目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
花が咲く、君が泣く
花が咲く、君が泣く
白井
BL現代BL
2025年03月17日
公開日
3.6万字
完結済
君を愛したことは数奇な運命なのだろうか

道楽息子が女の子のいる飲み屋で出会った男はとても真面目な青年。彼とは初対面だが、話が進むにつれて意外な関係性の絡みが見えてくる。

花が咲く、君が泣く


「おれをころしてくれ」

 そう云ったら、

「ころしてやるものか」

 彼はそう云って鼻で笑った。




 一章


「ちょっと、待ってよさっきの女何よ」

 唐突に背後から腕を引かれて足を止める。

「……誰、お前」

「な……っ、誰って、三日前に社交喫茶で……」

 そこまで云われてあぁ、と顎先を上げる。

「さっきの女、貴方にあんなに枝垂れかかって……っ何なのよっ」   

「何って、お前と同じだけど?」 

「あたしと同じって……」 

「一晩寝たら終わりって意味」

 ここまで云わないと判らない?

 眇めた目で斜め下の頭を見下ろしたら、三日前に寝た女はわなわなと唇を震わせた。

「酷い! 好きって云った癖に!」 

 ヒステリックな声に耳を塞ぎたくなる。

「三日前のお前のことは確かに好きだったかも知れない」

 でもそれは三日前の話で、今の俺はもうお前のことは覚えてなかった。 

「もうお前に用ないから」

 じゃあと背を向け早足にその場を立ち去る。

 さっき寝た女の香水の匂いがキツくて早く落としたかったからだ。

「恨んでやるから……!」

「どーぞお好きに」

 女に聞こえない声量で呟いて、俺は肩を揺らしながら帰路を辿った。

 大体、社交喫茶なんて場所で出会って勝手に惚れてくるのが悪い。

 女は娼婦ばかりの中に混じって男と酒を飲むんだから、そこからの交わりには刹那の関係しかないことを承知していて欲しいものだ。


「相変わらず放蕩三昧とは呆れたな」 

 家に帰るなり玄関口に立っていた祖父に睨まれチッと口の中で舌を打つ。

「春宮家の跡取りとしての自覚はないのか」

「それは早逝した父上に仰って頂きたいですね」

 目の前に居るのは父方の祖父。

 俺の父親は俺が物心つく前に死んだらしい。何でかは知らない。興味もない。

 ただ、父親は一人息子だったから、後の春宮家の跡取りだった筈で。だからそのお鉢が俺に回ってきているという至極迷惑な話。

「あらぬ噂を立てられるような真似は止せ」

 そんなに女の匂いをさせおって、恥を知れと罵られる。

「あらぬ噂を信じる人間が愚かなんですよ」

 いけしゃあしゃあ。これは先程道で困っていたお嬢さんのものですとしらばっくれる。

 本当のところ密やかに囁かれている噂ーー俺が女を取っ替え引っ替えしているというものだーーは事実だけれども。この老年を黙らせるにはこれくらいの嘘だって吐かなければやっていられない。

「とにかく、お前ももう十八だ。結婚したって早くない」

「俺はまだ半人前ですよ。家庭を持つ甲斐性などありません」

「つべこべ云うな。当主である私に逆らえる立場だと思っているのか」

 嗚呼鬱陶しい。

 好きで跡取りなどになった訳ではないのに。

 父が早逝しなければ弟の一人や二人作ってもらって俺は家督をさっさと譲ってやったものを。

「婚約者を決めた」

「だから俺は、」 

「育てられた恩はないのか」 

 それを持ち出すのは狡い。

 別に育ててくれと頼んだ訳ではないのに。

 勝手に次期当主として育てておいて何が恩だ。

 それこそ恩着せがましいとしか云いようがない。

「由緒正しい武家華族の令嬢だ。代々女は看護に携わっている。春宮家の嫁としては申し分ない」 

 嗚呼ゞゞそうですか。それはそれは大層なことで。 

 大きな溜息と共に肩を竦める。

 まぁ俺の女癖の悪さを知れば向こうから勝手に身を引くだろう。

 そう思いながら靴を脱いで板の間に足を乗せる。

「写真は」

 好みでなければすぐに捨ててやろう。そんな算段で祖父が先行く足跡を緩慢に追った。

「この方だ」

 アフォガニーの広い机に広げられた見合い写真。

 赤い振袖を纏った少女は十四、五か。ぱっちりとした目の愛くるしい顔をした女だった。

 普段相手にしている女とは随分と毛色が違う。

 如何にも純粋そうな少女を見て、俺の第一印象は面倒臭そうだな、の一言。

 純粋な女程面倒臭いものはない。

 場末の女の方が一夜限りの関係を承知していて気が楽だ。

 ……さっきの女は少し勝手が違ったが。

 しかし……。この写真の女は少しだけ俺の気を惹いた。

 普段は選ぶことのない小動物のような顔は実際には割と好みで。

 結い上げた髪の毛が大袈裟な所為もあるかも知れないが、顔は小さく首は細く長い。色白で、振袖を着ていても華奢だと想像出来る身体付きはまだ幼いからだろうか?

 屈託のない笑みは俺の胸を揺らがせた。

 つぶらな……だけど芯の強さを感じさせる瞳が真っ直ぐに俺を見詰めてくる。 

 込み上げたのは、征服欲か。

「良いでしょう。正式にお受けします」

「ふん、最初からそう頷いていれば良かったのだ」 

 両開きだった写真の台紙を閉じて、祖父は二日後の昼だとだけ云い、俺に背を向ける。

「畏まりました」 

 慇懃無礼に会釈をして、俺は祖父の部屋を出た。

 風呂に入って女の香りを洗い流し、ベッドに横になる。

 俺の名は春宮貴裕。先の通り、年は十八を迎える。

 両親は居ない。父は物心つく前に。母は俺が十一の時に亡くなった。

 故に母親が亡くなってから俺を育ててくれたのは父方の祖父母。

 春宮家は公家華族の中でも上流階級で、祖父は実業家。

 祖父は厳しいが、祖母は俺に甘く、金を強請れば祖父に内緒で少しずつでも小遣いをくれた。

 だから俺は放蕩三昧をしていても金に困ることはない。

 ついでに自分で云うのも何だが顔の偏差値も程々悪くない。

 十二と半分の時から覚えた女遊びは年々エスカレートしていて、遊び仲間の中ではここ数年きっての漁色家と揶揄される程。

 まぁ、その渾名も嫌いではないが。

「婚約者、ねぇ……」  

 そんなもので俺を縛れるとでも思っているのか。

 俺は家を継ぐことなんてこれっぽっちも考えていない。

 あぁでもあれか。婚約者と一子でも作って仕舞えばそちらに家督を譲るというのも手かも知れない。

 早逝した父のようにふらりと消えて仕舞えば祖父もそのようにするしかあるまい。

「悪い案じゃ、ないかな」

 くすくすと肩を揺らして、俺は布団に潜るとそのまま眠りの淵に立った。

 翌二日後。形式ばかりの見合いが行われた。

 堅っ苦しい紋付袴に着替えさせられ、連れて行かれた料亭の一室には既にくだんの女。

 纏わり付くような香水を付けていない女と対峙するのはいつ振りか。

 清楚な香りのする女は矢張り少女と形容するに相応しい。

 しずしずと腰を落とし、食事をしながら仲人の伯母が振る話に答えていく。

 すゞ音と名乗った少女は名前に相応しく鈴の音のような声で喋った。

 耳障りではない。

 どちらかというと、風鈴の音を聞いているような、どこか心の落ち着く声音だった。

「後はお若い方同士で……」 

 その声で大人たちが部屋から出て行く。

 俺とすゞ音は暫く黙ったまま茶を啜り……先に口を開いたのはすゞ音の方だった。

「少し、お外に出ませんか?」

 断る理由もなく、縁側に用意されていた下駄を履き、肩を並べて庭園を歩く。

 頭ひとつ違う背丈。視線を下に遣ればすゞ音の大きく開いた頸が見えて、我知らず唾を飲む。

「貴裕さんは、わたしなどでい良いのでしょうか?」

「など、とは?」 

 猫を幾重にも被って問う。

「わたしのような小娘で、本当に良いのか、と」

 ほう、どうやら分別はあるようだ。賢い女は嫌いじゃない。

「逆に訊きましょうか。貴女は本当に俺で良いのか、と」

 見上げてくる大きな目を真っ直ぐに見詰めれば、彼女は年に似つかわしくない一笑の後、良いも悪いもありませんと小さな池に視線を遣った。

「女は道具と変わりありません」 

 その言葉は余りにも小さ過ぎて、俺の鼓膜を打つまでに至らなかった。

「写真を拝見して、素敵な方だなと思いました」 

「はは、いつの写真だろうね」

 ここ最近写真を撮られた記憶はない。少なくとも、一、二年前。

「今よりもう少し幼く見えましたね」 

 だから、今日お会いして、その端正なお顔立ちに少しだけびっくりしてしまいました、と小さく笑うすゞ音。

「なぁすゞ音?」 

 躊躇いもなく呼び捨てる。

「何でしょう、貴裕さん?」

 それに違和を覚える女ではないらしい。

「俺はそんなに良い男じゃないよ」 

「それは貴方の主観であり、わたしにとって貴裕さんが良い方か悪い方かを決めるのはわたしです」

 ふぅん、中々芯のある女じゃないか。

「このお話は、好きだ、とか。嫌い、だとか。そういった感情の定める関係ではないとわたしは思っています」

「つまり?」 

「生意気に聞こえるかも知れませんが、今のわたしは道具も同然です」

 成る程、理解の良い女だ。

「ですから、貴方に愛情というものを感じるのはこの先わたしたちの関わり方によると思っています」

「そう……」

 じゃあ、とすゞ音の顎を捉えて唇を重ねる。

「少しずつお互いを知って行かないとね」

 にこりと微笑んだら、すゞ音は頬を林檎色に染めて俯いた。

 そうして縁談は決まり、俺とすゞ音の住まいは春宮家の離れに構えることになった。

 盛大に行われた結婚式の晩、俺は早速すゞ音を抱いた。

 予想通り処女だったすゞ音はしかし抵抗も弱く俺を受け入れ、情事の後、彼女は俺に寄り添うようにぴたりと肌をくっつけてきた。

「交わるというのはこういうことなのですね……」

「そうだよ。幻滅した?」

「いいえ。ただ、」 

「……ただ?」 

「何でもありません。すゞ音は眠くなってしまいました……このまま休んでも良いでしょうか?」

「……あぁ、疲れただろうし寝れば良いよ」

 こんな優しい台詞が自分の口から飛び出るなんて嘘のようだ。

 どうしてだろう。すゞ音には、少しだけ。ほんの少しだけ、他の女より大切に扱ってやりたいと思った。


 ✳︎〜✳︎〜✳︎


「ねぇおにいさま、わたしは大きくなったらおにいさまのおよめさんになるわ!」 

「っはは、そんなことを云って、どうせ大きくなったらもっと良い男を見付けてお嫁に行くんだ」

「そんなことないわ! わたしにとっての王子様はーーおにいさまだけだもの!」

「絵本の見過ぎだよーー。俺より良い男はたくさん居る。それに俺たちは……」

 明るい金茶色が風に揺れ、その先の言葉も風に乗って彼方へと飛んで行ってしまった。


 ✳︎〜✳︎〜✳︎


「おはようすゞ音」

 すゞ音と婚姻の契りを結んでから一ヶ月。俺はよくまあ飽きもせずすゞ音との生活を送っていた。

「おはようございます貴裕さん」 

 今朝食を並べますから少しお待ち下さいね。

 そう云いながら卓に小鉢を並べていくすゞ音。 

「すゞ音、何か良いことでもあった?」

「え、どうしてですか?」

「いつもに増して笑顔が明るい」

 トントンと自分の頬を人差し指で叩いて見せたら、すゞ音はお盆で顔の下半分を隠した。

「……きっと、貴裕さんの顔を毎日見られることが嬉しくなってきたんです」 

 ふふ、と吐息を揺らしたすゞ音を、俺は席を立ち抱き竦めると荒っぽく口付けた。

 女遊びを辞めて、一応在籍していた高等学校にそこそこ真面目に通い、祖父から帝王学を学んで。一見マトモになったような俺だったけれど、結局そんな堅苦しい生活にはそう馴染めるものではなかった。

 正直に云って、勉強にもすゞ音の相手にも飽きたのだ。大切にしたい、だなんてとんだまやかし。

 三ヶ月もしたら独学で学びますと祖父からの教えを断ち切り、高等学校にも留年しない程度に顔を出して、半年後にはそれまで仲の良かった友人たちの輪に再び溶け込んだ。

「結婚なんて馬鹿なことして遂に漁色家も血迷ったかなんて噂してたんだぜ」

「冗談。実際結婚なんて馬鹿馬鹿しいよ。一人の女に縛られてるなんて苦痛でしかない」

「ま、結局大実業家に生まれた春宮は俺らと同類ってことで」

「好きであの家で育った訳じゃねーし」 

「んじゃ、ま、景気付けにいっちょ女漁りに行きますか」

 悪友の声に賛成の意が重なり、俺たちは夕方から社交喫茶に足を運んだ。

 久々に踏み込んだ社交喫茶のアンダーグラウンドな空気が心地好い。

 やっぱり俺は清楚で一途な女をただ一人相手にしているよりも、尻の軽い娼婦を相手にする方が余程性に合っているようだ。

 日増しすゞ音が俺のことを本気で好いてきていることには気付いていた。

 だから余計に面倒臭くなった。

 惚れられるのは構わないが、 縛られるのは性分ではないのだ。

 社交喫茶に入ったら後は自由行動が俺らの暗黙の了解。

 酒を舐めつつフロアを見回していたら、ふと目に入ったのは間接照明に照らされて蜂蜜色に煌めく金茶髪。

 珍しい。欧米人とのハーフか何かだろうか?

