「きゃああああっ」
「うるさい、おとなしくしろっ!」
少女は膝をついて頭を垂れた状態で、乱暴に長い髪を引っ張り上げられ恐怖に悲鳴をあげた。
そうして無理矢理あげさせられた顔は、頬は酷く痩せており青白い顔色をしており、床についたままの手は荒れて傷だらけだった。
彼女の名は、
そして、彼女の目の前で彼女を乱暴に扱っている、ふっくらとした中年の男こそ、紛れもなくこの国丞相であった。
「なんとも醜い。だが、しかたあるまい」
蔡丞相は、重華を上から下までじっくりと眺めた後、吐き捨てるようにそう言って、床へ投げつけるように持っていた長い髪を手放した。
重華はわけがわからず、ただ怯えることしかできない。
「明日は
鈴麗、とは重華の妹の名前だった。
重華とは母親が違うが、ともに蔡丞相の娘として生まれた。
違ったのは、虐げられ続けた長女重華とは違い、次女鈴麗は蔡丞相の娘として与えられる全てを享受して育った。
ゆえに、肌はいつも艶やかで傷などなく、頬もふっくらとした美しい女性へと成長を遂げている。
また、居ないも同然の重華に代わり、事実上この蔡家の長女のような扱いでもあった。
彼女なら、どんな家へでも輿入れ可能であり、どんな男性にでも受け入れられるのだろうと、重華は思った。
「そ、そんな……っ、おとう、いえ、旦那様、私にはそのようなこと、到底務まるはずが……っ」
お父様、重華がそう呼んでしまうたび、蔡丞相は重華を殴り飛ばしていた。
それでも父と呼びそうになり、重華は慌てて使用人たちと同じ呼び方にした。
「うるさい、うるさい、うるさいっ。おまえも儂の娘だと言うのなら、一度くらい儂の役に立ってみせろ」
都合の良い時だけは、父になってくれるようだ、と重華は思う。
それでも娘だと言われたことを嬉しいと感じてしまうことが、また重華は辛かった。
ここまでされて尚、重華は父に娘として認められ愛されたいと願ってしまっていたのだ。
「鈴麗お嬢様がお戻りになるまで、輿入れの日取りを遅らせては……」
「相手は皇帝陛下だ、そのようなこと、できるわけがなかろうっ!!」
重華の顔は一瞬で青ざめた。
相手が皇帝陛下だなんて、ばれたらそれこそいったいどうなるのか、命ある未来など想像できない。
「旦那様、どうか、どうか……」
「うるさいっ、これは決定事項だ!おまえごときに、拒否権などあると思うなっ」
床に手をつき、額を床に擦りつけようとも、重華の言葉は聞き入れてもらえない。
吐き捨てるようにそう言われた重華にできることは、ただ静かに涙を流して受け入れることだけだった。
重華はその日、はじめて使用人たちに綺麗に洗われた。
いつもは冷たい水で自身の汚れを落とすだけだった重華にとって、あたたかな湯で洗われることは幸せだった。
けれども、見れば見るほど醜い自身の、痩せているだけでなく傷だらけな身体に、ただただ恐怖を覚える。
(すぐに偽物だと、わかってしまうわ。育ちのいい鈴麗が、こんなみすぼらしい格好をしているわけがないことを、皇帝陛下がおわかりにならないはずないもの)
皇帝陛下に輿入れをすれば、夜伽というものがあるというのは、重華でも知っている。
その詳細を全て知っているわけではないが、その際に身体を見られてしまうだろうことは、重華にだって容易に想像ができた。
現在、皇帝陛下には皇后がいなかった。けれど、代わりに多くの妃嬪が輿入れをしており、皇帝の寵愛を得て皇后の座を得ようとしていた。
(たくさんいるんだもの。私が夜伽をする前に、鈴麗が見つかりさえすれば……)
それまで、できる限り、地味で目立たず、皇帝の目になど間違っても止まらぬように……重華はただそれだけを心に誓った。
触れたことなど一度もないような上質な衣を身にまとい、重華はいよいよ輿入れの日を迎えてしまった。
丞相の娘という立場を考慮され、重華、いや正確には鈴麗には嬪の位が授けられた。
