娘が年頃になったから輿入れをさせたい、そう願い出たのは他でもない丞相だった。
若き皇帝である晧月にとって、皇太后と丞相が政治上での数少ない味方であった。もちろん完全な味方とはいかず、腹には一物も二物も抱えてはいるだろうが。
自分の地位を支持し安定させてくれる勢力からの申し出を、無下に断れるほどの力もなく、どうせ妃に迎えるだけだと晧月は頷いたのだ。
(丞相にとって、俺を騙し他の娘を送り込む利益など、考え難いが……)
しかし、残念ながら、こうして今目の前にいる娘は、晧月から見てどうにも丞相の娘とは思えなかった。
(丞相の家の使用人を送り込んだ、と言われた方が納得できるな。それに侍女1人居ないのも不自然すぎる)
丞相の娘として贅沢三昧で育った人間が、世話する人間をつけず輿入れなど、受け入れられぬだろう。
娘には甘いと噂の丞相だ、娘が強請れば、それこど不要なほどの人数をつけて入宮させて来そうなほどだ。
「わ、私は……紛れもなく、この国の丞相の、娘でございます……っ」
重華は震えながらも、必死に言葉を紡いだ。
母は重華は父の娘だと、何度も何度も必死に訴えていた。重華はまだ非常に幼かったけれど、それを知っている。
だから、それだけは、どうしても信じて欲しいと、強く強く願ったのだ。
「この国の丞相の娘の手は、こんなにも荒れるものなのか?」
晧月は取っていた手を引っ張り上げる。
すると、今度は重力に従って落ちた服の袖から、痛々しい傷がいくつもついた腕が見えた。
傷は古いものから、最近のものまで様々で、あまりにも酷い様子に、晧月は思わず手を放し目を背けてしまった。
(このようなおびただしい傷を抱えているにもかかわらず、手を捕まれても痛いと声すらあげないのか)
どうも自分が、目の前の娘をいじめているような気分で、晧月はいたたまれなくなった。
「も、申し訳ございません……陛下に、お見苦しいものを……」
荒れた手や醜い傷跡が、皇帝を不快にさせたのだろうと、重華は慌ててまた額を床に擦りつけた。
一国の皇帝がたったこれだけで怒りを鎮めてくれるものなのか疑問もあったが、重華にはこの方法しか思いつかなったのだ。
「もうよい」
「本当に、申し訳……」
「よい、と言っている」
ただ、ひたすらに謝り続ける重華。晧月はまた彼女の顎に手をかけ、顔をあげさせる。
「なぜ、昼間の格好のままでいるのだ?」
晧月は、話を変えるため、違う質問をしてみることにした。
「すみません、着替え方がわからなくて……」
重華の答えは、晧月にとってある意味予想通りだった。
(まぁ、人に着替えさせてもらうのが前提のような服だ、侍女がいなければ着ることも脱ぐこともできぬであろうな)
つまり、着せてくれた人間はいたはずなのだ。
しかしながら、今はその姿らしきものはどこにもない。なんとも不思議だと晧月は思う。
「春燕、雪梅、着替えさせてやってくれ」
「はい」
「かしこまりました」
春燕と雪梅は晧月の言葉に応えるように頭を軽く下げた。
そして、春燕は重華の右側へ、雪梅は左側へとさっと回り込んだ。重華は驚き、交互に二人を見ている。
「蔡嬪様、あちらへ参りましょう」
「ついでに、湯浴みもいたしましょう」
春燕は右腕、雪梅は左腕をしっかりと掴んで重華を強く引っ張り上げた。
見事な連携に、重華の身体はすぐに浮いて立ち上がらされた。
「え?え?」
「大丈夫ですよ、参りましょう」
春燕がにこりと笑ってそう言うと、重華はなんだかほっとして安心するような気がした。
しかしながら、安心してはいられない。
(身体中にある痣や傷が、全部見られてしまう……)
いつか鈴麗と入れ替わらなければならないのに、そう次々と醜い部分を見られてしまっては非常に困る。
入れ替わった瞬間に、一瞬で別人だとバレてしまう。そうすれば、父も鈴麗も全て重華の所為にするだろう。
「じ、自分でできます、1人で……っ」
「できなかったから、着替えていないのだろう。いいからそのまま、2人に任せておけ」
「で、ですがっ」
「命令にするか?」
少し、ほんの少しだが皇帝の声が低くなり、睨まれたような気がして重華はびくりと震えた。
