重華の涙は止まる様子はなく、晧月は座っていた椅子を重華が座る椅子の傍へと引き寄せた。
そうして、重華と隣り合うように座り直し、慰めようと重華を自身に引き寄せようとしたが、重華は抵抗するようにぐっと両手で晧月の胸を押した。
(俺の衣が、涙で濡れることを、恐れているのか……)
考えていることが、手に取るようにわかる娘かもしれない、と晧月は思う。
(丞相の娘など、どれほど高飛車で扱いにくいわがままな娘かと危惧していたが……)
そうでなくとも、後宮は現在、晧月自ら召し上げた者など1人もいないため、国の要職につく高官の娘ばかりだった。
ゆえに、基本的に皆どこか高飛車なところがあり、扱いづらくて晧月は苦手に思っていた。
(この娘なら扱いやすいであろう)
そう思った晧月は、今後間違いなく高飛車な娘であろう鈴麗と入れ替わられるなど、ごめんだと思った。
通常、皇帝に輿入れし後宮に入った娘が、後宮から出られることなどありえないのだ。
(身代わりを用意した自分を恨むんだな、丞相)
今さら別の娘を、と表立って騒ぐことは不可能だ。
そして、どちらも丞相の娘であるなら、丞相の娘を娶ってやるという義理もしっかりと果たせている。
(悪くない、いや、いいことしかないではないか)
自然と晧月の口元には笑みが浮かぶ。
未だ重華は抵抗を続けていたが、晧月からすればとても弱い力でしかなかった。晧月がさらに力を加えれば、重華は簡単にぽすんと晧月の胸へと納まってしまった。
「明朝、着物をいくつか届けさせよう、何か希望はあるか?」
重華は、晧月の胸の中で、溢れ続ける涙を止めようと必死だった。
そんな最中に聞こえた言葉に、ぎょっとして顔をあげる。驚いて涙が出るのが止まり、最後に流れた一筋の涙は、晧月の指がそっと拭った。
「好きな色でも、模様でも、言ってみるといい。できる限り希望に沿うものを準備しよう」
「お、恐れ多いことでございます……」
とんでもない、と重華は首を左右に振った。自分にはそのような資格など、あるはずがないというように。
「皇帝の妃になったのだ。着物くらい強請ってもよいであろう」
「あ、あの、では、その……余っているものが、あれば、お譲りいただけたら……」
余り物を着る皇帝の妃など、聞いたことがない。
だが、これが重華の精一杯らしいと晧月は悟った。
(仕方ない。似合いそうなものを、いくつか俺が見繕ってやろう)
渡す時には気にしないように、余っていたものだとでも言ってやれば受け取るだろう。
晧月はそう思いながら、どんな色や柄が重華似合うか考えをめぐらせてみる。すると、それが意外と楽しくてなかなか決まりそうにないなと感じていた。
「こ、ここで寝るんですか!?」
重華とて、皇帝が妃嬪の元を夜に訪れる意味を知らないわけではない。
けれど丞相の娘が、傷だらけのみすぼらしい娘だとわかった今、興味などなくなりすぐに帰ってしまうだろうと思っていたのだ。
それなのに、目の前の皇帝は当然のように今日はここへ泊まると、この宮の妃にと用意されているであろう寝台へと向かった。
「安心しろ、夜伽をしろとは言わない。ただ、朝までここにいるだけだ」
その方が、重華にとってもよいことなのだと晧月は言うが、残念ながら重華にはそれが理解できなかった。
ただ戸惑うことしかできない重華よそに、皇帝はごろんと寝台へと寝転んでしまう。
「ほら、おまえも来い」
当然のように手招きをされ、重華は思わず後ずさってしまう。
(い、一緒に寝るの!?)
