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8. 閑


「今日も……」

「ん?何か言ったか?」

「い、いえ何でもありませんっ」


 翌日もまた、当然のように訪れた皇帝の姿を見て、重華は思わず声に出して今日も来た、と言いかけてしまった。

 危うくそれを当の晧月に聞かれてしまいそうになり、慌てて口を噤む。


「熱は下がったのか?」

「はい、すっかりよくなりました」


 そう言う重華は、昨日よりずっと元気そうに見える。

 そして、晧月は雪梅からも、柳太医からも重華の熱が下がり回復したとの報告を受けている。

 しかしながら、晧月は今日も重華の額に手を触れ、自身の手で確認をする。

 その手に昨日のような熱さを感じないことで、晧月はようやく重華の熱が下がったのだと認めた。


(今日の瞳は、きれいだな……)


 はじめてその姿を見た時から、最も晧月の目を惹いた重華の瞳。

 それが昨日は濁ってしまっているように見えて、残念に思っていた。

 しかし、今日はその美しさを取り戻していることからも、晧月は重華が十分に回復しているようだと察する。


「あ、あのっ!」

「ん?なんだ?」

「今日は、その……何を、すればいいでしょうか?」

「は……?」


 当然のように自身の向かい側に腰かけ、出されたお茶を優雅に飲む晧月に、重華は物凄く勇気を振り絞って訊ねた。

 しかしながら、訊ねられた晧月からすれば、いちいち自身に確認するようなたいした内容でもなく、重華の必死な様子とあまりにも噛み合わないような気がして、どこか拍子抜けした気分になった。


「昨日は眠ることがお仕事だと仰いました。ですが、もう治りましたし、その、私は、何をすれば……」

「朕に聞かずとも、好きなことをすればいいだろう」

「で、でも、することがないのです……掃除や洗濯はダメだと言われてしまいましたし……」


 晧月は、それしか思いつかないのかと呆れたものの、肩を落とし落ち込んだ様子の重華を見て、それを言葉にすることはしなかった。


「なんでもやりたいことをやれ。必要なものがあれば、春燕か雪梅に言えばたいていの物は用意してもらえるはずだ」

「では……っ」

「ああ、ただし、侍女の仕事以外だ」


 なんでも、という言葉の中に重華が勝手に侍女の仕事内容まで含んだ気がして、晧月は慌てて訂正する。

 晧月の『なんでも』、はあくまで妃嬪たちが普段行うような範囲のなんでも、である。

 再び肩を落とした重華の様子を見て、晧月は自身の予想は当たっていたようだと確信する。


(まったく、すぐに掃除をしたがる……変わった娘だ)


 今までの境遇では、やらなければならない立場だったのかもしれない。

 しかしながら、今はやらなくてもいい立場になったのだ、あえて苦労しに行く必要などない。

 晧月はそう考えているのだが、重華は違うらしい。

 それが、晧月には不思議でならなかった。


「掃除や洗濯以外、何も思いつかないのか?」

「はい……」

「何か、やってみたかったこととか、ないのか?」

「……」


 重華は問われ、必死に考えを巡らせた。

 しかし、何も思いつかず黙り込んでしまう。

 その様子に、本当に何も思いつかないらしいと悟った晧月は、心の中で小さくため息をつく。


「何か、書物で読むか?興味のあるものがあれば、持ってきてやろう」

「あ、その……申し訳ありません。字が、読めないです……」


 重華はばつが悪そうに俯いた。

 また、皇帝の妃という立場でありながら、文字が読めないということで迷惑がかかるのではないかと不安にもなった。

 きっと他の妃嬪たちは良家のお嬢様で、当然文字は読めるのだろうと思ったから。


「ふむ……なら、読み書きの勉強でもしてみるか?」


 そう提案すると、重華の表情がパッと明るくなる。


「興味がありそうだな」

「は、はい」


 重華は勉強など一度もしたことがなかった。

 しかし、鈴麗には有名な先生が何人もついていろんな勉強をさせられていた。

 鈴麗はいつも勉強なんて嫌だ、うんざりだと愚痴ばかりだったが、重華はいろんなことを学べる鈴麗がいつも羨ましかったのだ。


「勉強、したことなくて……ずっと、やってみたくて……」

「読み書きくらいなら、朕が教えてやろう。朕がいない時は、春燕と雪梅に教わるといい」

「いいんですか?」

「ああ」


 晧月が了承すると、重華は今にも飛び上がりそうだった。


(随分と嬉しそうだな)