 こちらに背を向けている為顔は見えないが、羽織っているのは男物のジャケット。

 遠目から見てもやや遠慮がちな仕草に、慣れていないのかななどとどうでも良いことを思う。

「ホント、どうでも良いな……」

 俺が興味あるのは女だけだ。

 一夜を楽しませてくれるだけの女。

 少しして、隣に女が滑り込んできた。

「ね、お兄さん、独りぼっちで寂しくないの?」 

「ん? 今君が来てくれたから寂しくなくなった」

 甘い台詞がよくもまぁこんなにペラペラと口から零れてくるものだ。

「二枚でどーお?」

「そんなに満足させられないと思うから一枚にしてよ」

 枚数の意味など今更説明する必要もないだろう。

「じゃあ、一枚と半分」

「半分の半分」

 値段交渉は俺の勝ち。

 俺は残っていた酒を飲み干して女の腰に腕を回して社交喫茶を出た。

 耳障りな嬌声。

 纏わり付く粘膜。

 滴る汗と迸る熱。

 荒々しく女を抱いて、久々に満たされた気がした。

 どうしてか、すゞ音にはそう出来なかったから。

「満足させらんないなんて、嘘ばっか」 

「そう?」 

「こんなに悦い思いが出来るんだったら今度は一枚にしてあげる」  

 首に絡みつく腕を素気無く解いて床に散らかした抜け殻を拾った。

「また会えたらね」  

「探すわ」 

「追われるより追う方が好きなんだ」

「案外冷たいのね」

「俺に限ったことじゃないだろ?」     

 くつくつと喉を鳴らしたら、女は「まぁね」と長い髪を掻き上げた。

 じゃあな、とも云わずに外へ出て服の袖に鼻を寄せる。

「くっさ……」     

 甘ったるい香水の匂いが染み付いている。

 こんなシャツを着て帰ったら、すゞ音はどんな顔をするだろう。

 幻滅するだろうか?

 否、されたい、と願っているのではないだろうか?

 あの、どこまでも純粋な笑顔が歪む様が見たい。

 嫌悪されたい。

 縛られているのが嫌なのだ。

 嗚呼やっぱり結婚なんてするんじゃなかった。

 子供が出来る様子もないし。

 嫌だ嫌だ。何もかも捨ててしまいたい。いっそすゞ音が俺に愛想を尽かしてくれたら良いのに。

 その願いは無残にも打ち砕かれるのだけれど。

 女の匂いをさせながら帰ったのはもう朝も近い時間。

 ガラリと引き戸を開けたら玄関口にすゞ音が正座していた。

「遅いお帰りでしたね」 

「あぁ、久し振りに誘われて」

「ご学友とでしたら仕方ありませんね」

 お兄様もぼやいてらっしゃいましたわ、なんて言ちるすゞ音に、お兄様? と目を眇める。

「従兄弟のお兄様です」

「ふぅん」       

 興味も薄く頷いてシャツのボタンを外していく。

「風呂、入れる?」

「すぐに沸かします」

 身軽な足取りで外へ駆けていくすゞ音を見送って、俺は風呂場に赴いた。

「お兄様、ねぇ……」

 すゞ音が口にしたその単語にはどこか特別な響きが重なっていたような気がして。

 すゞ音一人に縛られているのが嫌な癖に、俺以外にすゞ音が特別だと思う奴が居るのだとしたらそれはそれで気に食わないものがあった。

 風呂から上がって朝飯に手も付けずベッドに潜り込む。

「貴裕さん、高等学校は?」

「休講」         

「そうですか」  

 ゆっくりお休みになって下さいね。

 そんな気遣いが逆に煩わしいんだと、彼女が気付くのはいつだろう。

 結婚して早十月。

 相変わらず交わっても子が出来る訳でもなく、俺はいよいよ外に出ることが多くなった。

 頭ごなしに祖父に怒鳴られることがなかったのは、ちゃんと大学には受かっていたからだ。

 行く気はないが、祖父を程々に黙らせる理由にはなった。

 この頃にはもうすゞ音は完全に俺に落ちていた。

 気紛れにする夫婦ごっこ(少なくとも俺にとってはごっこ遊びだった)でも彼女の気を惹くには充分だったらしい。

 すゞ音の啼く声は金管楽器のようで。絡み付く腕はしなやかかつ陶器のようで。

 匂い立つ汗の香りさえ石鹸の匂いがした。

 いつまでも汚れないすゞ音が嫌だった。

 俺に相応しくないと思った。

 俺みたいに薄汚れた人間はすゞ音のように清らかな人間の傍に居るべきじゃない。

 初めこそ面白半分で抱いていた身体にももうとうに飽きていた。

 俺なんか見限ってさっさと実家に帰れば良い。

 何せすゞ音はまだ若い。

 他にもっと良い男が居る筈だ。

 そう考える俺は善人なのか悪人なのか。

「貴裕さん」      

 花の咲くような笑みを向けられると苛々が止まらなくなって、俺はある日ひとつの賭けに出た。

 すゞ音が買い物に行く時間は決まっている。

 その時間を見計らって家に売女を呼び込んだ。

 すゞ音とは真逆をいく性質の女を。

 いつもすゞ音と二人で寝るベッドに女を組み敷いて激しく貪った。

 先に頼んでおいたよう、女には大袈裟な声を上げさせて。

 カタン、と戸が開く音。

 靴を見たのだろう。

「貴裕さん? ご友人とご一緒ですか?」

 なんて何も知らない無垢な声。

 俺は、はっ、と息を吸ってから一層激しく女に食らい付いた。

 流石に異変に気付いたのだろう、パタパタと逸る足音。

「貴裕さん?」     

 カチャリ、と開いた戸から覗いたすゞ音と肩越しに視線を交えて俺は不敵に笑んだ。

 直後、バタン! と勢い良く閉まった扉。

 あっあ、と吐息を啼かせていた女が髪を掻き上げながら俺を見上げた。

「これでいーわけ?」  

「上等」       

 こっから先は普通に楽しもうぜと小さく笑って、俺は最後まで女との交わりを愉しんだ。

 情事を終え、女を家から放り出して勝手口に行く。

 その隅で膝を抱えて耳を塞いでいたすゞ音の腕を引いて立たせる。

「ねぇ、俺のどこが好きだったの」

 嘲笑混じりに問う。

「それは……」 

「俺がこんなことする奴だって知って、幻滅した? したでしょ、ねえ?」  

「…………」 

「俺、誰かに一筋になるとか無理なんだよね」

「貴裕さ……」

「俺は一生お前だけのモノにはならないよ」

 口の片端を上げて云う。

「そもそも家庭を持つだなんて真似はガラじゃないんだよ」  

 嘲ったのはすゞ音をか、自分をか。

「親が決めた結婚なんて下らないと思わないの」

 黒曜石を見詰めたら、すゞ音は掠れるような声で答えた。

「……女の人生は、そのようなものです……」 

 馬鹿馬鹿しいと思った。

 何が女の人生は、だ。

 そんなことが云えるのは純粋培養されてきた人間だけが云える台詞だ。

 歪んだ愛情で育てられた人間は人生に男も女もない。

「なぁ、俺なんか捨てて看護婦になりなよ」 

「でも……」   

「俺はこれから何度だってあの部屋に女を連れ込むよ」 

 それで、俺とお前はその情事で汚れた布団で肩を並べるんだ。

 何ていう悪夢だと思う?

 キシキシと金属が擦れるような声で笑って俺はすゞ音の腕を放った。

「今ならまだ間に合うよ。よく考えな」     

 それは俺なりの優しさだった。

 それから三日。無言で俺の世話をし続けたすゞ音は、四日目、俺が社交喫茶で遊んでいる間に青酸カリの過剰摂取で死んだ。

 最期に着ていたのは唯一俺が進んで見立ててやった萌黄色の小袖だった。


 鯨幕が目に痛い。

 すゞ音の遺書には一言。

『初めて好いた人を愛し続けたいので世を儚みます』

 ただそれだけ。

 馬鹿じゃないのかと思った。

 初めて好いた人だって?

 俺は誰かの一番になんかなりたくない。

 こんな手紙ひとつで縛ろうだなんて浅はかにも程がある。

 祖父には何があったか散々責め立てられた。

 俺は知らぬ存ぜぬを繰り返すしかなかった。

 喪主として最後の参列客を見送ってから、一人鯨幕をただ眺めるでもなく眺める。

 風で時折膨らむ白と黒。

 そうだ。人生は白と黒しかない。すゞ音は白い世界で、俺は黒い世界で生きる人間なのだ。

 鯨幕のように、その白と黒が混じることはない。

「人殺し、になったのかな」

 すゞ音が死んだのは確かに俺の所為で間違いないだろうから。

 俺は人を殺した咎人だ。

 唇に薄ら笑い。

 女狂いに人殺し。

 何ていう様だ。

「っはは、」 

 悲しい訳でも、辛い訳でもなかったけれど、どうしてだろう。視界が僅かに揺らいだ。




 二章


「ねぇ裕正さん、愛してるわ……」

 ねっとりと絡み付く甘い声が鼓膜を揺らす。

「裕正さんも、同じでしょう?」

「…………」  

「愛してるの。ずっと、ずぅっと……」 

「か、」 

「名前を呼んで?」

「……さ、やか……」

「そう……貴方はいつでもそう呼んでわたしの手を引いてくれたわね……」

 今も昔も。甘ったれた声と一緒に細い指が頬を撫でる。

「ずっと好いていたの……小さな時から、ずっと」

「…………」 

「だから、こうして貴方の腕の中に居られるのがとっても幸せ……」

「…………」

「ね……貴方も同じでしょう?」 

「…………」 

「わたしを抱いて。貴方のその指で、わたしを奏でて……」

 脳髄を溶かすような甘い声に、吐き気がした。 


 ✳︎〜✳︎〜✳︎


「……ちっ、」

 嫌な夢を見た、と胸糞悪い気分でソファから起きる。

 低い卓に置いてあった酒瓶から直接洋酒を呷って唇を袖で拭った。

 網膜にちらつく女の影。

 鼓膜の内側で響く甘い声。

 どちらも俺の気分を最悪にするものだった。

「ここ久しく見てなかったのに……」

 その夢は悪夢。

 女の華奢な手に腕を引かれ組み敷かれる。

 長い髪の毛がはらりと両頬を擽り、モノクロームの世界で唯一鮮やかに色付いた赤が唇に落ちてくる。

 熱を育て上げられ、シーツの上に縫い止められたまま柔らかな場所へと導かれた。

 あっ、あっ、と啼く高音は酷く耳障り。

 耳を塞ぎたいのに縫い止められた手はそれを不可能にする。

 せめて眼前の乱れた顔を見たくなくて目をぎゅっと瞑った。

 高い声、濡れた音、揺れる腰。

 その感覚は呪いのように過去から現在へと繋がっていて。

「元はと云えば、あの人の所為だ……」

 俺を女狂いにさせたのは、俺の母親が原因なのだーー。

 母親は父親を大層愛していたらしい。

 それはもう、病的なまでに。

 そうと知ったのは俺が十を超えた時のこと。

 元々過保護だった母親の様子がおかしくなり始めた。

 俺を見て、母親は俺のことをたまに裕正さん、と呼ぶようになったのだ。

 父親の名前は幼い頃から母親から聞いていたから、それが誰かを問う必要はなかった。

 ただ、何故俺をそう呼ぶのかまでには考えが及ばなかったが。

 正気の時の母親は俺のことを父親の子供の頃そっくりだと繰り返していた。

 母親の家は春宮家と古くから縁があったらしく、幼い頃から母親と父親は面識があったそうだ。

 二人は兄妹のような関係から恋仲に発展し、そのまま結婚に至ったようだが、父親が早逝し、母親は少しずつ頭の中の歯車を噛み合わせ悪くしていった。

 十と一年が過ぎた頃にはもうすっかり母親はおかしくなっていてーーただ、外面は至って普通だった。俺と二人の時だけおかしくなるのだーー十二になる前に、俺は母親に強姦された。