皇帝と妃、本来なら当たり前のことなのかもしれない。
しかしながら、今の重華にはとてつもなく難易度が高い要求だった。
「わ、私はここで。床で寝るのは慣れていますから……」
暖かな寝具が重華に与えられたことなど、今まで一度もなかった。
凍えるような寒い冬でも、今にも破れてしまいそうなぼろぼろの薄い毛布にくるまって暖をとりながら眠っていたのだ。
妃嬪に与えられる豪華な宮の床で寝ることなど、たいしたことではなかった。
しかし、皇帝は非常に不服そうな顔で起き上がり、重華の傍までやってくる。
「さっきも言ったはずだ、朕の妃はそなただと。もう、身代わりではないのだ、皇帝の妃が床で寝ることに慣れるな」
晧月はそう言うと、あっという間に重華を寝台の前へと引っ張り、そのまま強い力で押し倒すかのように寝台へと寝かせた。
「あ、あの……」
「少し詰めろ」
戸惑う重華が何か言う前に、晧月は少し奥へと移動するよう重華へと告げる。
そうして重華の隣にできた1人が寝るには十分すぎる広さの寝床に、晧月はさっと潜り込む。
すると重華は非常に驚いた表情を浮かべた後、慌てて身体を縮こまらせた。
「この寝台は2人で眠るにも十分な広さがある、そう小さくならなくてもよい」
「で、ですが、その……、汚してしまいそうで……」
皇帝という存在は、重華にとって高貴でとても美しく迂闊に触れてはいけないもののように思えたのだ。
みすぼらしい自身の身体が、眠っている間に少しでも皇帝に触れようものなら、その価値を下げてしまうのではないかと重華は不安になった。
「もっと堂々としていろ。そなたは明日には朕の唯一の寵妃として、この後宮で最も注目される存在になっているはずだ」
「寵、妃……?」
寵妃と呼ばれるのは、皇帝の妃の中でも特別に寵愛を受けている妃のはずである。
残念ながら、今日皇帝に会ったばかりの重華は、そんなものを受けた覚えはないし、そもそも自身が得られるようなものだとも思ってはいない。
「朕は今まで、一度も夜に妃嬪の宮を訪れたことがない。つまりこうして夜を共に過ごしたことがあるのは、そなただけだ。それだけで、皆が寵妃だと騒ぎ立てるには十分であろう」
重華はようやく理解した、だから父は自分を身代わりにしても皇帝に気づかれないと思ったのだと。
1度もないのであれば、父とて何もしていない重華の元を皇帝が訪れるなど、夢にも思わなかっただろう。
きっと、鈴麗と入れ替わり、鈴麗が皇帝の興味を惹くまでは、皇帝とまともに顔をあわせることなくやり過ごせると踏んだに違いない。
しかしながら、実際のところ、そうはいかなかった。
なぜそうなってしまったかまでは重華にはわからないけれど、重華は皇帝晧月がはじめて夜を共にした妃嬪となってしまったのだ。
実際のところ、夜伽も何もしていないのだから、そこに寵愛など存在はしない。
けれど、それを知るのは、晧月、重華、そして侍女の2人のみ。
皇帝が妃嬪の宮で何をしたかなど触れまわるようなことでは決してない、わざわざ何もなかったと明かされることもおそらくはないだろう。
そうなれば、おそらく誰もが重華だけが皇帝の寵愛を得られたのだと考えるだろうことは、重華にも容易に想像ができてしまった。
(もし、私が皇帝の寵愛を受けているなんて、お父様に伝わってしまったら……)
本来なら、唯一の寵妃だと言われることは喜ばしいことなのかもしれない。
しかし、重華は背筋が凍るような恐怖を覚えた。
皇帝に会わずして、皇帝の寵愛を受けたなんてありえないのだ。
このみすぼらしい姿を全て見られたことを知られれば、父は怒り狂うに違いない。
はっきりとこの姿を見られてしまった後では、上手く鈴麗と入れ替わることなど不可能に近いのだから。
皇帝は妃は重華だと言ったが、父はまだ諦めていないはずなのである。
「どうした、寒いのか?」
突然、青い顔で震え出した重華に、晧月は声をかける。
寒いのであれば、暖かい毛布でもかけてやろうか、などと考えていたのだが、重華はただただふるふると首を振る。
「こ、困ります……っ、寵妃だなんて……っ」
「は?」