 晧月には、重華の瞳が一段と輝いて見える気がした。

 また、まるで小さな子どもがご褒美を貰って喜ぶような、そんな表情にも思えて晧月はくすりと笑う。


「あとは、そうだな……」


 勉強は必ずしも楽しいものではない。

 自身も嫌になって逃げた経験はあるし、やることが勉強だけでは息が詰まるだろうと晧月は考えた。


「ずっと室内に居ては、息も詰まるだろう。散歩はどうだ?」

「散歩、ですか……?」

「ああ、宮の外には出てみたか?庭に様々な花が咲いている。花を愛でるのもいいだろう」

「お花……」


 妃嬪たちはそうして四季折々の花を眺めて過ごしていたはずだし、女であれば花を見るのが好きだろう、と思っての提案だった。

 しかし、晧月が思ったほど、重華は興味を示さなかった。


(花は好きではないのか?だが、体調を考えても、部屋に籠もりきりというのはよくないだろう)


 柳太医も身体が弱っていると言っていたし、また体調を崩さないためにも、健康的な生活をする必要があるだろう。

 そう考えた上で、晧月としてはたまに散歩させるようにする、というのはなかなか良い考えだと思っている。


「一緒にどうだ?」


 晧月は立ち上がり、重華に手を差し出す。

 今は興味がわかないようだが、やってみれば違うかもしれない。

 そして自身が誘えば、おそらくは断らないだろうと考えて。


「あ、えっと……」


 突然の晧月の行動に戸惑いを見せる重華に、雪梅がふわりと暖かな外套をかけた。


「え……?」

「外はまだ肌寒いですから」


 驚いて振り返る重華に、雪梅はにこりと笑ってそう告げた。


「陛下は、蔡嬪様に手を取って欲しいようですよ」


 おそらく晧月には聞こえていないだろう、重華の耳元でとても小さな声で囁かれた雪梅の言葉。

 重華はその言葉でようやく、差し出されている晧月の手の意味を理解した。

 慌てて立ち上がり、その手に自身の手を重ねようとした。

 しかしその手は中途半端なところで、動きを止める。


(駄目だ……こんな手で、陛下に触れるなんて……)


 晧月にも荒れていると言われた、お世辞にも美しいとは言えない手。

 高貴な皇帝の手に触れるには、あまりに相応しくない。

 しかし、重華がその手を引っ込めようとするまえに、強い力でその手を握られ引っ張られる。


「わっ」


 あまりの力に、重華の身体まで傾き、危うく晧月に倒れ込みそうになるのを、重華はなんとか踏ん張った。


「もたもたするな、早くしろ」

「あ、え、わわっ」


 晧月はそのまま重華の手を引いて、外へと向かって歩いていく。

 重華は引っ張られる感覚に足がもつれそうになりながら、なんとか晧月についていった。




(眩しい……)


 外へ出た重華は、随分と久しぶりに太陽や空を見たような気がした。


「ああ、もう梅が咲く時期か」


 晧月が梅の木を見上げ、呟いた。

 その声に導かれるように、重華も木を見上げる。

 すると、重華の目に紅色の美しい花が映る。


「きれい……」


 重華は目の前の光景を、美しいと思った。


(梅の花を見たの、これがはじめてじゃないはずだけど……)


 家にも、梅の木はあったように思う。

 花を咲かせていたことも、もちろんあったはずだ。

 けれども、重華は梅の花を見た記憶を全く思い出すことができず、知らない花ではないはずなのに、目の前の光景はとても新鮮に映った。


(こんな風に、ゆっくりお花を見たのは、はじめてかもしれない)


 梅だけではない、いろんな花が家でも咲いていたはずだった。

 けれど日々仕事に追われていた重華には、花を眺めている余裕などなかったのだ。


(お花って、こんなに綺麗なものだったのね)


 重華は、時間が許されるのなら、いつまでも眺めていられそうな気がした。


「梅は春を告げる花ともいう。もう、春なのだな」

「陛下は、お詳しいのですね」


 重華は梅がそんな風に呼ばれていることを、知らなかった。

 そんな重華からすれば、晧月はとても博識に思えた。


「いや、花についてはそんなに詳しくない」

「え?でも……」

「さすがに、梅くらいはわかる。だが、ここにある他の花について、いちいち名前なんか聞いてくれるなよ。ほとんど答えられないだろうからな」


 晧月はそう言って笑ったが、重華はそれよりもここにある他の花、が気になって周囲をきょろきょろと見渡した。


(広い庭園、本当にいろんな花が咲いてる……)


 これほどまでに広く立派な庭園がすぐ傍にあったことを、重華は今まで知らなかった。

 いや、正確にはすぐ傍の宮で過ごしているにもかかわらず、気づくことができなかった。

 重華は、それだけ自分に余裕がなかったのだと、そう思い知らされるような気がした。


「他の花が気になるか?」

「あ……えっと……」

「ゆっくり見てまわるといい」


 そう言うと、晧月は先導するように重華の手を引いたまま歩きはじめる。


(手、繋いだままでいいのかしら……?)


 自身の手をずっと握っていることが、皇帝にとって不快ではないのか重華は心配でたまらない。

 しかし、そんな心配を余所に、晧月は重華の手を放す気配など見られない。

 結局重華は、晧月より半歩ほど後ろをついて回るように歩いた。


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