 俺が初めて知った女は、母親だったのだ。

 強姦されている間、口を利くことはほぼ許されなかった。

 許された単語は名前と愛してるのふたつだけ。

 幾度とない強姦が続いたある日、拘束に耐え兼ねて「母さん!」と叫んだのがすべての終わりだった。

 ハッとした母親は俺を見下ろしたまま顔色をサッと悪くして、俺の名前を呟いた後よろよろとベッドを下りた。

 そのまま戸棚の中から布に包まれた小刀を取り出すと、

「裕正さんに会いに行かなくちゃ……」

 蚊の鳴くような声でそう云って、母親はそのまま頸動脈を掻き切った。

 余りのことに悲鳴も出なかった。

 ただ茫然と、崩れる母親と迸る血飛沫を見詰めていた。

 薄暗い夜闇の中、紅だけが目に痛いくらい鮮明だった。

 その後のことはよく覚えていない。気が付いたら祖父母の世話になっていた。

 嗚呼、俺はすゞ音を殺したのが初めてではなかった……。

 その前に、母親を殺していたではなかったか……。

 人殺し、だなんて、今更だったんだ。

 もう一口洋酒を呷って唇を舐める。

 安酒なんか買って飲んだから嫌な夢を見たんだ。今夜はもう少し良い酒を飲みに行こう。

 壁時計を見て、十時前なのを確認しホッとするような落胆するような。

 大学の二限には間に合ってしまう。それは自分にとって憂鬱だったが、祖父を黙らせるには問題のない時間だった。

 受かった大学に行くつもりはなかった。けれど行かなかったら何をするかと問われた時に何ひとつ案が出てこなかったから、箔付けにでもと一応進学することを決めた。

 何より、大学生という身分は質の良い女を選ぶのに丁度良かった。

 別に細かく女を格付けするつもりはないが、馬鹿な女よりは賢い女の方が良い。それでも馬鹿な女を捕まえてしまうことがあるのはこれもまた母親の所為だと思っている。

「かったる……」

 ぼやきつつ、俺は大学へ行く用意をした。

 大学では高等学校時代の友人も何人か。

 其奴らと連んで放課後には街をぶらついたり社交喫茶に赴くのが常だった。

 最近ではもう金を払わなくても抱いてくれと云い寄ってくる女が多かったから、適当にあれこれ手を出した。

 街中で引っ掛けた女たちを友人たちと割り振って、後で合流してどうだったかを評論する。

 我ながら悪趣味だなと思う。

 しかしそれが楽しいのだから仕方がない。

 そもそもあんな形で女を知らなければ、こんな風になっていなかったに違いない。

 母親の所為で女を知り、付随する仮初めの快感を知ってしまったのだから。

 その日は友人たちと散り散りになって女を引っ掛けることにした。

 煉瓦塀に背を預け、腕時計をたまに気にしながら溜息を吐いていれば、すっと射した薄い影。

「お兄さん、待ちぼうけ?」

 声を掛けてきたのは緑の黒髪を高く結った少し年上に見える女。

「ん、あぁ、そうみたいだ」

 困ったな。わざとらしく見えないように肩を竦めて見せれば、女はじゃあと笑みを浮かべた。

「そんなに待たせる人なんか放っておいてわたしと遊ばない?」

 掛かった、と内心ほくそ笑む。

「うーん、でもなぁ……」

 焦らすように言葉を渋る俺の手を、女はきゅっと握ってきた。

「実はわたしも友達に約束すっぽかされちゃったの。似た者同士、お茶でもしない?」

 嘘だな、と思ったけれど、ここはお互い様。

 一夜の相手は決まった。

「そう、だね。これも何かの縁かな? お茶しに行こうか」

 一先ずは取って置きの喫茶店にでも、と女の腰に手を回したのとほぼ同時。

「貴裕!」

「は……?」

 振り返ったら、怒気を孕んだ女ーー今出会った女よりもっと年上の女だーーがつかつかと歩み寄ってきた。

「わたしのところに全然来てくれなくなったと思ったら、何よその女!」 

「何もどうもないけど」

 そもそもお前は誰だと問うより先に相手が名乗ってくれた。

「立花の女を捨てるつもりっ?」

 あぁ、少し前に友人たちと引っ掛けた輪の中に居たお嬢か。

「そんなことしたらお父さまが黙ってなくてよ!」

「俺のことバラしたらそっちの方が困るんじゃないの?」 

「ーーっ!」

 長く垂らした髪の毛が逆立つんじゃないかと思う程怒気を放つ女は、胸元から懐刀を取り出した。

「うーわ、物騒……」 

「やだ、ちょっと何あの人……」

「アンタなんか殺してやる!」

 ありきたりな文句を吐いたかと思えば、こちらへ駆け寄ってくる女。

 危ない、とさっき捕まえたばかりの女を庇おうとすれば視界からはもう消えていて。

 逃がした魚は大きくないが小さくもない。

 不器用に飛んできた刀を手刀で振り落とす。

「邪魔しやがって、ふざけんなよ」

 手首を捻り上げて頭より上に持っていく。

「やだっ、ちょっと、痛いじゃないの!」

「煩い。身から出た錆だ、ろっ!」

 パッ、と手首を離して腹を思い切り蹴っ飛ばす。

 勢い良く向こう側へと崩れ落ちた女の体。

 かつかつと革靴を鳴らしながら女の側に寄って頬を革靴の先で叩いてやった。

「一回寝たぐらいで俺の女面してんじゃねーよ」

 長い髪の毛を引っ掴んで顔にもうひと蹴り食らわそうとしたところで、おい、と肩を掴まれた。

「あ?」

 振り返った先には頭半分下に金茶色。

「女性に暴行だなんて男として恥ずかしくないのか」

 くいと顎を上げた金茶髪の顔は女っぽいが、発せられている声は低い。何とはない既視感を覚えたが、それも一瞬。すっと現実に立ち戻る。

「こいつは刃物で襲って来たんだ。正当防衛だろ」

「だったら暴行などしないで駐在なり何なりに行けば良い」

 面倒臭い奴に捕まった、と思った。眼下の女も、眼前の男も。

「……そんな女もうどーでも良いし。善良な市民足り得るアンタが引き受けてくれんなら俺はさっさと帰るけど」

 ずるりと髪の毛を手から解いて踵を返す。

「お前、名前は」

「教える義理はない」

「顔は覚えておくからな」

「二度と会わないことを願ってるよ」 

 じゃあな、と俺は歩幅も大きくその場を立ち去った。

 嗚呼畜生、こんな話したら友人たちの笑いものだ。


 ✳︎〜✳︎〜✳︎


「お嬢さん大丈夫ですか?」

「え、えぇ、えぇ」 

「必要とあらばお宅までお送りしますが」

「いえ、結構ですわ……」

「そうですか。ああいう男には気を付けた方が良い。何をするか判らない」

「以後気を付けます……では」

 よろりと立ち上がってさっき男が歩んで行ったのとは逆方向に歩んで行く女を見て溜息。

 この辺はこんなに治安が悪かったかな……。

 そう思いながら後頭部を掻く手を不意に止める。

「……あの顔……」

 ふと懐に手を入れ、手帖を取り出す。間に挟んでいた写真には、

「…………まさか」

 その写真には、ついさっき暴行を加えていた男とそっくりな男が笑顔を浮かべていた。


  ✳︎〜✳︎〜✳︎ 


「あーくっそ!」

 余計な女の所為で新しい魚を逃した挙句変な男に絡まれてむしゃくしゃした気分の俺はいつもの社交喫茶ではなく、娼婦の居ない社交純喫茶の方に来ていた。

 もう今日は女を抱く気分じゃない。

 カウンターでウイスキーのロックを一息に呷ってカン、とグラスをカウンターに叩きつける。

「ん、だよあのチビ偉そうに」

 頭半分背の低かった男を思い出して舌を打つ。

「正義感丸出しで気に食わねぇったらない。しかも年下っぽいし」 

 見た顔は小動物を思わせる幼めだった。

 年嵩に見積もっても高等学校の学生だろう。

「……にしても、」

 あの髪色は珍しかったな……と網膜に焼き付いた色彩を思い起こす。

 夕陽を浴びて煌めいた金茶色は蜂蜜色にも見えた。

 日本人らしからぬ色に外国人か? と思うが、それにしては日本語が流暢だった。

 在日か、それともハーフか。

「ま、どーでもいーけど」

 マスター、おかわり。

 空いたグラスをカウンターの向こうに渡して、俺は新しく受け取ったウイスキーを今度はちびちびと舐めた。




 三章


 不愉快な思いをした日からひと月。

 いつものように社交喫茶で友人たちと女を侍らせていたら、やたらと羽振りの良い声が向こうの方から聞こえてきた。

 何だなんだ、と声がした方を気にするのは俺たちみたいな学生ばかり。

 大人たちは我関せずと酒に女にと溺れていた。

「どっかのお偉いさん?」

「高ぇ酒ボトルで入れてたみたいだしそーじゃね?」

「女取られんのは癪だな」

「別に今日一日ぐらい譲ったっていーだろ」

 最後の一言が俺の台詞。

 金持ち爺のお遊びに飽きたらどうせ俺らのとこに来るって。

 けたけた笑いながら手洗いに立った。

 手洗い場は男性、女性用の個室がひとつずつ。

 用を足して扉を開けたら目の前に人が居てびっくりした。

「うわっ」

「あぁ、悪い近かったな」

 半歩後ずさった低音。

 視界の下半分に見えた金茶色を見て、あ……、と口が開いた。

「……?」

 訝しんで俺を見上げてきた小柄な男も同じように口を開けた。

「お前、この前の……」

「……あん時はどーも」

 まさかこんなところで出会すとは。

 見下ろした男は、あの不愉快な一件に決定打を落とした男だったのだ。

「つーか、どーぞ」

 さっと横にずれたら、いや、と視線を逸らした彼。

「別に手洗いに用がある訳じゃないんだ」

「は……?」

「ただ、女の香水がキツくて逃げてきただけだから」

 そう云って彼は口許を軽く握った拳で隠した。

「何しに来たのアンタ」

「上官の付き合いだ」

「上官……?」

 普通の学生なら年上を先輩と呼ぶだろうに。敢えてなのか無意識なのか、上官、と呼んだ彼は……。

「アンタもしかして警察関係……」

「正しくは軍属だ」

「軍……」

「海軍の少佐がご来店だ」

 ヒュウ、と思わず口笛。

 成る程。海軍ともあろう方(嫌味だ)なら先日の正義漢振りも頷けるというもの。

「……ん、海軍……?」 

 軍には高等学校を卒業していなければ所属出来ない筈。

 況してや少佐などという地位ある人間と同席出来るなんてそこそこの立場である筈だ。

「アンタ、階級は」

「大尉だ」

「何年で」

「三年で」

 ヒュウ、とまた口笛を鳴らしてしまった。

 三年で大尉。そりゃあまたエリートコース。しかも逆算したら俺より年上じゃない? これは驚いた。

「……童顔、だと思ってるだろう?」

「え、あぁ、まぁ」

「……未だに上官にだって揶揄されるんだ。他人にどうこう云われたって今更気にしない」 

 気にしない、という割には眉間に皺が寄っている。

「それより、戻らなくて良いのか?」

 顎をしゃくられ、そっちこそ、と返す。

「俺は待ち人が多かったと云えば済む」

「それは、俺だって……」

 そう云ってから、何故俺は彼との会話を繋ごうとしているんだ? と内心首を捻った。

「ねえ、女のあしらい方、教えてあげようか?」

「今そんなくだらない講義を受けている場合じゃない」

「今日じゃなくて。今度。週末とかどう」 

 何でそんな誘いを掛けたのか自分でもよく判らない。

 ただ、彼には何か俺の気を惹くものがあった。

