあらゆるいじめを受けたが、父であった皇帝はその全てから晧月の母を守るという努力は怠ったまま、ただ好き放題に寵愛するだけだった。
そして、妃嬪たちからのとある嫌がらせが原因で、あっけなく命を落としてしまったのだ。
晧月はこの事実を、重華に詳細に話す気にはならなかった。
(これから先、ずっとこの後宮で過ごさなければならないんだ。こんな話を聞いても、怯えるだけだろう)
重華は、亡くなったと聞いたためか、先ほどまでの楽しそうな様子はなく悲しそうに目を伏せた。
自身が惹かれた花を同様に好きだった方が、どんな人か気になって安易に聞いてしまったことを後悔していた。
晧月にはその表情がまるで自分の身近な大切な人を失ったかのようにも思えて、苦笑する。
「そなたが、そんな顔をせずともよい」
まるで、小さな子ども相手にするかのように、頭を撫でられ重華はゆっくりと顔をあげた。
(私、どんな顔をしてたんだろう)
そんなことを考えていると、繋がれていた手が離れてしまった。
亡くなったお母様のことを思い出させてしまったから、嫌になったのだろうか、重華がそんな考えを巡らせはじめると、すっと目の前に数本の雪中花が差し出された。
「え……?」
「気に入ったのなら、部屋に飾ったらどうだ?朕の母が言ったように、そなたにも幸運が訪れるかもしれぬしな」
「あ、ありがとうございます」
晧月自ら摘んでくれたであろう小さな雪中花の花束を、重華は両手で大切に受け取った。
「あとで、春燕に花瓶に活けてもらえ」
「はい、そうします」
晧月は再び重華の手を引こうとした。
しかし、重華の両手は、大事そうに花を握りしめており離れる様子がない。
(たかが、花数本がそんなに大事か)
重華の視線もまた、そこから離れることはなく、ずっと嬉しそうに花を眺めている。
飽きる様子がまるでないのが、晧月には理解できなかった。
(そういえば、母上もこんな風にずっと花を見ていた気がする)
そう思うと、晧月の中で花瓶に差した雪中花を嬉しそうに眺めていた母と、重華の姿が重なって見えた。
(俺が花を摘んで持っていくと、いつも本当に喜んでくれていた)
晧月はそこまで考えて、全てを振り払うようにかぶりを振った。
(今さら、そんな昔のことを思い出して、何になる……)
晧月は勢いに任せて、重華の片手を掴んだ。
重華の片手はその力に従って、雪中花から離れる。
驚いた重華は、慌てて花を落とさぬようもう片方の手で握り直し、それから不思議そうに晧月を見つめた。
「陛下……?」
「いつまでここで立ち止まるつもりだ、行くぞ」
晧月はそう言うと、重華の手を引いて再び歩きはじめた。
強い力に引き摺られるようにして、重華の足も再び動きはじめる。
(さっきよりも、歩くの早いみたい)
晧月が何か急いでいるような気がして、重華は早く終わらせたいのかもしれないと思った。
(私が立ち止まったせいで、陛下を怒らせてしまったのかも……)
そんな心配をしながら、重華は必死に足を動かして晧月の後をついて行っていた。
しかし、晧月は怒った様子を見せることはなかった。
それどころか知っている花があれば名を教えてくれたり、他にも知っていることをいろいろと教えてくれた。
晧月の話してくれる全てが、重華の知らないことばかりで、話を聞きながら歩くだけでも重華は非常に楽しくあっという間に時間が過ぎてしまった。
(もう、終わり……)
広い庭園を、あっという間に一通りまわり終えてしまい、重華は少し残念に思った。
できればもっと、こんな時間が続けばいいと願ってしまう。
「病み上がりだし、あまり長く外にいるのもよくないだろう。朕は政務があるゆえ、これで戻る。そなたは早く中へ入って、花を活けてもらえ」
「はい」
きっと、とても忙しいのだ、これ以上、自分のために時間を使わせてはいけないのだ。
重華はそう考えて、急いで中へ入ろうとした。
しかし、その足はすぐに止まることになる。
「ああ、最初に教えるのは、これにするか」
「え?」
聞こえてきた晧月の声に、重華は振り返る。
すると、晧月が何かを見上げていて、重華もその視線を追った。
(何か、文字が書いてある……?)