これは破格の待遇なのだと聞かされ、目立ちたくないと切に願う重華はまた青ざめた。
それでも輿入れの儀式は恙なく終わった、と重華は思った。
「そなたが丞相の娘、蔡 鈴麗か」
皇帝陛下が重華に放った言葉はたったそれだけだった。
あとは言われるがまま決められた儀式の内容をこなしただけだった。顔を見られぬよう、声を聞かれぬよう、ただただ顔を伏せ、息をひそめながら……
皇帝陛下は漆黒の長い髪が美しい、まだ若い青年だった。確か歳は今年で24。若いながらも威厳を感じる、堂々とした立ち振る舞いだった。
(私とは違う、美しい黒髪だった)
重華の髪は少し赤みを帯びた栗色の髪で、重華はこの髪色が大嫌いだった。
父も母も艶やかな漆黒の髪であったにもかかわらず、重華は赤みを帯びた髪を持って生まれた。
そこで、父の寵愛を一身に受けていた母は、はじめて不貞を疑われたのだ。母がどれほど無実を訴えようとも、父は重華を娘とは認めてくれなかった。
そこへ父の第二夫人が、漆黒の美しい髪を持つ鈴麗を産んだ。父はまるで唯一の娘であるかのように鈴麗だけを可愛がり、重華は母とともに虐げられることとなる。
母だけへ向けられていたはずの愛さえ、いつしか鈴麗を産んだ第二夫人のものになっていたのだ。
それでも母は最初のうちは重華をかわいがり、大切にしてくれた。だがかつては正妻として誰よりも大切にされていたのに、第二夫人より遥かに劣る待遇へと変わったことで、母の心は徐々に壊れ、いつしか全てを重華の髪の色のせいにするようになった。
『おまえさえ、おまえさえこんな髪色で生れなければ……!』
母はことあるごとに重華を叩いた。重華は自分が悪いのだからと、ただ耐えるしかなかった。耐えればいつか、またかつてのようにかわいがってくれるかもしれない、とそう信じていた。
けれど、重華の願いは叶うことなく、重華の5歳の誕生日、母は精神を病み自害してしまった。
(まだ、私の髪色は知られていないはず……)
今日は髪を結い上げ、いろんなものを被せられていた。
顔も髪色も、きっと皇帝陛下から見えてはいなかったはずだ。
重華の容姿が知られてしまえば、鈴麗と入れ替わることが難しくなる。
(どうか、どうか、早く鈴麗を見つけて……っ)
重華は儀式の間、ただそれだけを願っていた。
「陛下、今宵はどうされますか?」
宦官の1人が、皇帝陛下に訊ねた。これは皇帝に対して、毎夜行われることである。
皇帝陛下は自室で1人過ごすか、自室に妃嬪を呼ぶか、妃嬪の部屋を訪れるか、決めねばならない。
多くの妃嬪が自身の部屋への訪れか、もしくは呼び出しを心待ちにしている。しかしながら現皇帝、
「陛下、今宵は蔡嬪様のお輿入れの日ですので……」
「丞相の娘、だったな……」
晧月は深く深くため息をついた。しかし、丞相の面目を保ってやるためにも、初日くらい部屋を訪れてやらねばなるまい。
まだ若き皇帝である晧月は、丞相と険悪な仲になりたいわけではないのだから。とりあえず1日でも訪れておけば文句も言われまい、そう思い今日ばかりは重い腰を上げることにした。
「わかった、今日は蔡嬪のところへ行こう」
行って、適当に言葉を交わして終わればいい。朝まで居れば、蔡嬪とて皇帝の手つきになったことになるのだから、文句は言うまい。
そう考え、晧月は宦官に先触れを出すようにと伝えた。
晧月は目を丸くしていた。
皇帝になって早数年、とはいえ妃嬪の部屋を訪れた回数は少ないものの、それでもこのような光景ははじめてであった。
広い部屋、いや嬪位のものが使うにはさして広すぎる部屋でもないはずだが、無駄に広く感じる部屋に娘がただ1人、床に手をつき頭を垂れている。
他に、人の気配は全く感じず、部屋にもほぼ物がない。
(なるほど、それゆえあまりにも広く感じるのかもしれぬな)