「今後の為になると思うけど」

「……女に恨まれるような遣り方じゃなければな」

「ちゃんと穏便に済ませる方法を教えてあげる」

 そこまで云う俺に彼は逡巡した後、少しだけなら付き合ってやらなくもない、などと上から目線で云うものだから。

「上官の前でスマートに女をあしらうってのも処世術だと思うけど?」  

 今度は嫌味ったらしく云ってやれば、彼は眦を上げて憮然と云い放った。

「土曜の夜八時に」

「了解」

 彼と再び会えることが不思議と楽しみで。

 俺はじゃあと友人たちの元に戻った。

「……何で約束したんだ、俺は……」

 さっさと友人たちの元に向かった俺だったから。

 彼が不可解そうにそう呟いたことは知らない。


 得てして週末土曜日。

 夜八時の待ち合わせに備えて七時半から社交喫茶のカウンターでブランデーを舐めていた。

 腕時計をちらちら眺めてはブランデーで舌を湿らせる。

 何だろう、この焦ったさは。

 早く来ないか、そう思うことは友人たちにも感じたことはなく、初めての感覚に脳髄が揺らいだ。

「待たせたな」

 八時ぴったり。俺の横のハイスツールに腰掛けた彼。

「バーボン。ロックで」

 すぐに提供されたロックグラスを舐める彼を見詰めて、思わず口にしたのは天邪鬼な台詞。

「本当に来るとは思わなかった」

「俺は約束は違えない。急な仕事が入らなければ、な」 

 クイ、とロックグラスを傾ける仕草は酒に慣れているそれで、嗚呼本当に俺より年上なんだな……なんてどうでも良いことを考える。

「で、何を教えてくれるって?」  

「何だっけ?」

「とぼけるな。女のあしらい方を教えると云っただろう」 

 先にとぼけたのはどちらだ、という言葉は飲み込んで、あぁそうだったとブランデーを一口。

「お前のような女慣れしている奴ならさぞあしらい方は上手いんだろうな?」

「女慣れしてるなんて云ったっけ?」

「あの後お前たちの卓で少し話をした女たちがこっちに流れてきて、聞いていないこともペラペラ喋ってくれたよ」

 お前含め連んでる奴らは皆高等学校時代から馴染みの大学生で女を取っ替え引っ替えしてるけど、店内では悪い客じゃないから追い出すこともなく居座らせているって。

「そう……」  

 事実なのに、第三者にそう云われると何でか決まり悪い気持ち。

「アンタはその話信じるの?」

「当事者の意見は受け入れるのが定石だ」

 勿論お前も当事者のひとりだからな。話すことがあるなら聞かないでもない。

 またブランデーを呷ってから、ふっと表情を硬くした彼。

「但し先日の件はどうかと思うけどな」

 それは女を暴行した日のことだろう。

「だからアレは……」

「どんな理由があれど、男が女を暴行するのは良くない」

 力差ではどうしたって女が劣る。

 優越を覚えたいのなら別の遣り方があるだろう。違うか?

 真っ直ぐな視線が痛かった。同時に煩わしいとも思った。嗚呼俺は何故コイツを誘ってしまったのだろう?

「まぁ、過ぎたこと云っても仕方ないだろ。今後は気を付けるよ」

 彼の苦言を跳ね除けるようひらひらと手を振って酒を呷る。

「それより本題に移ろうか」

 ふっと笑ってホールを見渡す。

 すると一人の女と目が合った。

 しなやかな所作でこちらへ歩いてくる女の化粧は濃い。

「お兄さんたち、お邪魔しても良いかしらん?」 

 猫撫で声に、良いよと真ん中をすこし空けてやる。

「今夜この後の予定はあるの?」

 即物的な女が捕まったな、と思いながら、うーんと小さく唸って見せる。

「二人で大事な話があってさ」

「それって今日じゃなきゃ駄目なの?」 

「そうだね。ちょっと今日は外せないかな」

 肩を竦め、その代わりにと彼女が持っていたもう空のグラスを取り上げる。

「一杯奢らせて?」

「ふふ、それなら許してあげる」

 ころころと笑って、女は「ホワイトローズを」とバーカウンターの向こうに投げた。

「へぇ、お酒強いんだ」

「程々にね」

「酒を綺麗に飲める女は好きだな」

 今度会った時は相手にしてよ。

 男に聞こえる程度の音量で囁き、女がカクテルを飲み干すのを待って、じゃあまたと適当な社交辞令で追い払った。 

「こんな感じ」

 女がすっかり遠くに行ってしまってから、カツンとロックグラスを鳴らしてやる。

「まったく参考にならない」

 堅い表情の彼にはたったこれだけでも刺激が強かったのだろうか?

「大体またって云ったら次があるだろう」

「また、を覚えてる女なんて少ないよ」

 男を捕まえられなくても、酒を奢られればその分の何割かはチップになる。

 そういう遣り方で稼ぐ女も居るしね。

「……こういう場の女の相手は面倒臭いな」

「慣れればそれなりに楽しいよ」 

「俺の性格には向いていなさそうだ」

「ふぅん、ま、お偉いさんに充てがわれちゃったら逃げる術もないだろうしね」 

 取り敢えず困ったら酒奢っておけば七割くらいはどうにかなるよと笑えば、七割とは微妙な割合だなと苦々しい声が返ってきた。

「……まぁ良い。酒を奢れば良いと判っただけ勉強になった。一杯奢ってやる」

「何それ、早速俺を追い払おうってこと?」

「そうは云ってないだろ」

「冗談だよ。アンタ意外と気が短いね」

 クスクスと笑って同じものを頼む。

「なぁ」

「何?」

「お前の名前、聞いてなかった」

「え? あぁ、春宮。春宮貴裕」

「春宮……」 

 名乗った瞬間、ほんの僅かに視線を逸らされたような気がした。

 しかしそんなことは瑣末ごと。

「アンタは?」

「……北坂。北坂紀久だ」

 きたさかのりひさ、とその名前を口の中で転がしてから、新しく提供されたグラスに口を付ける。

「今日ご馳走になった分、今度は俺に出させてよ」

「今夜のは勉強代だ」 

「じゃあ云い方を変えようか。海軍将校様の話が聞いてみたい」           

 茶化すように云えば、彼は渋い顔をしたから断られるかな、と思ったけれど。

「大して面白い話はないぞ」  

 そう云って、案に次も会わないでもないと匂わせてきた。

「但しこういった場では勘弁して欲しいものだな」「じゃあ純喫茶なら良い?」 

「少なくとも此処よりは」 

「なら、来週末の同じ時間に燕四条の喫茶でどう」「判った」  

 コトン、と空になったグラスをカウンターに置いて、北坂はハイスツールから降りた。

「今日はどーも」

 グラスの横に硬貨を何枚か並べた彼は、後ろ手に手をひらひらさせながらそこかしこに居る女の間をすいすいと躱して店を出て行った。

「北坂紀久、か……」

 どことない既視感は何故だろう。

 それをハッキリさせたくて次の約束を取り付けてしまった。

 何がどう引っ掛かっているのだろう?

 それが判るのはもう少し先の話。




 四章


 北坂紀久という男は単純明快、だけど気持ちの良い男だった。

 彼が翳す正義感にはうんざりするが、喜怒哀楽がハッキリしている分感情が読みやすく扱いも簡単だった。

 大人の男を手の平で転がしているような感覚は俺を優越感に浸らせるには充分。

 まぁそれを度外視しても北坂とぽつぽつ交わす会話はそこそこ楽しめるのだけれど。

 再会を約束した燕四条の社交純喫茶は落ち着いた、密談なんかにももってこいの店。

 薄暗い間接照明は北坂の金茶色の髪の毛を甘い蜂蜜色に見せていた。

「軍って厳しいの?」

「そりゃあな」

「嫌にならないの?」

「別に……規律とか、手本に習倣えば良いだけの話だし」

「息が詰まりそう」 

「慣れればそうでもないけど」

 カラン、グラスの中の氷を鳴らす北坂。

「北坂の話聞いてる限り、北坂って自分の正義感で身を滅ぼしそう」

「女に溺れて夜道に背後から刺されそうな奴に云われたくはないね」

 嫌味を投げたら嫌味が返ってきてすこしむすっとする。

「いっそ刺し殺して欲しいよ」

「……は?」 

「俺なんか、早く死ねば良いんだ」

 だって俺は間接的な犯罪者だ。

 裁かれるべきことをして裁かれずに生きているのだから。

 いつ殺されても文句は云えないし、云う気もない。

「自分の命を大切にしない奴は嫌いだな」  

「別に北坂に好かれようなんて思ってないから問題ないよ」

 クスクスと肩を揺らしてロックのウイスキーをひと息に呷った。

 結局その日も既視感の謎は解けないまま。

「ねぇ北坂、次……」   

「春宮」          

「ん……?」

「感情的になった人間は怖い」

「……だから?」     

「だから、本当に刺されないように気を付けた方が良いぞ」 

「……ご忠告どーも」  

 これまた出たよ、正義漢面。

 こういうところ、嫌いだな。

 次の約束は取り付けなくても良いや。

 どうせ同じ町に居たらその内どこかの飲み屋で一緒になるだろう。

 話がしたくなったらその時すれば良い。

 じゃ、今夜は俺が先に帰るから、と。一杯分多めの酒代をカウンターに置いて、俺は純喫茶を出た。

「……春宮……」

 仄かな怨恨が混じった声音は俺の鼓膜を震わせるに至らなかった。


「…………っ!」

 音にならない悲鳴を上げて飛び起きる。

「……最近こんなんばっかじゃねぇか……」

 瞼の裏に張り付いて剥がれないのは、モノクロの中の赤と、また別の場面での萌黄色。

 忘れるな、と云いたいのか。

 云われずとも忘れることなど出来やしないのに。

「あー、ホント……やってらんないわ……」

 壁時計を見て、長針と短針の位置が示す時間にげんなりしつつも大学に行く支度をして家を出た。

 一応講義に出るも、教授の声は右から左。

 気分は最悪だと午前を終えて購買でパンを買って大学を出た。

 もう今日は講義に出ても意味がない。

 町中をふらふらして埠頭に赴く。

 大昔、まだおかしくなる前の母親とよく来ていた場所だ。

 何でこんな所に足を運んだのか判らない。ただ、足に任せた結果が其処だった。

 石造りの堤防によじ登り、天辺の平たい石に腰を落ち着ける。

 ざん、ざざん……。

 波の音は穏やか。 

 購買で買ったパンを齧りながら、引いては寄せる波をぼんやりと眺めていた。

 暫くそうしていてちらりと流した視線の先には軍艦。

 嗚呼、昔はあの軍艦に乗ってみたいと思ったものだ……なんて遠い過去を懐かしんでいたら、軍艦から降りてきた隊列の中に記憶に新しい色を見付けてぱちぱちと目をしばたたいた。

 金茶色の頭なんて珍しい。

 その持ち主はきっと北坂で。

「本当に海軍将校だったのか……」 

 疑っていた訳ではないけれど、改めて目の当たりにすると何だか新しい発見をしたような気になった。

 先日少し話をした時、北坂は普段金糸雀一条の社交純喫茶で飲むことが多いと云っていた。

 今夜其処に行ったら彼に会えるだろうか。

 何となく、会いたい、と思った。

 彼と話をしたら、このむしゃくしゃした気分も軽くなるんじゃないかって、そんな幻想を抱いて。俺は水平線に夕陽が沈み切るのを待ってから、金糸雀一条の社交純喫茶に足を運んだ。

