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6. 涙の理由

「ほら、約束のものだ」


 重華は太医の診察を受けた後、春燕と雪梅にいわれるがままに薬を飲んでもう一度眠った。

 その際、後でまた皇帝が来ると聞いたような気もするが、正直ぼんやりとしていて記憶が曖昧だった。

 しかしながら、再び目を覚ました頃、目の前に皇帝が現れふわりと何かを重華に投げてよこした。


(約束……何かしたっけ……?)


 覚えがなく、首を傾げながらも重華は皇帝が投げて寄越したものを見た。

 するとそこには重華が今まで触れたこともないような上等な着物が、いくつもあった。


(こんなの、鈴麗だって着ているのを見たことないわ……)


 重華とは違い、丞相の娘として全てを享受して育った妹の鈴麗。

 しかし、その鈴麗であってもここまで上質な着物は着ていなかったのではないかと、重華は思う。

 それほどまでに、目の前にあるそれらは重華の目に上品で美しく映った。


「あ、あの……」

「おまえの希望通り、余り物だから、気にせず使うといい」


 本当は晧月がここを立ち去ったあと、それはそれは時間をかけて選んだものである。

 きつい色より淡い色がいいだろうかとか、暖色系の方が似合うだろうかとか、柄はあまり大柄でない方がよさそうだとか、いろいろと考えながら皇宮に保管してある着物を見ているうちに、晧月自身も驚くほどに時間が過ぎてしまっていたのだ。


(これが、余りもの……?)


 当然といえば当然であるが、重華はとても信じられなかった。

 しかしながら、皇帝の手前そんなことを言えるはずもない。


「本当に、私がいただいてもよいものなのでしょうか?」


 そう訊ねることが、重華の精一杯だった。


「ああ、それはもう全ておまえのものだ、好きに使え。気に入らなければ、捨てても人にやってもかまわない」


 後半は、そうは言ってももし本当にそうされたら、と想像すると、晧月は胸がずきずきと痛むような気がした。

 しかしながら、重華はぶんぶんと首を左右にふる。


「とても、素敵です。気に入らないなんてありません……っ!大切に、大切にいたします」

「大袈裟なやつだ」


 本当に大事そうに、ぎゅっと重華が着物を抱きしめる。

 晧月は大袈裟だなどと笑ってはいるものの、その姿を嬉しいと感じていた。


「蔡嬪様、せっかくですので今お召し変えになってはいかがでしょう?」

「それはいい。朕は隣の部屋にいるから、着せてもらえ」


 春燕のにこやかな提案に真っ先に同意したのは、重華ではなく晧月だった。

 せっかく選んだ着物だから着ているところを早く見たいという気持ちももちろんあったが、それ以上にいつまでもぼろぼろの衣を身に纏う重華を見ていたくないという気持ちが強かった。


