とても皇帝の妃嬪が着るとは思えぬ衣を身に纏う蔡嬪の姿に、晧月は驚きを通り越して少々狼狽えてしまった。
侍女ですらこのような衣を身に纏うことなどないだろうし、これほどまでにみすぼらしい衣を目にする機会などほとんどなかった、晧月がそう思うほどに蔡嬪の衣は酷かったのだ。
「お召し物、こちらしかお持ちではないそうでして……」
いち早く晧月の動揺に気づいた雪梅が、困ったように説明をする。
まるで貧しい民が着るかのような衣しか持たぬという事実に、晧月は眩暈すら覚えた。
(いくらなんでも、皇帝に嫁がせるのだ。もう少し、ましな服を用意してもいいだろう……っ!)
ここには居ない丞相に、怒りすら覚えた。
同時に、晧月はますます丞相の考えが読めなくなってしまった。
「とりあえず、座れ」
ちらりと視線で、晧月は自身が座る向かいの椅子を示した……つもりだったのだ。
「どうして床に座ろうとするのだっ!椅子に決まっておろう!!」
少なくとも何事もない状態で妃嬪を跪かせよう、などと晧月は思ってはいない。
この状況を、何事もない、と言えるかどうかは晧月自身とて、多少疑問は残ってはいるけれども。
「も、申し訳……っ」
「蔡嬪様、大丈夫です。落ち着いてください、ね?」
急に大きくなった晧月の声に驚いたらしい重華はその場にへたり込み、かたかたと身体を震わせ、瞳には涙が溜まっていて今にも零れ落ちそうである。
必死に泣くのを耐えているらしい重華を、少しでも落ち着かせようと雪梅は重華の身体を支え、何度も何度も背中を撫でていた。
晧月はその様子に酷く罪悪感を覚え、椅子から立ち上がって重華の前にしゃがみ込んだ。
(この娘に悪意があったわけではない、それはわかっている……)
娘は自然に、当たり前のように、迷うことなく床に座ろうとした。
椅子に座るか、それとも床に跪くべきか、迷った上で判断しての行動ですらなかったのだ。それはまるで、椅子に座るという選択肢があるということさえ、知らないかのように晧月には思えた。
「すまない、そのように怯えさせようと思ったわけではなかった」
苛立ちを、ただぶつけてしまったことを、晧月は素直に重華に詫びた。
すると、重華は驚いたように目を見開いて、ただただ晧月を見つめた。
(やはり目を惹く瞳だな……)
この瞳に見つめられることは悪くない、と晧月は感じていた。何度見ても重華の瞳は、晧月には美しく映った。
雪梅に目配せをすると、雪梅はすぐに意図を察し重華から離れた。だが、その所為でより不安を覚えたらしい重華の瞳は揺れ、とうとう一筋の涙が零れ落ちてしまった。
「あ……も、申し訳……っ」
「謝らずともよい」
涙を流してしまったことで、再び手を床について謝罪でもはじめそうな重華を、晧月はやんわりと止めた。
そして、手を差し出したのだが、雪梅とは違い重華がその意図に気づくことはなかった。仕方がない、と晧月はため息をつき、自分から重華の両手を取った。
そうして重華を立ち上がらせ、なんとか当初の予定通りの椅子に重華を座らせる。それから、そっと重華の涙を拭った。
「茶を入れてくれ」