 絡んでくる女が居ない酒の場は些か退屈。

 二時間、キスチョコを肴にちまちま洋酒を舐めて、今日は外れかな、と会計に立とうとした時。

「春宮……?」

 待ち人来たれり。

「北坂」

「どうして此処に?」

「ん、気分転換」  

 いつも同じ場所じゃ飽きるからさ、なんて。さも北坂のことを待っていた訳じゃないと匂わす。

「もう帰るのか?」    

「一緒に居て欲しい?」  

「気色の悪いことを云うな」

 口をへの字に曲げる北坂にくすくすと笑う。

「北坂が飲むならもう一杯飲んで行こうかな」 

「俺は頼んでないぞ」   

「俺の意思だよ」     

 勘違いしないでと肩を揺らし、一度浮かせた腰をまた落ち着けた。

「ねぇ、ずっと聞きそびれてたけど、北坂の髪の毛、何でそんな色してんの」

「母親が欧米人だから」

「じゃあ在日って訳じゃないんだ」

「あぁ、生まれも育ちもこの町だ」

「前から思ってたけど、間接照明の下だと蜂蜜みたいな色に見えるよね」

 美味しそう、と手を伸ばして髪の毛をひと掬いすれば、ゆるりと跳ね除けられた手。

「お前の女の口説き方がよく判った」

「何それ。こんな髪の毛の女に出会ったことないから初めて云ったのに」

「それも常套句だろ」

 呆れたように言ちる北坂に、どうかなと肩を竦めて見せる。

「この店、居心地良いね」 

「静かなところは気に入ってる」

「金糸雀一条なんて上品な所だもんね」      燕界隈は歓楽街とでも云えば良いだろうか。それに対して金糸雀界隈はしっとりとした大人の町だ。

「いつも一人なの」

「上官に連れ回される以外は」

「友達居ないんだ」

「居るよ。失礼な奴だなお前」

「だって皆で飲む酒の方が美味いじゃん」

「それはあるけど一人が良い時もあんの」

「ふぅん」

 大人振ってて何かムカつく。

「何で一人が良いの」

「考え事したいから」

「考え事って例えば」 

「お前、割と無作法に踏み込んでくるのな」

「……別に踏み込んだ訳じゃないけど」       何だろう。つい、足が一歩、二歩と出てしまった。

「考え事なんて色々だよ。昔のこととか今のこととか、将来のこととか」

 カランと氷が鳴く。

「そういうの、整理つくモン?」    

「どちらかと云えば」  

「そっか……」     

 じゃあ俺もたまに此処に来て考え事しようかな、なんて北坂に向かって飛ばしたウインクは逸らされた視線で撃ち落とされた。

 北坂は明日もあるから、と一杯だけ飲んで席を立った。

 俺も北坂に会いたいなと思っただけだったから同時に席を立って、店の戸口で別れた。

「また」の挨拶はこの日もなかった。


 その晩、また夢を見た。鮮やかな紅と、萌黄色。

「……何でこんなに頻繁に……」        

 荒くなった呼吸を整えながらベッドを降りた。

 戸棚から洋酒の瓶を取り出してソファでそのまま口を付ける。

 どうして最近こんなにも嫌な夢を見るんだろう。

 原因は判らない。

 壁時計を見れば、眠りに就いてからまだ二時間しか経っていない。

 社交喫茶は朝まで明かりを灯している。

 喧騒と纏わり付く甘い香りが恋しくなって、俺はさっと着替えると家を出た。

 まだまだ賑わっている社交喫茶でブランデーを飲みながらボックス席で辺りを見回す。

 良い女は居ないだろうか。

 この場合の良い女、は質の良い女、という意味じゃない。

 都合良く扱える、阿婆擦れ女のことだ。

 フロアをふらふらしていた女を目に留め、こちらを向いた瞬間に人差し指でくいくいと呼んでやる。

 恐らくエタノール焼けした赤茶の髪は癖っ毛で、長さは肩に届くか届かないか。

 目はくりっとしているが、鼻は低い。

 似合っていない真っ赤な口紅が俺を誘った。

「ねぇ、誰か待ってるの?」

 横に座らせてグラスをかち合わせる。

「ううん、待ってた人が今来たみたい」 

「それって俺のこと?」

「他に居たら今アタシは此処に座ってないわ」  

 悪くない。口の端を舌先で舐めてグラスを空にする。

「行こ」         

 どこへ、なんて野暮な質問は飛んでこなかった。

 立ち上がれば女もゆっくりと腰を上げて俺の後をついてきた。

 安価な待合茶屋にしけ込んで女を貪った。

 ただ憂さを晴らすだけの行為に優しさも何もあったもんじゃない。

 それでも女は不満を抱くどころか善がって啼くのだから、利害は一致していると結論付ける。

 一通りのコトを終えると網膜に焼き付いていた紅と萌黄色は大分薄れていた。

 薄っすら陽の射し込む部屋。俺は女を放ってそのまま茶屋を出た。

 満足するには至らなかったが、それでも気晴らしにはなった。

 帰ったら寝直そう。今日は自主休講だ。そう決めて、俺は家路を辿った。

 そんな俺をふたつの瞳が見詰めていたことなど知らずに。


 いつもの社交喫茶。

「おい春宮、最近遊び方激しくねぇ?」 

 燕界隈で有名になり始めてるぞ、と囁いてきたのはいつも連んでる友人の一人。

「そんなんじゃ祖父さんに勘当されんじゃねぇか?」

 また別の、面白がるような声に、はっと鼻で笑う。

「いっそして欲しいね。別に俺は跡取りなんてこれっぽっちも興味ないし」  

 養子でもなんでも取って、もっと家に貢献する奴を教育した方がずっと建設的だと思うけど。

 云って、グラスの中身を一気に呷る。

「うわ、ストレートで一気とか飲み方えげつな……」

「酔っ払ってなきゃやってらんないよ」 

 相変わらず紅と萌黄色は瞼の裏でちかちかと瞬く。

 煩わしいことこの上ない。

 ふと、賑やかしい声が鼓膜を騒つかせた。

 座った目で入口の方を見れば、大柄な男の後ろに何人かの男。

「あ……」

 その中に金茶色を見付けて俺は思わず腰を浮かせた。

 ボックス席に落ち着いたのは恐らく海軍将校たちで。

 居心地悪そうにしている金茶色を見ていたら揶揄ってやりたくなった俺はもう大分酔っ払っていた。

 ふらりと立ち上がり将校たちの席まで足を運んでいく。

 おいこら、とか、待てよ、とか。友人たちの声は耳に入らなかった。

「どうも、北坂大尉、お久し振りですね」

 にこり、浮かべた笑みは紛い物。

「…………」 

「何だ、北坂。知り合いか?」

 低い声に北坂はええまぁと言葉を濁す。それが気に食わなかった。

「女が苦手な北坂大尉はこのような場所はさぞかし苦痛でしょうね」

 わざと誤解を招くような云い方をすれば、面白い程簡単に騒ついたテーブル。

「北坂、そうなのか?」

「いえ、そのようなことは決して」

「良い子ちゃんするのも大変だね、きたさ、」

 名前を最後まで呼ばせてもらえなかったのは、ピッチャーの水を真正面からぶっ掛けられたからだった。

「少佐、礼を失して申し訳ありません。彼は私の知人ではありますがまだ確たる分別のつかぬ学生でございます。どうぞご容赦願えればと思います」  

 尚、と。水をぶっ掛けられて呆けてる俺の腕を掴んで、北坂は続けた。

「彼は大分酔っているようですので、私が宅まで送りたいと思います。この場に同席致しませんことを重ねてご容赦願います」           

 堅苦しくも柔らかさを孕む声でそう告げた北坂は俺の腕を引いて店の外に連れ出した。

「ふざけるな!」    

 店外で開口一番怒鳴られる。

 ついでに頬をはたかれた。

「今回は学生という身分を盾にしてやったが、もう大学生だろうっ!」

「…………」

「いい加減責任を取れる行動と発言をしろ!」

 手の平で打たれた頬に手を当てながら、ぼんやりと北坂を見下ろす。

「聞いているのか!」  

「……聞いてる……」  

「なら今夜はもう帰って寝ろ」

 そうして酒を抜けと云われて、北坂はどうするの、と思わず問う。

「お前を送ると云った手前戻る訳にもいかないし、俺も帰る」

「じゃあ、」     

 濡れた顔を袖で拭いながら、もう片手で北坂のジャケットの裾を掴む。

「一緒に飲んでよ」    

「お前は、人の話を聞いて、」

「聞いてたよ。でも今帰って一人になりたくないんだ」 

「…………」     

 さっきまでの俺とは正反対の態度で北坂を見下ろす俺に、北坂は仄かな狼狽。

「夢を、見たくないから……」

「……夢?」       

「そう……」      

 頷いたら、お前は子供か、と呆れたような溜息。

「金糸雀界隈でなら飲んでやる」 

 燕界隈では誰が見ているか判らないからなと言ちて、北坂はまた俺の腕を引いた。

 北坂気に入りの店で、北坂はバーボンのロック。俺はウイスキーの水割りを振られた。

 水割りなんかじゃなくてロックかストレートが飲みたいと云ったら、取り敢えずはそれを飲めと強制された。

 何を喋るでもなく北坂とカウンターに並んでちびちびと水割りを飲んだ。

 ちらり、横目に見た北坂に、ふと視界がブレるよう萌黄色が一瞬重なって息を飲んだ。

「……? どうした?」

「いや、何でも……ない」 

 どうして北坂に萌黄色が重なったのだろう?

 何故だか、肌が粟立った。

「つーか、夢見たくないとか何なの、餓鬼なのお前は」

「……餓鬼じゃないけど……」

「けど?」        

「嫌な夢なんだ……」   

 何回、何十回、何百回見たか知れない。

「昔からたまに見てたけど、ここ最近頻繁に見るようになって……」      

 紅と萌黄色が俺の胸を潰すんだ。

 絞り出すような声で呟く。

 水割りを飲み干して、次はロックで良いかと伺いを立てれば、仕方ないなと北坂がウイスキーのロックを頼んでくれた。

「紅も、萌黄色も、嫌な思い出しかない色なのに」

 否、嫌な思い出しかないから、か。夢に見るのは。

「心理的外傷、ってやつか」

「そんな綺麗なモンだったら良いね」

 肩を竦め……新しいグラスに口を付ける。

「夢を見たくなくて酒を飲む。夢を見てむしゃくしゃして女を抱く」

 そーゆーくだらない人生歩んでるんだよ俺は。

 自嘲で肩を揺らしたら、確かにそれは良い生き方じゃないな、なんて正義言。鬱陶しい。でも北坂に対してはその鬱陶しさを跳ね除ける気にはならないのが不思議。

「男は夢を見たくなくて女を抱く。逆に女は夢を見たくて男に抱かれる」

 自然の摂理に適った需要と供給の合致じゃない?

 なんてグラスを目の高さに掲げる。

「需要と供給ね……」

「北坂、女に興味ないの」

「は?」

「初めて会った時、香水の匂い嫌そうにしてたから」

「……そりゃあんだけ色んな匂い混じってたら嫌だろ」

「まぁ、確かに好き嫌いもあるしね」

「女は石鹸の匂いがするくらいが良い」

「うわ、いかにも清楚系しか受け付けませんみたいな潔癖感」

「香水臭いより良いだろ」

「俺は香水臭い方が良い」

 ウイスキーを呷って、けたけた笑いカウンターにぺたりと頬をつける。

「一人の女に縛られてるなんて馬鹿らしいよ」

 紅とか、萌黄色、とか。

「馬鹿らしくはないだろ」

 どちらかと云えばそれが普通だろうと云われて、じゃあ俺は普通じゃないねと嫌味っぽく返す。

「真っ直ぐ過ぎる人間は視野が狭いから嫌だ」

「真っ直ぐに愛された方が幸せじゃねーか」 

「幸せの尺度は人それぞれだよ」

 ふっと吐息を洩らして瞼を落とす。

「真っ直ぐ過ぎる愛は怖い……」

「…………」

「ねぇ、北坂。俺はさ……」

 人殺しなんだよ。

 最後の言葉は音になる前に寝息に溶けた。                 



 五章


 ふと目を覚ましたら頭と上半身が酷く痛かった。肘をついてこめかみを揉んで、あぁテーブルで寝ていたから体が痛いのかと合点する。

「起きられましたか?」  

 上品な声に誘われるようカウンターテーブルの向こうを見れば、金糸雀一条で見た覚えのある初老のバーテン。      

「俺……えっと……」 

 どうしてここに居るんだっけ。

 一人で此処には来て……ない、よな……?