「大丈夫です、陛下は心配されているだけですよ。ですので、私たちにお任せくださいませ」
今度は雪梅が優しい笑みを浮かべながら、重華に言う。
その後も雪梅は、背中に手をあて、何度も重華に大丈夫だと声をかけながら、浴槽まで付き添った。
すぐに浴槽に湯を張り、服を脱がせた春燕と雪梅は、ともに目の前の光景に絶句した。
全体的に非常に痩せているということも驚きではあったが、何よりも目を引いたのはそこにあったおびただしい傷だった。
それは、腕とは比べものにならない上、治りきっていなさそうな傷も多々あった。
見ているだけで自分たちが痛いような気分になって、目をそらしたくなるのを耐えながら、二人はそっと目配せをした。
「蔡嬪様、他に準備することがありますので、少し離れます。引き続き、雪梅がお世話いたしますので、ご安心ください」
そう言うと、春燕は一礼をしてその場を離れた。
残った雪梅は、まずは手拭いを湯であたため、できるだけやさしく重華の身体にあてた。
「蔡嬪様、痛むようでしたら、教えてくださいね」
そう声をかけ、力をかけすぎないよう細心の注意を払いながら、少しずつ少しずつ身体を拭いていく。
「気持ち、悪いですよね……ごめんなさい、あとは自分でやりますから……」
「そのようなことはありません。ご迷惑でなければ、このままお世話をさせてください」
不安そうに瞳を揺らす重華に、雪梅は殊更優しく声をかける。
「傷にしみたりはしていませんか?大丈夫そうでしたら、浴槽にお入りください」
一通り身体を拭いてまわったが、緊張している様子ではあるものの、重華が痛みで声をあげることはなかった。
(痛々しい傷ばかりだけれど、見た目ほど痛みのないものなのかしら……)
途中痛みに耐えるような素振りさえなかったことに、雪梅はほんの少しだけ違和感を抱いた。
「こんな暖かいお湯、私が使っても、よいのでしょうか……?」
「っ!?……ええ、もちろんです。蔡嬪様のために準備したものですから、蔡嬪様にお使いいただけないと、無駄になってしまいます」
雪梅はひどく驚いたが、その所為で重華を怯えさせないようにと、できる限り冷静な様子を装った。
湯を使うことなど、侍女でさえ当たり前のことであるのに、目の前の少女はそれがまるでものすごく特別なことであるかのようだった。
(丞相の娘が湯を使えないなんて、ありえる……?)
心の中の自分の問いかけに、雪梅自身が返す言葉は否しかありえない。
けれど、雪梅は重華が嘘をついているようにも、到底思えなかった。
(人を騙しているようには見えないし、騙せるような人間にも見えない)
晧月に向けた瞳も曇りなどなく、ただ真っ直ぐだったように思えたのだ。
「蔡嬪様、さぁ、温まってください」
もう一度雪梅が声をかけ、浴槽に入る手伝いをすれば、ようやく重華は湯舟に身体をゆっくりと鎮めた。
ほぅ、と気持ちよさそうに息を吐いたのを見て、雪梅も少し安堵の息を吐いた。
「どうした?」
晧月はとりあえず近くにあった椅子に座り、その前にちょうどあった机に肘をのせ頬杖をついて、ぼんやりと考えごとにふけっていた。
そこにちょうど、少し慌てたように戻ってきた春燕に、晧月はすぐに声をかけた。
長い付き合いだ、何かしら想定外のことがあったのだろうというのは、表情を見ればすぐに察することができた。
「実は……」
春燕が語ったのは、先ほど重華の身体にあったおびただしい数の傷のことだった。
「随分古いものもありますが、ごく最近のものでまだ治りきっていないものも多数ありました。特に多いのが、背中とお腹のあたりで……」
そこまで言うと、春燕は先ほどの傷を思い出し、顔を顰めた。
晧月はその表情を見るだけで、いかに酷いありさまだったかわかるような気がした。
「普段服で隠れるような場所には、遠慮がないのかもしれんな……」
誰につけられたかわからないが、数から考えても人為的なことだけは間違いないであろう。
「春燕、蔡嬪をどう思う?」
「嘘はつかれていないかと思います。おそらく雪梅も、そう言うはずです」
