私は猫である。名前はない。というのも、名前を持つ猫はヒトから飼われているやつに限定される。自由気ままな野良猫である私には、名前というものはない。私にあるのは、名前とは少し違う便宜上の呼び名くらいだろうか。
「彼女の名前はなんだろうか」
ぽつりと一匹ごとを呟く。誰に対して言ったわけではなかったが、返事がないことに少しばかり寂しさを感じた。
私が焦がれてやまない“彼女”は、この街にある煉瓦造りのアパートに住んでいる白い猫のことである。そこの最上階に住む彼女はいつも窓辺に座って外を眺めているのだ。来る日も来る日も。雨の日も、晴れの日も、嵐の日も。美しい透き通った青い瞳に外の景色を映し出す。
初めて彼女を知ったのは、私がまだ一歳を迎えていない頃だった。母猫から離れて一匹で暮らし始めた頃だった。何もかもが不安で、目に映るもの全てが恐ろしく感じていた。
そんなとき、私は出会ったのだ。月光に照らされ、白い毛並みを銀色に輝かせる彼女に。私は息をのんだ。なんたって外の世界は全て怖いと思っていたからだ。守ってくれる存在から離れて、自分の意思で生きていくのは自由ではあるが、代償も大きい。一歩間違えれば死に繋がるからである。
食事にありつけるのはいつになるか分からない。ヒトが動かす大きな鉄の塊に撥ねられてしまうかもしれない。ヒトに殺されるかもしれない。
弱い存在は淘汰されていく自然の摂理。どれほど残酷なものか。世界そのものに、昼も夜も満足に眠れぬほど怯えていた私が、どれだけ“彼女”の存在に救われたか。
世界にこれほどまで美しいものが存在している事実に——。
私はただ息を吞むことしかできなかった。
彼女を知ってから、私はアパートの前で背を伸ばす木の上で、窓を見上げることが日課となった。彼女は瞬きをせず、じっと、ひたすらじっと外を見ていた。
猫である私の身体能力をもってしても、彼女が居る窓辺に近付くことは叶わない。話すことは出来なくても、せめて見ていたいと思った。
真っ黒な毛で覆われた私をヒトは不吉な存在だと嫌悪する。真っ白な君は嫌われ者の私とは違って人気猫なのだろうか。幸運の証だとヒトから愛されるのだろうか。
やっぱり私の前足が届かない場所に君はいるのだろうか。
時折、ちょっかいをかけてくるカラスを追い払いながら今日も彼女を見つめる。
「やあ、ナナシ」
今日は珍しく私に来客があった。
「やあ、サバ」
サバは私と同じ野良猫である。薄い茶色の、鰹節のような毛色に縞模様が走る彼は、野良猫仲間からサバと呼ばれていた。理由はヒトがくれる食事でサバの缶詰が出た時だけ「サバァ~、サバァ~」と鳴くからである。本猫曰く、サバが好きすぎて声が出るらしい。
彼は気性の良い猫で、他の猫と関わりたがらない私にも分け隔てなく接してくれる。サバは名前のない私をナナシと呼んだ。
「お前は今日もここにいるのか」
「もちろんだとも。ここが私の家でもあるからな」
「窓辺の“彼女”が見えるからってか?」
サバはぺろりと舌先で鼻を舐めた。彼の口から魚の匂いが漂う。どこかでヒトから食事を与えてもらったのだろうか。
「ところでナナシ。お前はメシ食えたのか?」
「今日は食べていない」
私は腹の虫が動くのを感じた。虫はぐうぅっと低く唸った。
「だろうな。お前の為に少し残してきたんだ。ついてこいよ、案内してやる」
サバは器用に枝の上で方向を変えると、するすると降りていった。
「ありがとう」
彼の背中に感謝の言葉を投げかけた。私は爪を木に引っ掛けながら彼についていく。ふとアパートを見上げると、窓辺には相変わらず彼女がいた。
サバが残してくれた食事を有難くもらい、私はまた木に戻ってきた。
今宵は満月である。彼女の美しい毛並みがより美しくなる日であった。いつものように、彼女は窓辺に座って夜空を眺めているだろう。そう思いながら見上げると——。
「いない」
彼女は居なかった。窓辺には誰もおらず、白いレースのカーテンが閉められて中の様子は窺えない。私は舌をしまうのも忘れて、呆然と見上げた。彼女はどこに? 頭の中を占めるのは、白い彼女のことだけ。私は無意識のうちに木から降りて、夜の道をひたすら走った。夜の冷たい空気が私の肺へと入っていく。
その日から彼女は窓辺に現れなかった。私はいつも以上にやる気を失ってしまい、自堕落な毎日を過ごしていた。ちょっかいをかけにくるカラスも、やり返さない私をつまらないというように見つめている。私は尻尾をゆらゆらと揺らしながら、ただ時間が過ぎていくのを待った。
「おい、ナナシ」
「サバか」
「大丈夫か?」
「見たら分かるだろう」
私がそう答えるとサバは何か言いたげに口をぱくぱくさせた。やがて唸るように声を出す。
「ナナシ、窓辺の彼女のことだけどさ」
「ああ」
「どう思ってる? 異性として好きなのか?」
サバの言葉に私の脳は動いた。
好き? メスとして? それは違うと思った。私はただ美しい彼女を見ているだけで幸せなのだ。別に話せなくても良い、触れられなくて良い。彼女がそこに居て、私は彼女を見る。それだけで私は幸せになる。ただ、それだけで私の心は救われるのだ。
「ああ、私は彼女が好きだよ。でもそれは異性としてじゃない。存在そのものが好きなんだ。恐怖しかないと思っていたこの世界を少しだけ好きにさせてくれたから」
私の答えを聞くと、サバは「そうか」と答えた。
「なら大丈夫だな」
「何が大丈夫なんだ?」
「お前に彼女の秘密を話そうと思って」
私は体を起こした。むくりと起き上がった私に頭上にいるカラスが少し驚いたようで、枝で足踏みをする。
「彼女の秘密って?」
「ああ、お前が焦がれている白猫の彼女はな——ぬいぐるみなんだ」
「ぬいぐるみ?」
「そうさ。生きてなんかいないんだ。お前はぬいぐるみに焦がれているんだ」
サバは私の目を真っすぐ見る。彼の瞳からはどんな感情を抱いているのか、はかることは出来なかった。
私は彼女が居た窓辺を見上げた。今日もそこにはいない。
「……彼女がぬいぐるみで生きてなど居なくても、私の心は確かに救われたんだ。焦がれたことは変わらない事実だ。ぬいぐるみでも良い、私はもう一度彼女を見たいんだ」
昼下がりの温かい空気が私達の周りを囲む。ふとサバが驚いたように、ただでさえ丸い目を丸くする。
「おい、ナナシ! 後ろ!」
叫ぶようなサバの声に弾かれるようにして後ろを振り返った。
彼女が居た窓辺のカーテンが開いている。年老いたヒトのメスが大事そうに抱えていた白い猫を窓辺に置く。微動だにしない“それ”は紛れもなく、私が焦がれた彼女だった。
「あぁ……良かった」
私の心が温かく潤っていくのを感じていた。
隣でサバが面白そうに話す。
「彼女の毛並み、前に比べてもっとふわふわになったんじゃないか? きっと洗われていたんだよ」
サバの言う通り、白い彼女の毛並みはさらに白くなっていた。陽光に照らされ、まばゆいほど輝く毛並みをヒトは愛おしそうに撫でている。
私は猫である。白い彼女はぬいぐるみだ。
「おかえり」
窓辺に座って青い瞳に空を映し出す君に、今日も私は焦がれている。