「お連れ様は先にお帰りになられましたよ」

「連れ……あ、そうだ、北坂……」     

 ガバッと体を起こしたらトサッと足元に何かが落ちた。

 手を伸ばせば、北坂が着ていたジャケット。

「…………」      

「先程までのお代は頂いておりますが、何か飲まれますか?」

「……いえ、今日は失礼します」  

 お世話をお掛けしましたと頭を下げて店を出る。

 東の空が白み始めていた。

「ジャケット……どーしろってんだよ……」

 何となく鼻先に寄せたジャケットからは仄かに白檀の香りがした。         

 勝手に探るのも……と思ったが、何か返す手立てがないかとポケットを漁ったら、内ポケットに一枚の紙。

「住所……」      

 これはわざとか偶然か。

「偶然……にしては出来過ぎてる気がするけど……」

 無言で来いと云われているのだろうか。

 そうだとしても素直に赴くのは何だか癪だ……が、ジャケットだけでも世話になったまま次いつ会えるか判らないのも座りが悪い。

「海軍て何時に仕事終わんの……」     

 はぁ、と零した溜息は重たい。

 取り敢えず夜八時には私服で歓楽街に赴けるのだから、定時に上がっていれば少なく見積もっても七時くらいには家に居るのではないか。

 そうと踏んで、俺はジャケットを借りたその日の夜に早速一枚紙に書いてあった住所を訪ねた。

「ここ、だな」

 一軒の平屋の前。

 『北坂』という表札を確かめてからその木枠の引き戸を叩く。

「はい」

 聞き慣れた声と共にガラガラと引き戸が開く。

「北坂」

「ん、春宮?」

 見上げてきた金茶色にジャケットを差し出す。

「何だ、すぐじゃなくて良かったのに」

 ジャケットを受け取りながら瞬く北坂に、借りは早く返したい性質だからと踵を返す。

「ありがと。じゃあね」  

「あ、待てよ」        

「何?」        

 肩越しに振り返ったら、北坂は柔らかく笑んで俺を手招いた。

「飯、まだだったら食っていかないか?」 

「…………」       

 ここで何故要らないと云えなかったのだろう。

「……じゃあ」    

 ご相伴に預かる、と。俺はまた踵を返した。

 北坂の家は小さな平屋だった。

 洋風造りな俺の家とは違って純和風。

 茶の間の丸い卓に米と焼き魚と味噌汁にお新香を並べてから、北坂はとてとてと奥の間に行って小さな飯碗と茶碗を新しいものに変えて仏壇に供えた。

 手を合わせること十秒くらい。パッと顔を上げて北坂が円卓につく。

「はい、じゃあいただきます」

「え、と……いただき、ます」

 白米には麦が入っていたし、魚も少し痩せていた。味噌汁の具も大根だけで、正直に云ってウチの飯の方が豪華だ。

 だけど、普段特別美味いとも思わなかった食事が今夜はどうしてか美味いと思った。 

「……北坂、あれ、」   

「ん? あぁ、両親」

 俺が顔を向けたから判ったのだろう、すぐに返ってきた答え。  

「居ないの?」

「あぁ、親父は俺が中等部の時に転覆事故に遭って行方不明。そっからお袋は外国人だって差別されながらも女手ひとつで俺を育ててくれて、俺がいざ海軍兵に、って時に気が緩んだのかな。過労で死んだ」

「……そう、なんだ……」 

 聞いてはいけなかったことを聞いてしまった気がする……という思いが顔に出たのだろう。北坂は大きく笑って「気にすんな」と麦飯を頬張った。 

「別に、珍しいことでもないだろ。両親が居ないなんて」

「そうだね……ウチもそうだし……」       

 呟いたら、北坂が目を瞠った。

「は、そうなの?」    

「そうだよ。父親は物心ついた時にはもう居なかったし、母親は……小等部の頃に……」

 俺の目の前で自殺した、とはほんの小声で。

「そっか……」      

「うん……」

 折角北坂が場を明るくしてくれたのに、暗くなるようなことを云って悪かったな、と少し俯けた頭を上げた時、北坂は形容し難いーーただひたすら柔らかなーー表情で俺を見ていた。

「俺よりしんどいじゃん」 

「そんなに変わんないよ……」 

「じゃあお互い様ってことで」

 こんなんでしみったれてたらそれこそ親父とお袋に怒られる。

 わざとらしく戯けて見せて、北坂は痩せた魚をほぐした。

「飯だけじゃ物足りないだろ」

 そう云って北坂は切子グラス一杯だけ日本酒を注いでくれた。

「俺、あんま日本酒飲んだことないな……」  

「社交喫茶に日本酒やら焼酎なんてそうそう置いてないしな」

 くすくすと笑いながら切子グラスを傾ける。

「俺は本当はどっちかっつーと洋酒よりコッチ派」

「へぇ……って、これ結構度数強くないっ?」  

「二日酔いだからそう感じるんじゃねぇの?」

 肩を揺らす北坂に微かな悪意を感じた。

「お前さ、あーゆー飲み方は良くないと思うぞ」

「云われなくても判ってるよ」

 昨日の俺はどうかしてたんだ。

 反省の色を見せれば、北坂は「判ってるなら良い」と頷いた。

「お前、親が居ないってことは一人暮らし?」 

「ん……祖父母の家の離れに住んでる」 

 そう。母屋に戻ることも可とされていたが、俺は何となく戻りづらくてずっと離れに一人だ。それに、一人の方が夜出入りをしやすくて良いというのもある。

「飯どうしてんの」  

「大体外食」    

「金は」     

「食費が掛からない分祖母から貰ってる」

「……お前、もしかして結構良いとこ育ち……?」

「良いとこか知らないけど、祖父は実業家」 

「親父さん居ねぇんだったら跡取りだろ? それこそあんな遊び方してる場合じゃなくないか?」

「そーゆーの、嫌いなんだよね。好きで跡取りになったんじゃないのに」      

「……そうか、そうだよな、悪い」

 素直に謝られて逆にこっちが困る。

「別に気にしてないよ。今更だから」

 そう付け足して、俺は辛口の日本酒を呷った。

「気が向いたらまた来いよ。粗末な飯でも良けりゃ作ってやるから」

 帰り際にそう云われて、じゃあと笑う。

「じゃあ、ひとつ注文つけても良い?」

「作れるもんなら」

「甘い卵焼きが食べたい」

 それは、母親がよく作ってくれた和風寄りのおかずだった。

「なに、甘いのなの?」 

「そう、甘い卵焼き」  

「砂糖持ってきてくれたら作ってやるよ」  

 砂糖は安くねぇからな。

 歯を見せて笑った北坂に、じゃあ今度持ってくるから作ってねと子供じみた約束を取り付けて、俺は北坂の家を後にした。

 それからというもの、俺はちょくちょく北坂の家に訪れるようになった。

 何でか判らないけれど、それまで病的なまでに繰り返してきた女遊びに対して興味が薄れたのだ。いい加減そろそろ飽きてきたのかも知れない。また、北坂の傍に居ると気持ちが落ち着いたというのもある。

 まぁ、夜中に嫌な夢を見て起きた時のむしゃくしゃを晴らすのは相変わらず阿婆擦れ女を相手にしたけど。

 友人たちと酒を楽しみ、適当な酒の場でだけ女と戯れて。

 週に一度か、二週に一度は北坂の家に行くことが多くなった。帰りは大体六時半頃だから、と教えてもらった情報を元に六時半頃北坂の家の前で待ち伏せて、「また来たのかよ」なんて苦笑に悪戯っぽく笑って俺は北坂の家に上がり込んだ。

「北坂これ」

 差し出したのは砂糖と鶏卵。

「お前、本当に卵焼き食いてぇのな」  

「そうだって最初から云ってるじゃん」 

「別に作るのは構わないけど、失敗しても怒るなよ?」

「失敗しないって信じてる」 

「うわ、その確証のない圧。しんどい」

 あからさまに嫌な顔をしつつも、北坂は器用に卵を割り四角いフライパンを使って少し焦げ目のついた卵焼きを拵えてくれた。

「はい、どーぞ」  

 麦飯と味噌汁と一緒に出された卵焼き。

 柔らかく焼かれた一切れは箸で掴むと不安定に揺れた。

「いただきます」     

 ぱくり、口に入れた瞬間に広がった卵のコクと砂糖の甘さが絶妙で俺は思わず相好を崩した。

「凄い、北坂、うまい!」 

「自信ねーけど……ん、あー、まあまあいけるな」

 行儀悪く指で摘んだ卵焼きを頬張る北坂も満更ではない様子。

 懐かしい甘さだった。

 脳裏を、良い思い出だけが駆け巡った。

 久々の多幸感に胸がいっぱいになる。

「気に入った?」    

「すっごく美味しい」  

「じゃあ残り全部食って良いよ」 

「え、でも北坂はおかず……」

「卵、一個余ったから卵かけご飯にする」

 それだって贅沢だし、そもそも卵持って来たのお前だろ。だから気にせず食えと云われ、じゃあお言葉に甘えてと残りに箸をつけた。


「最近女遊びしてねーの?」 

 久々に北坂と飲みに出て、そんなことを問われた。

「してない訳じゃないよ。ただ数は減ったけど」

 前みたいに女に恨まれて刺されそうになることはないと、もう一年も経ちそうな出来事を振り返れば、そうかと北坂は苦笑した。

「何か、何だろ……北坂とちょこちょこ会うようになって、夢見る回数も減ったし……」 

「嫌な夢、ってやつか」

 憂さ晴らしする必要が減ったのかな。

 カラン、とロックアイスをグラスに当てて高い音を鳴らす。

「云いたくなかったら、全然良いんだけど……」

「うん?」 

「お前、前に紅と萌黄色が嫌だって、云ってたよな……」

「云った、かな?」  

「その紅って、」 

 北坂が聞きたいことを察してふふと笑う。

「母親が俺の目の前で頸動脈切った色」

 何でもないように云ったのに、北坂は顔を渋らせた。

「ねぇ北坂」  

「なに……」 

「どうして俺の女癖が悪くなったか、教えてあげようか」

「…………」    

 その沈黙は、出来れば聞きたくないという色を漂わせていたけれど、俺は敢えて真実を告げた。

「俺、母親に強姦されてたんだ」 

「……なっ、」 

「母親の感触を忘れたくて、覚えてしまった快楽を求めて、俺は色んな女を抱いた。それが始まり」

 くだらない戯曲のような話でしょ? と笑って見せたら、北坂はまるで自分のことのように衝撃を受けた顔をするものだから、何だかおかしかった。

「母親は父親のことを愛し過ぎて狂った。俺はその一途な部分は継げなかったのに、狂気の部分だけ引き継いじゃったんだよね、きっと」

 からからと笑う俺の手に、そっと重なってきた北坂の手。

「それは、笑えないな」 

「どうしてさ?」  

「だって、春宮の顔、全然笑ってない」

「…………」

 そんなことないよ。そう云いたいのに、何故か云えなくて。

 俺はそっぽを向いてグラスを傾けた。

「……突っ込んだついでに訊くけど……」

 萌黄色は何だ?

 北坂のその問いに答えるのは酷く難しかった。

 婚約者であり妻になった女に俺が見立ててやった小袖の色だ、と。ただそれだけを云えば良いだけなのに。

「昔の女が着てた服の色……」

 真実ではないけれど、嘘ではない台詞を口にして、俺は溜息を吐いた。

 細く長く息を吐く俺の横で、北坂は何やら難しい顔。

「北坂?」

「え、あぁ、何でもない」

 軽く頭を左右に振って、北坂はグラスの中身を干した。

「今日はもう帰る」 

「え、まだ二杯しか飲んでないじゃん」

「明日早いの思い出したんだよ」

 学生も学生らしく朝から勉学に励めと後頭部を小突かれて、唇を尖らせる。

 席を立った北坂に倣って俺も席を立ち店を出た。

「じゃあな」

「ねぇ北坂、また」

「また?」

「次の約束」

「……いつもみたいに気紛れで良いんじゃね?」

 何となく、それじゃあ駄目な気がした。

 俺の過去を知って、距離を取られるのが怖かったのかも知れない。

「来週の週末」

「金糸雀で?」

「夜八時丁度」

「……判った」

 頷いて、北坂は俺に背を向けた。




 六章               


 北坂と約束した夜。

 時間には厳しい北坂が中々姿を現さなかった。

 腕時計が刻んでいく時間がもどかしい。

 十五分、三十分、四十五分……一時間経ったところで俺は席を立った。

 何かあったのかも知れない。

 それは殆ど直感だった。

 脱いでいたジャケットに腕を通して北坂の家に向かう。

 ドンドンと戸を叩いても反応はない。

 家には居ない?

 じゃあ何処へ?

 また上司の付き合いで燕にでも居るのだろうか?

 いやしかしそれなら金糸雀のマスターに一言添えるくらいはするだろう。

「北坂……」

 それともまだ仕事をしているのか。

 不測の残業。それなら良い。

 詰所に行ったら北坂が残業しているかどうか教えてくれるだろうか?

 そう思って海軍基地へと早足に赴いた。

 門兵に友人がまだ基地内に居るかを知りたい。

 そう云えば、不審な顔をしつつも調べに行ってくれた。

「北坂大尉はもうお帰りとのことです」

「…………」       

 そうですか、と唸ってその場を後にする。

 北坂は一体何処へ……?