そう言えば春燕がすぐに動いた。それを確認して、晧月は先ほど座っていた椅子へと座りなおす。
「なぜ、そのような服しかないのだ?丞相は何も用意してはくれぬのか?」
おかしいだろう、と言われているのは重華にも理解できた。
父親が丞相という立場なら、丞相の娘という立場なら、本来はありえないことだと重華だって理解している。
(私はこれしか持っていない。お父様が私なんかに服を用意してくれるはずもない。でもそんなことを言えば、私は鈴麗ではないと明かしているようなもの……)
どのように答えることが正しいのか、重華には全くわからなかった。
(お父様にとっても、これは想定外だったはず。きっと、こうして私と陛下が会ってしまうだなんて、想像もしていなかったのだわ……)
丞相は、中身が鈴麗に変わらない限り、皇帝の興味を惹くことなどないだろうと考えていたのだ。
同時に鈴麗に入れ替わりさえすれば、すぐにでも皇帝の寵愛を得られるという期待もしっかりと抱いていた。
だから、重華は入れ替わるその日まで、静かに宮の中で過ごして終わるはずだったのだ。
「の、後ほど、届くかと……」
重華が出せた、精一杯の答えだった。
決して嘘ではないはずだ、鈴麗に入れ替わる時には、大量の華やかな衣が用意されているはずなのだ。
「侍女も、服も、あとから来るのか?」
「は、はい……」
「では、それはいつだ?」
「そ、それは、その……」
いつかだなんて、それを一番知りたいのは重華だった。
一刻も早く入れ替わってほしい、今鈴麗が見つかったと言われれば、重華は喜んですぐにでもここで入れ替わったはずだ。
「そなたは、何を待っている?」
そう問いかけたところで、春燕が茶をことりと机に置いた。
晧月はすぐに茶器を持ち上げ、一口飲む。そして、重華にも飲むように、と視線で薦めたつもりだったが、やはりというか重華には伝わらなかった。
「す、少しだけ、少しだけお待ちください……っ。そうすれば全て変わります、きっとこんな風に陛下にご迷惑をおかけすることも……っ」
「変わる……?」
今の状況が変わる、ただそれだけのように思えた。
侍女も来て、服も届いて、それで全てが今とは変わると言っているとしても、何もおかしなことはないはずなのだ。
けれど、なぜか晧月はその一言がひっかかり、そして重華に問えば重華は大袈裟なほどに肩を揺らした。
(どうしよう、私、おかしなこと言った……?これ以上話すと、もっと駄目なことを言ってしまいそう……)
怒り狂う父の姿が目に浮かぶような気がして、重華はぎゅっと目を閉じた。
一方の晧月は、ようやく全ての辻褄があうような、1つの可能性を見つけ出せたと確信した。
「変わるのは、侍女と服が来るからか?」
「は、はい……っ」
「なぜ、後から来るのだ?」
「それは、その、まだ準備が……」
「誰のだ?」
「ち、父の……」
「違うのではないか?蔡 鈴麗の準備を待っているのではないか?」
「えっ!?」
重華の顔色が一瞬にして顔面蒼白になった。
丞相は本当に嘘のつけない娘を寄越してしまったようだ、と晧月はほんの少しだけ丞相に同情した。
(どうしよう、もうばれてしまったの……?)