この国に、皇帝である自分の寵愛を受けたいと願う娘が、何人いると思っているのだ。
晧月はそう思い、怒りに震えた。しかしながら、怒りに任せて声を荒げることだけは、なんとか耐えた。
(悪意はない、はずなんだ……だから、落ち着け)
皇帝である自身の前で、あえて皇帝の寵愛が不要であるかのような発言をするなど、随分と失礼な話だ。
だから晧月には怒り狂うだけの資格が十分にあるような気もしたのだけれど、それでも拳をぐっと握りしめ、なんとか自身を落ち着かせるように務めた。
「なぜ困る?他の妃嬪にいじめられそうで不安か?」
それなら、晧月は助けてやるつもりではいる。
晧月が重華を寵愛しているかといえば、現状決してそうではない。
だが、政治的なことを鑑みて、晧月は重華……丞相の娘である蔡嬪が唯一の寵妃であるようにこれから振る舞うつもりである。
そうなれば嫉妬から他の妃嬪に何かされる可能性はもちろんあるが、そうなった場合皇帝自らそれを助ける、という行為もまた蔡嬪を寵愛しているように見せるためには、当然必要となってくるだろうから。
「いじめ、られますか……?」
重華の問いかけを聞き、どうやらそこまでは思い至っていなかったようだと晧月は悟る。
となると、無駄に不安要素を増やしてしまったような気がして、晧月は舌打ちしたい気持ちになった。
「まぁ、無いとは言えないが、その時は助けてやるから心配はするな」
無いだろう、とは残念ながら晧月は言えない。
ずっと後宮で育った晧月は、自身がまだ皇子であった時、父の妃嬪たちの泥沼のような醜い争いをたくさん目にしたのだから。
「それで、何が困るんだ?」
問いかけ返答を待ちながら、晧月は自分でも重華が困りそうなことを考えてみる。
(他の妃嬪が気になるのでないなら、やはり父親か?)
傷だらけの身体を父親が知っているのか定かではないものの、見えない傷はともかく、少なくとも晧月が見た手や腕の傷を知らないということはさすがにないだろうと思う。
となれば、丞相と重華の関係はとても良好とは思えない。
(もう無理だとわかっているだろうに、まだ、入れ替わりの心配をしているのか?それほどまでに父親を恐れているということか……?)
晧月の手が、自然と重華へと伸びる。
すると重華は身を硬くし、ぎゅっと目を閉じた。
美しい瞳が瞼に隠されてしまったのを、晧月はとても残念に思った。
「父親に知られるのを恐れているのか?」
問いかけても返答はない。
しかしながら、ぴくりと揺れた身体が、肯定しているように晧月には感じられた。
「心配しなくてもいい。おまえの父親には朕からきちんと話をする、悪いようにはしないと約束しよう」
後宮に輿入れしたものは、本来一生後宮から出ることなど叶わない。
輿入れしたものが別のものと入れ替わるなどもってのほかである。
そのくらい丞相だって理解している、だからこそ晧月がこのまま妃は重華とすると告げれば、丞相にはどうすることもできないはずだ。
「今日はもう眠れ。いろいろあって疲れているだろう。朕ももう寝る」
晧月は触れるようにそっと重華の頭を撫で、重華が少しでも眠りやすいようにと、重華に背を向けて眠ったふりをした。
重華はおそるおそる目を開けた。
(皇帝で、一番偉い人なのに、今まで出会った誰よりも、私を気遣ってくれている気がする……)
そんなこと、あるはずがない。自身にそんな価値などない。
身に染みてそう思っているはずなのに、それでも重華は、家族よりも自分のことを大事にしてもらえそうな、そんな期待を抱いてしまいそうになっていた。
(ううん、きっと今だけ。いずれこの人も、私より鈴麗がよかったと思うはず。そうなれば、きっと罰せられる)
誰だって傷だらけの娘より、艶やかできれいな娘を好むはずだ。
けれど、それまでのわずかな時間だけでも、ここで穏やかな時間を過ごせたらそれだけで幸せかもしれない。
重華はそう自身に言い聞かせるように、ゆっくりと目を閉じた。
やがて、静かな寝息が晧月の耳に届く。
(やっと眠ったか)
晧月は振り返り眠った重華の姿を確認した気持ちをなんとか抑え、重華を追うように眠りについた。