 親指の爪を噛みながら当てもなくその辺をふらふらする。

 海軍基地から埠頭へ出て足が向いたのは鵺界隈。

 もしかしたら金糸雀に戻ったら北坂が居るかも知れない。

 そう思って埠頭から金糸雀まで近道をしようとして鵺に立ち入った。

 しかし本来なら鵺界隈は余り立ち入りたくない場所だった。

 単純に云って、治安が悪いのだ。

 俺だって女癖は悪いし、少し前までは平気で女を殴ったりもしていたけれど、度合いが俺の比ではない。何なら死ぬまで暴行を加えるなんてのもザラだと聞く。

 なるべく目立たないように早足で小道を抜けて行る最中、細い十字路の右手側の小道奥から罵声が聞こえてきた。

「ったく手間取らせんじゃねぇよクソ餓鬼が!」

「……こんなことして、タダで済むと思うなよ…っ…!」

 口答えする声に、聞き覚え。

「ふぅん、どうタダで済まないのか知りたいねぇ、海軍将校様?」    

「北、坂……?」  

 口答えした声と、口汚い男が発した「海軍将校」という言葉で憶測が確信に変わる。

 ドンッと鈍い音。

 続いてドスドスと肉を叩く音がした。

 路地の奥は暗くてよく見えないが、恐らく北坂が殴られでもしているのだろう。

「……っは、そろそろ体には効いてきただろ?」

 パンパンと手を打ち払う音。

「お前が寝てる間に筋弛緩剤を飲ませておいたからな」

「そん、なもの……どうやって……っ」  

「なに、闇医者にちょいと金積みゃすぐ手に入るさ」

 まぁ混じり物はあるだろうけどな。

 下卑た笑い声は耳障り。

「女みてぇな面して凄んでも可愛いだけだぜ、お嬢ちゃん」

「っ、俺は男だ……!」

「判ってるよ。だからこっからが愉しいんだろ?」

 愉しい……? 何が……?

 まだ姿を見せるのに決定打が少なくてただ息を潜める。

「股の緩い女を抱くより、潔癖な男の自尊心を壊す方がよっぽど興奮するってモンだ」 

 大きく笑う男に怒りが込み上げた。

 つまりは、北坂を犯そうとしているのだろう。

 そんなこと、許せるものか。

 ザッ、と地面を蹴ってこちらに背を向けていた大きな影に体当たりする。

「うぉっ、」     

「何だてめぇは!」  

「邪魔すんじゃねぇぞ餓鬼!」

 飛んできた罵声の数からその場に居るのは三人の男だと推定。

「と……っ、」 

 北坂が俺の名前を呼ぶのをやめたのは、多分俺のことを認識させない為だろう。

 三人ならちょろい。これでも合気道は帯持ちだ。

 薄闇の中で見下ろした北坂は両手足を縄で縛られ、顔は傷だらけ。着ているものもよれよれになっていた。

 ふつふつと込み上げた怒り。

「何してくれてんだ」

「ぁあ?」 

「人のモンに何してんだって云ってんだ、よ!」

 ガツッと一人の顎を蹴り上げてやる。

 次に飛び掛かって来た男は拳で。

 北坂に罵声を浴びせていた男は革靴と拳の餌食にしてやった。

 地面に蹲った三者を冷ややかに見下ろし、もう一発ずつ食らわす。

 一人はもう一発、もう一人はあと二発食らわせたら伸びた。

 誰かの歯が地面に転がる。

 北坂に罵声を浴びせていた主犯格が起き上がろうとするのを革靴で踏み潰した。

 腹を踏み付け、頭を地面に擦り付けてグリグリと足底を捩った。

「これでもまだ続けるつもり?」

「調子こいてんじゃねぇぞ、餓鬼が……!」

「調子に乗ってんのはどっちだよ」 

 この状況でもまだ優位に立ってると思ってんの?

 お前の頭は飾り物か?

 挑発するだけ挑発して、逆上するのを待つ。

 そうしたら正当防衛になる。

 案の定、男の手が俺の足首に絡み付いた。

「殺してやる」  

「出来るならしてみろよ」

 くつくつと喉を鳴らして足に絡んだ手を振り払い、もう片方の足先で横っ腹を強かに叩いてやった。

 うぐ、と呻いた男。

 あぁ、そろそろ焦点がおかしくなってきたな。あと数発食らわせれば死ぬかも知れない。この界隈で悪事を働く人間にならそうしてやったって良い気がした。

 肩を揺らしてもうひと蹴り顔に食らわそうとしたら、今度はハッキリと名前を呼ばれた。

「春宮! もう止せ!」

 ゆるり、振り向いて北坂を見下ろす。

「……何で?」

「何でも、だ」

「北坂死んでたかも知れないんだよ?」

「でも生きてる」

 もうこれ以上其奴らに関わるな、と諭され、俺は納得がいかないまま男から離れた。

 伸びている男の懐から小刀を抜き取り北坂の縄を切り解く。

 手首には痛々しい縄の痕と鬱血。

「……立てる?」  

「……ちょっと、厳しいかな」 

 へらりと笑う北坂の神経が判らなかった。

「……そ」

 じゃあと北坂を背負った。

 無言で北坂の家を目指す。

 北坂も何も云わなかった。

 家の前で一度北坂を下ろして、体を支えながら鍵を出させた。玄関の鍵を開けて、靴を脱がせたら今度は北坂を横抱きにして家の中に上がり込んだ。

 茶の間に北坂を寝かせて頭の下に座布団を差し入れ勝手知ったる何とやら、グラスに水を汲んで北坂に飲ませる。

 頼りない手からグラスを取り上げ円卓に置き、俺は胡座をかいて北坂を見下ろした。

「何で止めたの」

 低い声で問うたら、正義感溢れる眼差しが俺を射た。

「人殺しは犯罪だ」

 お前を犯罪者にする訳にはいかない、だなんて。

 そんなの俺にとっては今更だ……。

「でもあのままじゃ北坂が殺されてた」

「そんなヤワじゃねぇよ……」

 大体、いつから俺はお前の物になったんだ?

 強がる訳でもなく鼻で笑う北坂に腹が立った。

 縛られて、蹴られて、殴られて、薬なんて盛られて、そのまま犯されそうになっておいて。

 何でそんな風に笑えるんだ。

「北坂」

 ぐい、と両手首を頭の上に拘束して冷ややかな視線を落とす。

「本当は、嫌じゃなかったんじゃない……?」

「……は?」

「本当はヤラレても良いって思ってた?」

「何馬鹿なこと云……っん!」

 北坂の台詞も半ばで奪った唇。

 口腔を荒らし回って下唇に噛み付く。

「とー、ぐ……っ!」

「知らない男に嬲られるぐらいなら、知ってる奴に優しくされた方が良くない?」

 大丈夫。たっぷり悦い思いさせてあげるから。

 ぺろりと唇を舐めてまた北坂の口に噛み付いた。

 他の人間に穢されるくらいなら、俺が穢してやりたかった。

 こんな気持ちは初めてで、理性ではどうして、と戸惑ったけれど、そんなことよりも今は北坂を俺のものにしたいという本能が俺を突き動かした。

 シャツの前を引き裂くように肌蹴させ、胸の飾りに舌を這わせながら空いている手で下肢をまさぐる。

 ベルトを外して前を寛がせ、何の衒いもなく芯に触れた。

「っ、と、ぐ……っ!」

 潜めた声と力のこもる手首にくくっと喉が鳴る。

「そんな風に抵抗しても無駄だよ」

 か弱い抵抗は逆に嗜虐心を煽るだけだ。

「どうせ薬が効いててどうにもならないんだったら、気持ち良いことしてた方が良いでしょ?」

 俺が浮かべた笑みはとびきり甘いものだった。

 北坂が飲まされた薬は今の俺にとって大層都合の良いものだった。

 碌々抵抗出来ない体を暴いて中を穿って欲を発散する。

 北坂の中は女とはまた違う柔らかさで俺を包んで虜にした。

 征服欲、独占欲が満たされていく。

 こんな行為が気持ち良いと素直に感じたのはいつ振りか。

 もしかしたら初めてかも知れなかった。

 本能のまま腰を揺らして、無抵抗な体を貪って。

 何度も何度も唇を合わせた。

 ふわり、鼻を擽った白檀の香り。

 俺が付けている香水の匂いはきっと北坂好みじゃないだろうな、なんて何とは無しに思う。

 一度じゃ足りなくて。二度目で更に火がついて。三度交わって漸く体を離した。

 始終、北坂は歯を噛み締めて声を押し殺していた。

 柔な場所から出るのは名残惜しかったけれど、ずっと繋がったままでもいられない。

 双方の後始末をして襖を背にずるりと座り込んだら、それまで少しも動かなかった北坂がゆるりと起き上がった。覚束ない足取りで俺の前までやってきたかと思えば、ぐいと襟首を掴まれた。

「何、北坂」     

 未だ調子が戻らない北坂の手は微かに震えている。

 それは薬の所為だと、そう思ったのに。

「お前は……っ、何人の人間を裏切れば済むんだ……っ!」

 浴びせ掛けられた罵声に、北坂の手が震えているのは怒気の所為なのだと知る。 

「っまえ、は! すゞ音にもこんなことをしていたのかっ?」

 懐かしい名前を他人の口から聞いて、目をしばたたく。

「は……? 何でお前の口からすゞ音の名前が出てくるんだよ……」

 何故? それは純粋な疑問。

 北坂にすゞ音の話をした覚えはない。

 どうして、と。その問いに北坂は簡単に答えてくれた。

「すゞ音は俺の年の離れた従姉妹だ」

 低い声に、息を飲む。

「……っ!」

 そう、か。やっと判った。北坂に感じる既視感が。

 北坂の顔立ちは確かにすゞ音に似ている。

 北坂の真っ直ぐな眼差しは、すゞ音のそれと酷く似ていた。

「すゞ音を殺したのはお前だ、って、今確信した」

「……」

「青酸カリで自殺なんておかしいと思ってたんだ」

「証拠は……」

 震える声で問うたら、北坂は懐から一冊の手帖を取り出した。

 その間から一枚の写真を俺に突き付ける。

 それは、すゞ音が死ぬひと月程前に祖父に命じられて撮った写真だった。

 その写真のすゞ音は、俺が選んでやった萌黄色の小袖姿。

 俺の笑顔は嘘ものだったけれど、すゞ音の笑顔は……。

「政略結婚なんて反対だったんだ。幸せになんかなれないって……けど、すゞ音はこの写真を俺に送ってきた時、本心から、お前のことを愛せるようになったと……そう、書いてあって……」

 今度は北坂の声が震える番だった。

「お前らの間に何があったかなんて知らない。でもすゞ音は確かにお前を愛していて……けどその純粋さを、穢したのはお前なんだろうって、今判った……っ」

「きたさ、」

 頬に伸ばそうとした手は途中で打ち払われる。

「お前なんかにやるくらいなら……っ、俺がもらってやるべきだった……!」

 わたしはおにいさまのおよめさんになるわ!

 幼い頃からずっと、そう云っていたんだ、と小さく叫ぶ北坂。

 呼吸音も許さぬような沈黙。

「お前は……っ、すゞ音の想いを踏みにじったんだ……!」

 不意に横に凪いできた腕。

 ガッ、と頬を拳で打たれた。

「金輪際関わるな。俺にも、すゞ音の墓にも」

 出て行け。地響きのような低音が俺の足を引っ張った。

 無言の圧に背を押され、追い出された北坂の家。

「…………」

 言葉が次げなかった。

 まさかすゞ音と北坂に縁があっただなんて。

 あの写真を持っていたということは……手紙を受け取っていたということは……。

 俺との関わりの中で少なくとも俺がすゞ音の婚約者だったということは知れていた筈。

 じゃあ北坂が俺を受け入れていた理由は何だ?

 報復の為の情報収集か何かか?