重華には読めないけれど、そこにあるのは文字だということは重華にもかろうじてわかる。
「あれは、『こはくきゅう』、と読むんだ」
「琥珀、宮……」
「ああ、そなたが暮らす、この宮の名前だ」
皇帝自ら読み書きを教えてくれるというのが本当で、今この瞬間からそれが始まったのだと重華は悟った。
(知らなかった、この場所に名前があったなんて……)
重華には、考えもつかなかったことだった。
だから、この場所の名を、誰かに聞いたことさえなかった。
「あ、あの、陛下のお住まいにも、名前が……?」
「もちろんだ。朕の寝所は月長宮という。といっても、朕は天藍殿にいることの方が多いがな」
「天藍殿……?」
「ああ、皇帝が政務を行ったり、謁見を受けるところだ。興味があるなら、そのうち案内してやろう」
「ご迷惑でなければ、見て、みたいです……」
「そうか。他にもやってみたいことがあれば、春燕か雪梅に伝えるといい。妃嬪としての品位を損なわない範囲なら、なんでもさせてやる」
「あ、ありがとうございます」
言外に、間違っても侍女がやるような仕事は、今後やりたいと言うな、と改めて釘をさされているような気がして、重華はいたたまれない気持ちになりながらも、なんとかお礼を述べた。
「ではな。明日、また来る」
「お、お待ち、してます……」
明日も来るのかとか、そんな毎日来ていて大丈夫なのかとか、考えるべきことはいろいろあっただろうと重華は後になって思った。
けれど、その時の重華は、晧月が明日も来るというのが、ただただ嬉しく、待ち遠しかった。
重華の元に毎日訪れるのは、皇帝である晧月だけではなかった。
柳太医もまた、毎日のように重華の元へと足を運んでいた。
しかし、柳太医の目的は治療であるため、重華の熱が下がれば来なくなるだろうと重華は考えていた。
けれども、熱が下がった翌日も、にこやかに自分の元を訪れた柳太医の姿に、重華は驚きを隠せなかった。
「あ、あの、私、熱はもう下がりました」
「ええ、そのようですね。回復されてよかったです。ですが、お身体の傷は、まだ治っておられませんので、もうしばらくこちらに通わせていただきます」
「そ、そこまでしていただかなくても、大丈夫です。見た目は酷いかもしれませんが、痛みはないですし」
「痛みはなくてもこのまま放置しておりますと、傷からよくないものが入り、病気になってしまうことがあります。ですので、きちんと最後まで治療させてください」
柳太医はいつもにこやかで、穏やかに話をしてくれる。
けれども、重華はなぜか有無を言わせないような雰囲気を感じた。
重華にとって年老いた柳太医は、医師というよりも優しいおじいさんという方がしっくりとくる。
そんなおじいさんに、いつまでもわざわざ通って貰うのは非常に申し訳なく感じている。
しかしながら、拒否するのもまたとても心苦しいと感じてしまうのだ。
そのため、結局全て受け入れてしまう。
「蔡嬪様は、非常にお身体が弱っておいでです。そのため、傷の治りも遅くなっているかと。まずは、食事をしっかりお取りください。今召し上がっている量では、とても足りないかと」
「え?でも、私、ここに来てからたくさん食べていますよ。1日に3食も食べていますし」
柳太医は、侍女の2人から重華がどれくらいの食事量かであるかは全て聞いて把握済みである。
また、1日3食というのは普通のことであり、決してたくさんではない。
だが、柳太医は決してそういったことは、言わなかった。
「今までは、3食召し上がられてなかったのですか?」
「はい、今までは1日に1食だけでしたし、1回の量もずっと少なかったです」
だから、今はたくさん食べている、と重華は訴えているのだろうが、足りないものは足りない。
1日1食だったという今までが、明らかにおかしすぎたのだ。
しかし、そういったこともまた、柳太医はあえて言わなかった。
「そうですか。ですが怪我のご様子を見る限り、お身体にはもっと必要なようです」
「でも、そんなにたくさんは……」
春燕と雪梅は、もっとたくさん料理を並べてくれている。
しかし、いつも、申し訳ないと思いつつも、ほとんどが残ってしまうのだ。
「ゆっくりでかまいません。少しずつでも、今より量を増やせるよう、がんばってみてください」
「はい」
そんなことを言われても難しい、と思う気持ちもあったけれど、やはりというか重華は柳太医の言葉を受け入れ頷いてしまった。
「あの、1つ聞いてもいいでしょうか?」
「なんでしょう?」
「痛みを感じないのは、だめなことですか?痛くない方が、よいことなのではないでしょうか?」
「どうして、そのようなことをお聞きに?」
「陛下に言われたのです。痛いとわかるようにならなければいけないと」
「そうでしたか、陛下が……」
そう呟いた柳太医は、重華の気のせいかもしれないが、どこか嬉しそうに見えた。
「痛みを感じられることは大切なことです。痛いということは身体がそれだけ悲鳴をあげて助けを求めている状態ですから、それに気づけないのは非常に危険なことです」
「そう、なんですか……」
「陛下は、蔡嬪様を心配しておいでなのですよ」
「どうして、私なんかを、陛下が心配なさるのでしょう」
「陛下のお心は私では到底推し量ることなどできません。是非、陛下に直接お聞きになってください」
重華は、柳太医のこの言葉には頷くことができなかった。
(そんなことをしたら、迷惑に思われそう)
ここに来てから、重華には毎日かつての自分では到底考えられなかったような夢のような時間が続いている。
何かを間違えて皇帝である晧月の機嫌を損ね、全て失ってしまうのが今の重華が最も恐れることである。
「大丈夫ですよ、蔡嬪様」
それが、何に対して言われた言葉なのか、重華にはわからなかった。
けれど診察を終えた去り際に、柳太医が柔らかな笑みとともにそう言ったのが、重華の不安を少し落ち着かせてくれたような気がした。