罰せられる、そう思って重華は身構えた。けれど、聞こえてきたのはなぜか、晧月の笑い声だった。
「なるほど。丞相のやつ、自分から話を持ち出しておきながら、娘に逃げられたか」
丞相は常日頃から自身の娘の自慢をよくしていた。
晧月は興味はなかったとはいえ、自然と耳に入ってきた情報だけを繋げても、丞相が娘を普段から相当甘やかしていることは疑いようがなかった。
(甘やかしすぎたつけが、今来たようだな、丞相)
そう思うと、晧月はなぜか妙に気分がよかった。今なら丞相に対し、かなり優位に立てる気がしたからだ。
敵対する気はなくとも、やはり下に見られるよりは上にいたいものである。
「おまえは蔡 鈴麗の代わりなのだろう?そして蔡 鈴麗と入れ替わる際に、あわせて侍女と服も来る、と考えれば納得がいく」
全てが当たってしまっていて、重華は何も言えなかった。
本当はそうではないと否定しなければならないのに、上手く言葉が出てこなかったのだ。
「輿入れしたその日に、朕が訪ねてくるなど、丞相でさえ想像しなかったということか」
せっかく気を使ってやったというのに、今まで妃嬪の元を訪ねたことなどほぼ無い所為か、意外と期待をされていなかったようだ。
ならば、こうしてわざわざ訪れてやることもなかったのに、と晧月は思う。
(だが、来た甲斐はあったな)
丞相が娘の身代わりに、別の娘を輿入れさせたなど、思わぬ収穫だ。
(丞相がどのような顔で言い訳するか、見ものだな)
今、丞相に失脚されることは晧月にとっても痛手である。だから、公にして問い詰め重い罰を与えようという気はなかった。
しかし、この状況を助けてやった、という形を取れば、今後丞相を今よりもおとなしく従順に晧月に従えさせられるかもしれない。
(悪くないな)
むしろ、この状況は晧月にとって歓迎できる状況に思え、晧月はまた笑った。
「否定をしないということは、肯定したとみなすが」
「いえ、あの、その……っ」
上手く否定できない様子の重華を、まじまじと晧月は眺めた。
もはや、その表情やしぐさの全てが、晧月の推察を肯定してくれているようだった。
(だが、あれだけは、嘘だった、ということか……)
みすぼらしい服に荒れた手、痩せた身体、そしておびただしい数あるという傷。そのどれもが、残念ながら丞相の娘には似つかわしくないと晧月は思う。
ほとほと嘘がつけなさそうに見えても、やはり嘘をついた面もあったかと思うと少々残念に思えた。
(まぁ、そういう指示だったのだろうから、多少は仕方ないか……)
自身を少し落ち着かせようと、晧月はまた茶器に口をつけた。
「やはり、そなたは、丞相の娘ではなかったようだな」
「ち、ちがいますっ!!」
何も否定しなかった、いや、上手く否定できなかった目の前の娘が、驚くことにこれだけは身を乗り出すようにしてまで、間髪入れずに否定した。
「だが……」
「私は、私は……っ、父の、丞相の娘ですっ!母は、決して、不義など……っ」
そなたは蔡 鈴麗ではないだろう、という問いかけは重華の悲痛な言葉に遮られた。
感情が溢れだすかのように、重華の瞳から涙が溢れだす。
(これも、嘘では、なかったのか……)
全身で、信じて欲しいと訴えられているような気がした。晧月はどうしても、目の前の娘が嘘をついているようには思えなかった。
(それでも騙されている可能性がないわけではない、皇帝としては疑うべきなんだがな……)
そう思うのに、晧月は娘を疑うことができなかった。
立ち上がり、重華に近づいた晧月は、そっと頭に手を置いた。
「丞相の娘は、蔡 鈴麗だけではなかったのだな」
晧月はそのまま床に膝をつき、下から重華の顔を覗き込んだ。
皇帝が床に膝をつき、自分は椅子に座っているだなんて、それだけで不敬で罪に問われそうな気がして、重華は慌てて立ち上がろうとした。しかし、それを阻むように晧月が重華の手を握った。
「名を、教えてくれないか?」
重華は悩んだ。もう全てがばれているも同然だけれど、それでも自身が鈴麗ではないと、自分の言葉で明かしてはいけないだろうと思ったから。
(でも、この方に、嘘をつきたくない)
誰も信じてくれなかった、父でさえ認めてくれなかった事実を、目の前の皇帝だけが信じてくれたのだ。
それは言葉だけで、何の証明もできていないにもかかわらず。
「重華……蔡 重華と、申します……」
「重華か、良い名だな」
晧月の声がとても優しく感じられ、重華はまた涙を流した。
「朕の妃は、蔡嬪は、蔡 重華、そなただ。この先入れ替わることは許さぬ、よいな?」
晧月の手が、重華の涙を優しく拭う。
これは命令だと、晧月はそう告げているのに、その声も表情もどこまでも柔らかく優しいもので、重華は涙を止めることができなかった。