 しかしそんな兆しは欠片もなかった。

 何故俺との時間を共にしたのか。

 北坂の真意が判らない。

 だけどこれだけはハッキリした。

 俺は北坂に見限られたのだ、と。

 原因は、俺なのだけれど……。

 いつだってそうだ。

 失くす時はいつだってそう。

 薄氷を俺が叩いて割ってしまって。

 散った欠片は足元で溶けて元には戻らない。

 帰ってこない、人、人、人。

 間違いに気付いた時にはもう遅くて。

 もう少しああしていれば、とか。

 もう少しこうしていれば、とか。

 そんなことを刹那だけでも考えてしまう自分が嫌だ。

 壊すだけ壊すんなら、もしも、のことなど考えられなければ良いのに。

 北坂に絶縁を云い放たれた俺は、ほぼ放心状態のまま家に帰った。


 ✳︎〜✳︎〜✳︎


 怒鳴り、追い出して畳に寝そべった。

 体の奥深くに残る生々しい感触に吐き気がする。

 だと云うのに、唇に残る体温に嫌悪感は少ない。

 許せないことをされた。

 許せないことを知った。

 だけど、事実は既に予測出来ていた。

 だから、知ったところで今更でもあった。

 ただ、確たる証拠が欲しくて問い詰めただけ。 

 予測出来ていたとは云え、それでも憎くて憎くて仕方ない。

 それなのに……それだというのに、だ。

 ギリ、と奥歯を噛み締める。

 信じられない。信じたくない。

 だけど、認めざるを得ない現状。

 幾ら薬が効いていたとはいえ、抵抗しようと思えば抵抗出来た筈なのだ。

 それでもそうせず結果的に身を委ねてしまったのは。

 彼の蹂躙を受け入れてしまったのは……。

「いつの間にか好きになってしまったから……だなんて……」

 馬鹿馬鹿しいことこの上ないのに。

 自分の気持ちを否定する自分を、もう一人の自分が嘲笑った。




 七章


 もう金糸雀一条に行くことはなくなった。

 付き合いで訪れるとは云え北坂と顔を合わせるのも怖くて燕界隈で遊ぶのも辞めた。

 そろそろ別の界隈で遊ばないか、と友人たちを云い包めて俺たちは燕界隈よりほんの僅かに品格の下がる鶯界隈で遊ぶようになった。

 あんなことがあっても酒に溺れて女と遊ぶことを辞められない自分はどうしようもないと思わないでもなかったが、もうそれは身に染みてしまった習性で。今更改善出来るものじゃなかった。

 大学へ辛うじて通っていたのは、遊んでいても祖父に責められないようにする為だった。

 期末の成績が悪くなければ祖父はもう煩いことは云わなくなっていた。

 何も知らない祖父は、すゞ音を失くした俺を少なからず哀れに思っているようだったから。

 北坂と顔を合わせたくない。

 北坂のことを考えたくない。

 その一心で遊ぶ場所を変えたのに。

「……っ!」

 夜、飛び起きる。

「……っ、は……」

 紅は色褪せてきた。その代わりに萌黄色は今までに増して鮮明。

 それまでただ萌黄色を傍観していた俺は、いつからかその萌黄色に手を伸ばすようになって。

 起こす体。顔はぼやけて判らないのに。

「許さない」  

 低い声が脳髄を揺らして、俺は声のない悲鳴を上げながら飛び起きるのだった。  

 戸棚から酒を取り出して瓶を傾ける。

 口の端から零れた一筋を手の甲で拭い、ソファにドサリと身を任せる。

「亡霊かよ……」

 否、生き霊か。

 どちらにせよ厄介なことに変わりはない。

 考えたくないのに考えさせられる。

 思い出したくないのに思い出してしまう。

 嫌だ嫌だ。悪夢も見れないくらい、深く眠りたい。

 そうは云っても眠れないから、また女を探しに行くのだけれど。

 北坂に絶縁を云い渡されて一年。一応盆と彼岸には訪れていたすゞ音の墓にも行かなかった。

 だって、どんな顔をして行けば良い?

 もし北坂と鉢合わせしたら?

 俺はどんな顔をすれば良い?

 そんなことを考えたら、とてもじゃないけど墓参りになんて行けなかった。

 ある日、嘘ではなく大学の授業がなかった際に、祖母に遣いを頼まれた。

 稽古事の弟子(祖母は舞踊の師範をしていた)に子供が生まれたらしいが、少々遠方で最近足を悪くした自分では祝物を持って行けないから代わりに行ってくれと頼まれたのだ。

 小遣いをくれると云われれば断る理由はない。

 風呂敷包みを片手に、俺は隣町まで歩いた。

 片道約一時間。苦になる年でもない。

 俺も顔を知っている人だったから、挨拶をして、赤ん坊の顔を少しだけ眺めて、お茶を一杯ご馳走になって帰路に着いた。

 両手を薄手のコートのポケットに差し込んで軽い足取りで石畳を歩く。

 町の境を越えて少し。

 今夜友人たちの予定はどうだろうかなどと考えながらふと横に流した視線が捉えたものに、俺は思わず足を止めた。

「きた、さか……」

 横顔は少し遠くて判別しにくいけれど、あの目立つ金茶髪は間違いなく北坂だろう。

 一歩後ずさり、小道を一本入ろうとしたところで、視界に入ってきたのは蛇行しながら車道を進んでいく車。

「何あれあぶな……」  

 呟いて、ハッとする。

 緩く蛇行しながらもじわじわと歩道に寄って行く車の先には北坂が居るのだ。

 無意識に足が動いた。

 駆けて、駆けて。

「北坂!」      

 叫ぶと同時に北坂を突き飛ばす。

 その瞬間、プァー! と車笛の音。直後、俺は鉄の塊と接触して道路に転がった。

「とー、ぐう……? おい春宮っ?」 

 北坂の呼び掛けは俺の鼓膜を揺らさなかった。


 目が覚めたら真っ白な天井が見えた。ゆらり、揺らした視線の先にはやっぱりただ白いだけの壁。

 頭の方にだけ、纏められた生成り色のカーテンが見えた。

 此処、何処……。

 記憶を手繰って、嗚呼、と大きく瞬く。

「きたさか……」

 北坂が事故に遭いそうになっていたところに飛び込んで……多分、自分が事故に遭ったんだろう。

 体のあちこちが痛い。だけど添え木とかをしている様子はなく、大したことなかったのかな、なんて思う。

 北坂は無事だっただろうか。

 絶縁されたんだから放っておけば良かったのに。俺の中の俺がそう云うけれど、そうはいかなかった。

 何故、と問われたら答える術はないのだけれど。

「あ、春宮さん、目が覚めめたのね?」

「えーと、看護婦さん……?」

「暴走した自動車に跳ねられてこの公立病院に運ばれたんですよ」 

 丸一日目を覚まさなかったから心配しましたよ。

 労りの台詞に、それはどうもご迷惑を……などとさらりと社交辞令が零れた。

「丁度ご面会の方がいらしてるので、先生に診て頂いてからお呼びしますね」     

 面会……祖父母だろうか?

 それとも友人たち?

 誰だろうかと浮かんでくる人を一人一人頭の中に並べている間に医者が来て、触診と問診をされた後に、明後日には退院出来ますよ。なるべく体を起こしていて下さいねと笑みを残して部屋を出て行った。

 それから十分くらいしただろうか。医者に云われた通り上半身を起こしていると、コンコン、と戸枠が音を立てた。

「はい」   

「……」     

 俺の応答に何も云わず、ぶすっとした顔で現れたその人を見て、俺は目をまん丸くした。

「きた、さか……」 

 呟いたら、腹の辺りに投げ付けられた切り花の束。

「馬鹿かお前は!」   

 開口一番、騒音にならない程度の怒声を浴びせられて、キョトンとしてしまう。

「俺なんか庇ってこんな目に遭って、馬鹿なのか!」

「馬鹿って……酷くない……?」      

 薄ら笑ったら、馬鹿以外の何者でもないと断言された。

「……大体、わざわざ俺の見舞いになんか来る北坂も馬鹿じゃないか……」      

 云い返したら、自分の代わりに事故に遭った人間を見舞わない方が馬鹿だとまた怒鳴られた。

「…………」     

「…………」

「金輪際会わないって云った癖に……」 

「お前が俺を助けなきゃ金輪際会うことなんてなかったよ」

「何、俺の所為なの」

「お前の所為だよ」 

「助けなきゃ良かった」  

「そうだよ、助けなきゃ良かったんだよ」 

「……でも、体が勝手に動いたんだ……」 

 俺だって、どうして北坂を助けに行ったのか判らない。

 唇を尖らせたら、大きな溜息。

「……まぁ、大事なさそうで良かった……」

 そう呟いた北坂はやっと静かな声音になった。

 暫し、痛い程の沈黙。

 居た堪れず、口を開く。   

「何で俺をすぐに責めなかったの……」

 一年以上前のことを引っ張り出す。脈絡なかったけれど、北坂はちゃんと拾ってくれた。

「……お前が元凶だっていう証拠がなかったから」

 お前たちが本当に円満な夫婦関係を築いていて。

 それでも何かしらの理由があってすゞ音が死を選んだのなら、それは仕方のないことだと思ってた。

 だけど、と北坂は大きく息を吸った。

「お前はすゞ音を裏切ったんだろうって判ったから、もう二度と関わるものかと思った」

「…………」

「運命ってのは、悪戯にも程がある……」

「…………」

「何でお前に助けられなきゃいけないんだ」

「それは、」

「俺は……」

 は、と息を吸って、北坂は俯いた。

「お前に、こんな目に遭って欲しくなかった……」

「北坂……」

「悔しいけど、ムカつくけど、信じたくねぇけど……っ」

 北坂の声が震えていく。

「お前のことを……俺は、」

「待って、北坂、そんなこと云われても困……」

「困れば良い! 俺にあんなことをしておいて、相応の報いを受ければ良いんだ!」

「きた……、」

「お前と過ごした時間の中で……っ、俺はいつの間にか、お前に惚れてたんだよ……っ!」

 そう叫んだ北坂の俯けた顔から、ぼたぼたと大粒の雫が落ちた。

「何、泣いてんの……」

「お前がっ、泣かないからだろうっ」

「何で、俺が泣かなくちゃいけないんだよ……」

 戸惑えば、また怒られる。

「泣く理由なんて沢山あるだろうが……っ」

「もしそうだとしても……俺に泣く資格なんて……」

「泣くのに資格もなにも要るか馬鹿野郎!」

「…………っ、」

「お前、本当は寂しいんだろ……?」

 金茶色が微かに揺れた。

「寂しくなんか……」

「だから酒にも女にも逃げて」

「そんなんじゃ、」

「じゃあ、いつまで夢に囚われてるんだ」

「…………」

「母親に正しく愛してもらえなくて」

「…………」

「すゞ音の愛し方も判らなくて」

「…………」

「本当に愛したいものを愛せない」

 真っ直ぐな、ただ直向きな眼差しが俺を射る。

「そんなお前だから……」

「……だから……?」

 首を小さく傾げたら、金茶色がぐっと近付いて。

 病衣の襟首を掴まれたかと思ったら、唇に柔らかいものが触れた。

「そんなお前だから……っ、俺はお前を愛してやりたいと思った」

 パッと突き放された体。ぐらついて、後ろ手に手をつく。

「きた、さ、か……?」

 忙しなく瞬く俺を、北坂は不遜にも見える態度で見下ろしていた。

「お前はどうなんだ」

「どう、って……」

 そんなことを訊かれても判らない。

「俺のことを、どう思ってるんだ」

「判んない、よ……」

 でも、と震える唇を動かす。

「事故に遭ったのが俺で良かった、って思う……」

「どうして」

「どうして、って……北坂が、危ない目に遭って欲しくなかったから……」

「何で?」

「……北坂が、居なくなったら嫌だと思った……」

「金輪際関わらないって云ったのに?」

「それでも、俺は……」

「俺は……?」

「北坂に……」

 ぐっ、と、喉の奥がつかえた。

 目の縁が熱くなる。

「北坂が、もう俺と関わらなくても、北坂には……っ、生きていて欲しかったから……っ」

 一人じゃ見付けられなかった本音を吐き出したら、じわりと視界が滲んだ。

「生きて、いて欲しかった……母さんや、すゞ音みたいに俺を置いてかないで欲しかった……嫌だったんだ……っ」

 もう、俺の前で誰かが死ぬのは見たくなかった……。

 いよいよ涙を零した俺の頭を、北坂は柔らかく抱いてくれた。

「なぁ、春宮……」

「なに……」

「その感情を、何て表すのか……お前は知らないよな」

「……なに? 悲しい以外に何があるの?」

「誰かを失くしたくないっていうのが、愛情なんだよ……」

「…………」

「嫉妬も執着も手に入れられないもどかしさも、全部、愛情の端っこだ」

「…………なら、尚更……」

 尚更、俺は愛されるべきじゃない。

 だって、上手く愛してこれなかったんだから……。

「ねぇ……北坂」

「何だ?」

「おれを、ころしてよ」

 北坂が愛していたすゞ音を殺したのは俺に違いないのだから。

 目尻に熱い雫を溜めたまま云えば、北坂は鼻で笑った。

「ころしてやるものか」

 そして、また俺に口付けて。

「お前なんか、俺を愛し続けて、そうやって苦しみながら生きれば良い」

 唇に塗りたくられたその言葉はいっそ呪いになった。                                                                                         

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?