「では、お手伝いいたしますね」

「どれをお召しになりますか?」


 春燕と雪梅も、晧月と同様の気持ちを抱いていたのかもしれない。

 突然のことにまだ戸惑いの表情を浮かべている重華を余所に、すぐさま準備にとりかかった。




「まぁ、とてもよくお似合いです、蔡嬪様」

「さすがは陛下の見立てですわ」

「はい?」


 純粋に褒めてくれた雪梅のあとに続いた、春燕の言葉に重華はほんの少し違和感を覚えた。

 春燕は慌ててしまったと言ったように口を両手で覆う。


「なんでもありません、蔡嬪様。ただ、本当によくお似合いだと思っただけです」


 そうして、笑みを浮かべられるとなんだかとても照れくさくなってしまい、重華はわずかな違和感をすっかりと忘れてしまった。

 春燕と雪梅は、晧月自ら選んできたであろうことは、晧月が着物を渡す時の様子と、選ばれた着物を見てすぐに気づいたのだ。

 しかしながら、それを安易に明かせば、それはそれは怒り狂う晧月もまた、容易に想像がついた。

 それほどまでに、2人と晧月は長い月日を親しい友人として過ごしてきたのである。


「ほ、本当に似合っているでしょうか?おかしくは、ありませんか……?」


 着せてもらった着物は、淡い桃色の春を思わせるような美しい着物だった。

 昨日輿入れのために着せてもらったものより、生地はずっと上等で触りごごちもよい。

 けれど、あまりに着慣れない着物に、重華は非常に落ち着かない気持ちになった。


「大丈夫ですよ、もっと自信をお持ちください」

「ええ。陛下にも見ていただきましょう」


 2人はにこやかにそう言うと、あっという間に晧月を連れてきてしまった。

 何を言えばいいのか、どんな顔をすればよいのかわからず戸惑う重華を前に、晧月はきれいな笑みを浮かべた。


「ほう、よく似合っているではないか」


 晧月は自身が思っていた以上に似合っていると思い、それはそれは得意気で満足そうであった。

 最も、そんな様子に気づいたのは春燕と雪梅だけであり、重華は晧月の言葉に顔が赤くなってしまうのを止められず、恥ずかしそうに俯いてしまっていた。


「顔が赤いな、まだ熱が高いのか?」

「もう、大丈夫ですっ」


 着物を着替えたことで、今は立っている状態ではあるものの、先ほど晧月が訪れた時には重華は寝台の上でようやく起き上がったといった状態だった。

 重華は間髪入れず大丈夫だと言ったが、その言葉に関しては晧月はあまり信用できず、そっと重華の額に触れる。


「まだ、熱いな」


 太医に診せる前ほどの熱さは伝わってこないものの、自身の体温と比べてまだ少し高いように思えた。


「いえ、本当に大丈夫です。先ほど春燕様と雪梅様にお薬を飲ませていただきましたし……」

「今、なんと言った……?」


 重華の言葉に、晧月はなぜかずきずきと頭が痛むような気がして、こめかみを抑えた。


「ちょっと、そこへ座れ」


 言うや否や、晧月はぐっと重華の肩を押すようして、寝台に重華を腰掛けさせる。

 そして、自身はその隣へと腰掛けた。


「昨日、朕の妃はそなただと言ったのは、覚えているか?」

「は、はい。もちろんでこざいます」


 それは重華にとって、いつまで続くかわからない不安定なものであったけれど、晧月にそう言われたことは重華にとってはとても嬉しくもあったのだ。


「この後宮で、最も地位が高いのは皇后だ。ただし、現在この国に皇后はおらず、空席となっておる」

「ぞ、存じております」


 さすがにこの国の皇帝が、まだ皇后となるものを迎えていないという事くらいは、国中の民が知る事実である。

 突然はじまった晧月の話の意図が読めないまま、重華はそれでもこくんと頷きを返しながら晧月の言葉に耳を傾ける。


「次いで地位が高い順に、皇貴妃、貴妃と続くがこのいずれもまた空席だ」

「は、はい」


 さすがにその下に続く皇帝の妃嬪の位に関しては、誰も教えてくれなかったため、重華は無知であった。

 重華が知っているのは、自身が嬪という位であること、それがそこそこ高い位であるらしい、ということくらいなのだ。


「その次が妃となる。この国では妃以上のものを1人は置くという決まりゆえ、妃に封じられたものが1人いて、英妃えいひという。そのものが現在この後宮で、最も高位なものだ。また英妃は後宮指南役でもある」

「後宮指南役?」

「まあ、簡単に言えば他の妃嬪の指導や管理をする立場だ」

「それが、英妃様……」


 重華は忘れないように、とその名を何度も心の中で呟いた。


(もし、お会いすることがあれば、失礼のないようにしないと)


 後宮で最も高貴だという方に自身が会える機会があるのか、重華にはそれすらわからないけれど。

 できれば気分を害し、罰せられるようなことは避けたい。


「そして、その次が嬪だ。嬪もまた現在封じられているのは1人のみ。言わなくてもわかっていると思うが、蔡 重華、そなただ。つまり、この後宮で2番目に地位が高いのは、そなたということになる」

「へ?」


 自身は、いや正確には鈴麗は、随分と破格な待遇で輿入れの話を貰ったと聞いていたが、重華は正直そこまでとは思っていなかった。

 驚きすぎたが故に、気の抜けたような声が出てしまい、それがなぜか晧月の笑いを誘った。


「予想外だったようだな」

「は、はい……」

「ちなみに、その次に貴人となるが、こちらもまた現在は空席だ。さらにその下に、婕妤、容華、美人、才人と続き、それぞれ数名ほど、封じられたものがいる」


 数名ほど、と晧月がぼかしたのは理由がある。

 晧月とてさすがに妃に封じた者は、顔も名前もしっかりと覚えている。

 しかし、それ以外のものについては、入宮した際、一応家柄等も考慮した上ではあるものの、適当に4つのうちのいずれかに振り分けてきたが故、正直なところ現在それぞれ何人いて、全部で何人いるかという正確な数字を把握していなかったのである。

 それほど、晧月は後宮にいる妃嬪たちに、何の興味も示さなかったのだ。

 また、妃に封じた英妃とて、決して気に入ったからという理由で封じたわけではない。

 誰か1人は妃位以上に封じなければならないため、必要に駆られて仕方なく選んだにすぎなかった。


(あの時、丞相の娘はまだ輿入れさせるには幼すぎた。唯一の妃位を自身の娘に手にさせることができず、さぞ悔しがっていただろうな)