妃嬪の部屋というには、あまりにも殺風景だった。
「面をあげよ」
そう言っても、蔡嬪の顔が上がることはなく、今にもその額は床につきそうなほどに下げられたままであった。
「聞こえぬのか、面をあげよ」
「ご、ご容赦ください……」
震えるか細い声だけが返った。
見れば娘は昼間見た姿のままであった。そのままではさぞ動きづらいであろうに、着替えてはいなかった。
「先触れは出してあっただろう、聞いておらぬのか?」
そう問えば、娘はびくっと肩を震わせた。
「侍女はどこにおる」
「お、おりません……」
娘はただ、かたかたと震えている。
「丞相の娘が、侍女も連れずに参ったのか」
「あ、あとから、あとから参ります、ので……」
重華の父は、当然ながら重華に侍女などつけてはくれなかった。だが、鈴麗には違うはずだ、鈴麗と入れ替わる際には、きっとたくさんの侍女がともに宮に入ることになるだろう。
「今は誰もおらぬと?」
「も、申し訳ございません……」
侍女を1人も連れず入宮した妃嬪など、はじめてであった。
身分の低い宮女を召し上げる際にはそのようなこともあるが、国の要職につく者の娘が輿入れをする際にはまずありえないことだ。
(まあ、ちょうどいいかもしれぬな)
驚くべきことではあったが、晧月にとってはむしろ都合がよかった。
「侍女がいないのであれば、朕の侍女を仕わせよう」
「め、め、滅相もございません……っ」
とうとう娘の頭は床へと擦りつけられたな、と晧月は思った。
侍女を仕わすのは、晧月にとっていわば監視のためでもあったが、娘は思い至っていないようだ。
それとも、監視などされぬために断ろうとしているのか、晧月には読めなかった。
(つくづく想定外な娘だ)
晧月は深くため息をついた。その吐き出される息の音にさえ、娘はびくついている。
(このような娘に謀ができるとは思えぬが……)
しかし、相手は丞相の娘、警戒するに越したことはない。それにそうでなくても、妃嬪に侍女は必要である。
「
「いえ、そんな、私は……っ」
ぱさり、と娘の頭を覆っていた布が取れ、娘の髪が顕わになる。次いで、ようやく娘の顔が上がった。
(美しい瞳だな)
それが晧月が重華を見て、はじめて抱いた感想だった。
「この者たちは、武芸にも秀でておる。朕が最も信頼を置く侍女たちだ、何も心配はいらぬ」
晧月の少し後ろで、春燕と雪梅が静かに一礼をした。
春燕と雪梅とはその昔、晧月とともに武芸を学んだ、晧月にとっては幼馴染のような存在だった。
だからこそ晧月にとって、誰よりも信頼ができ、誰よりも晧月を裏切る心配のない侍女たちだ。
監視として蔡嬪のそばに置くものとして、これ以上の選択はありえないだろう。この2人ならば、丞相からどれほどの金を積まれようと晧月の信を裏切ることはありえない。
もっとも、そういう意味での心配はいらぬ、だとは重華は夢にも思ってはいないだろうが。
(また、顔下げるのか)
娘は、すぐに慌てたように顔をさげてしまっていた。晧月はその所為で瞳が見えなくなったことが、残念に思えた。
「いつまでもそのように床に座っていては、身体も冷えよう」
晧月は娘を立たせようと思い、近づいた。そして、娘の手を取り、違和感を覚える。
それは、妃嬪の手とは思えぬほど荒れ果て傷だらけであった。
(これならば、まだ、後宮の侍女たちの方が余程ましな手をしているだろう)
晧月は娘と視線をあわせるよう、床に膝をついた。そして娘の顎に手をかけ、顔をあげさせる。
(やはり、きれいな瞳だな)
最初に晧月の目を惹いたのは、やはり美しいと感じる瞳だった。だが、よくよく見れば化粧では隠しきれていない、痩せた頬と青白い顔が気になった。
丞相の娘が、果たしてこのような身なりで輿入れなどあり得るのだろうか……
「そなた、本当に丞相の娘か?」
晧月の鋭い視線が、重華を射貫いた。