あれは、脅されて嘘をつかされている瞳ではなく、ただ信じてほしくて必死な瞳だと春燕はそう感じた。
「そう、だろうな……。俺も、そう思う。だからこそ、おかしなことばかりで困っているんだ……」
晧月は皇帝となり、一人称が『朕』へと変わった。周囲に舐められないためでもあったのだろう。
だが、それはあくまで晧月が皇帝として振る舞う時だけであり、親しい間柄のものしか居ない時は、ごく自然と一人称が『俺』となった。
肩肘張らずに居られる、ということなのだろう。
そして、晧月は今、皇帝という立場を鑑みることなく、春燕の前で頭を抱え困り果てた姿を見せている。
それが何より自身が晧月に信頼されている証だと、春燕は思った。
「蔡嬪が本人の言う通り、丞相の娘で間違いないとしよう。丞相が娘を嫁がせたのは、自身の娘が俺の寵を得ていずれ皇后になることを期待してのことだろう。なら、そのような傷だらけの状態で嫁がせる理由はなんだ?」
娘が婚礼の適齢期だから、と輿入れを申し入れて来たのは他でもない丞相だったのだ。
無理に傷だらけの状態で嫁がせなくても、治療して多少なりとも目立たないようにしてからでも遅くなかったのではないだろうか。
「俺は、傷だらけの娘を好むと思われているのか?」
「そんなまさか……」
春燕はさすがにありえないと首を振った。
皇帝の寵を得ようとするものは、少しでも美しくあろうと必死である。
また輿入れさせる際も、皆縁者の中でも最も美しいものであったり、秀でた特技があったりで、皇帝の関心を得られそうなものを選んで輿入れさせてくる。
晧月が実は傷だらけの娘の方が好きだなんて噂も当然流れていたりはしないので、少なくとも傷だらけの娘に期待なんてしないはずである。
「侍女がいないのもおかしいであろう。あの丞相ならむしろ、他家より大勢の侍女を連れ、服や装飾品などもより豪華なものを大量に持ち込み、威厳を見せつけようとするのではないか?」
丞相の娘が侍女を1人も連れてこなかった、と知れ渡ったところで、丞相には何の利点もないだろうことは明らかであった。
「あの者は何を考えている!?これは、俺への嫌がらせか?」
晧月は苛立ったように、だんっと机を叩いた。
だが、そんなことをしても丞相に得などないと言うことは、誰よりも晧月が理解している。
丞相は今のところ、政敵ではない。晧月が皇帝になる前から丞相という立場であった彼は、皇帝が変わっても変わらぬ自身の地位を見返りに、皇太后とともに晧月を次の皇帝とすることを支持した。それによって晧月が皇帝となり、彼は今も丞相でいられるのだ。
その座を狙うものは他にもいる、そういった敵対するものたちを退けるためにも、今のところ晧月と険悪な仲にはなりたくないはずなのだ。
「どのような娘であっても、あれの娘だというだけで俺が皇后に据えるとでも思っているのか?みすぼらしい皇后を持つ皇帝だと、後々馬鹿にできるように準備でもしているのか!?」
もはや晧月が考え得ることは、自身が丞相に小馬鹿にされているのではないか、というくらいしかなかった。
その方がもしかしたら、裏で皇帝たる自分を好きに操れると思われているのかもしれない。
そんな考えも浮かんだりはしたのだが、やはり晧月はどこか腑に落ちず納得がいかなかった。
『我が家の娘は本当に美しいですから、きっと陛下も気に入ります』
男は豪快に笑いながら、確かにそう言ったのだ。
他にも娘の自慢をたくさん聞いた気がする。政敵の娘が後宮でのし上がるよりは、丞相の娘の方がまだましだろうと、最初から輿入れを断る気のなかった晧月は、正直あまり内容には興味なく適当に聞いていた。
そのため、しっかりと内容を覚えているわけではないが、少なくとも痩せこけて身体に傷のあるような娘が、侍女も着けず輿入れしてくるような結果を招くような内容ではなかったはずなのだ。
「まったく、わけがわからん」
いろいろ考えてはみたが、晧月は完全にお手上げだった。
これは、本人にもう少し話を聞いてみなくては、晧月がそう考えはじめた頃、雪梅が随分とみすぼらしい格好になった重華を連れて戻ってきた。