 晧月は、自身が即位し、後宮に妃嬪を迎え入れなければならなくなった時を思い出した。

 皇太后を覗けば唯一の自身の支持者である丞相の娘は輿入れが叶わず、自身の後宮が敵対する勢力で埋まっていくのを晧月はうんざりとしながら眺めていたのだ。

 そしてその中で、最低でも1人は妃に封じなければならないという状況下。

 誰を選べば最も害が少ないか、皇太后、丞相とともに、晧月は当時非常に頭を悩ませた。


「話が少しそれたな。つまり、そなたはこの皇宮でもかなり高位だということだ。それほど位の高い朕の妃が、侍女を様などという敬称をつけて呼ぶでない」


 そこに繋がる話だったのか、と重華はようやく晧月の意図を理解した。


「で、ですが、お二人とも私より年上に見えますし……」


 さらに使用人同然で育った自分よりも、重華にとってはずっと美しく高貴な女性に見えていた。

 とはいえ、晧月が時間をかけてまで重華が高位なものであると説明したすぐ後である。

 さすがに重華とて、そんなことを言う気にはならなかった。


「そういえば、そなたはいくつだ?蔡 鈴麗は17になったばかりだと聞いていたが」

「あ、今年、18になります」

「そうか。朕は今年24になる、あのものたちも朕と同い年ゆえ、年上なのは間違いない。だが、侍女がどれほど年上であっても妃嬪に様などという敬称をつけて呼ばれることはありえん」

「で、では、春燕さんと雪梅さん、でよいでしょうか……?」

「春燕と雪梅でいいだろう。もちろん、2人には敬語も不要だ」

「そんな、恐れ多い……」


 重華は、自身より下の地位にいるものに出会ったことなどない。

 いや、正確には家の主の娘だったのだから、家にいた使用人たちよりは上だったのかもしれない。

 しかしながら、重華はいつだって一番下の扱いだったのだ。

 使用人相手でも頭を下げ、顔色を伺いながら生活してきた重華にとって、他人を呼び捨てにし、さらに敬語を使わない、という行為は非常に難易度が高い。

 重華は非常に困惑し、助けを求めるかのように少し離れた春燕と雪梅を見た。

 たとえ皇帝の命令によるものであったとしても、重華にとっては最も自身に優しくしてくれた2人であり、最も安心を得られる2人でもあった。


「陛下、いきなりではなく、少しずつ慣れていただいては?」

「そうです。我々もさすがに様をつけて呼ばれるような経験はほとんどなかったため、非常に戸惑っておりました。まずはそこから変えて、慣れていっていただけましたら」


 重華はそこで、また2人の優しさに気づかされたような気がした。

 きっと、2人とも重華の呼び方も、敬語もずっと気になっていたのだろう。

 けれど慣れていない様子の重華を気遣い、きっと何も言わないでいてくれたのだ。


(何も言わずに受け止めてくれた2人も、それから敬称や敬語が不要である理由を細かく説明してくれた陛下も、本当に優しい)


 今まで、重華が何かをしなければならないことに明確な理由の説明などなかったし、誰かによる気遣いだってなかった。


「随分と泣き虫なやつだな」

「え……?」

「さっき、柳太医の診察中にも泣いたと聞いたぞ」


 晧月の手が、重華の瞳から流れる涙を拭う。

 重華はそこで、いつの間にかまた自身が涙を流してしまっていることに気づいた。


(だって、みんな、優しすぎるから……)


 重華はそう思うと、さらに涙が溢れてしまいそうな気がした。


「わかったわかった、強要はしない。少しずつ慣れていけばいい、だからもう泣くな」


 泣いた理由は晧月が思うそれとは大きく違っていたのだけれど、その勘違いを正すものが誰もいなかったが故に、結局まずは様をつけるのを止めるところからはじめるということで、晧月はこの話を終わらせた。


(本当にことごとく想定外なやつだ……)


 丞相の娘を娶る話が出た時、晧月が真っ先に想像したのは名も顔も知らぬその娘が、皇宮をそれはそれは大きな態度で歩き回る様だった。

 そして、後宮では丞相の後ろ盾を理由に、妃に封じられた英妃さえも見下したような態度に出るのではないかと危惧していた。

 たとえそうなったとしても、丞相の顔を立てるべく、まるで寵愛しているかのようにその振る舞いを後押ししなければならないのだろうと思うと、晧月は心底憂鬱な思いで輿入れの日を迎えていたのだ。

 しかしながら、よくも悪くも重華は規格外なほど晧月の予想から外れた娘だった。


(まさか、侍女にまで敬語をつかうような妃が来るとはな……)


 重華よりも位の低い妃嬪たちであっても、そのようなことは決してなかった。

 それどころか、晧月との関わりなど無いに等しいような状態なのにもかかわらず、ただ皇帝の妃というだけで皇宮で働く者たちに対し随分と高圧的な態度を取っているものも多い。

 晧月は運悪くその様子を見かけてしまう度に、気が滅入った。

 それに比べたら、これはこれで問題はありそうではあるものの、重華の態度の方が晧月としてはずっと好感が持てる。


(まぁ、急に周囲に偉そうに振る舞われはじめるよりはいいだろう)


 晧月はそう結論づけ、当面重華が周囲に敬語を使い続けることは黙認することにしたのだ。


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