◆
あたりが白んでくる頃、ハイネは薄い眠りからゆっくりと意識を浮上させた。
身体の節々に疲労感はあるが、昨日よりはまだマシだと感じる。
目を開くと、周囲には樹間を漏れる朝の光が差し込んでいた。
ぬかるんだ地面は夜の冷気で少し固まっており、移動には好都合かもしれない。
一方で、隣にいるセイシロウは脇腹の負傷や毒の後遺症と闘っていた。
額にはうっすら汗が滲んでいる。
「少しは眠れたか」
ハイネがそう声をかけると、セイシロウは目を開き、浅く息を整える。
「ええ……殿下にはご心配をおかけします」
「良い。どのみち急いでいる最中だが、倒れられるほうが困るからな」
少々きつい口調になってしまったが、セイシロウは否定せずに微かに笑う。
昨日の戦闘で毒を受けたせいか、彼の顔にはまだ青白さが残る。
この状態であちこち動き回るのは危険だが、立ち止まっていれば追手に追いつかれる。
ハイネはその板挟みに苛立ちを覚えながら、次の行動を模索する。
◆
森の中は陰湿な空気が漂う。
枝葉が生い茂り、時折どこかの小動物が走り去る音が聞こえた。
昨日までの荒野とは違い、視界が一気に悪くなっている。
追手が潜んでいる可能性も高い。
「とにかく、ここでうずくまっていても仕方ない。出発するぞ」
ハイネがそう宣言すると、セイシロウは微かにうなずいた。
「承知しました」
ハイネ達は足元をすくわれぬよう細心の注意を払いながら、わずかに残る朝の冷気を感じつつ森を進んでいった。
森の深部へ足を踏み入れるにつれ、しっとりとした湿気が肌にまとわりつく。
木々が高くなり、太陽光が届きにくくなってきた。
落ち葉や土が絡まる靴の感触が不快だが、追手を警戒しつつ進むには仕方がない。
「セイシロウ、痛みはどうだ。少しは楽になってきたのか」
歩みを止めずにハイネがそう問うと、セイシロウは苦い表情を浮かべながら答える。
「毒そのものは解毒薬のおかげで峠を越したと思いますが、脇腹の傷が疼くのです。激しく動くのは避けたいところですね」
「無理するな。何かあればすぐ言え」
「殿下もお気をつけて。私は並走こそ可能ですが、即応で大立ち回りはできそうにありません」
「……できれば、戦闘なく森を抜けたいところだ」
ハイネは苛立ちと不安を抱えながら、鬱蒼とした木々を見上げる。
昨日の奇襲や賊との小競り合いを考えると、油断はできない。
ただ、今は急ぎつつも騒ぎ立てず、足早にこの森を抜けるしかない。
ときどき道なき道を抜けると、視界が開ける場所に出る。
倒れたまま放置されている木柵や、廃墟のような小屋が見えた。
おそらく昔は何らかの集落があったのだろうが、今は荒れ果てている。
ハイネは一瞬そこで休むことも考えたが、迷った末に首を振る。
「……やはり、立ち止まるのは危険だな。追手がいない保証もない」
「殿下の判断が正しいかと。傷は気になりますが、ここで戦闘になれば、かえって逃げ場がありません」
セイシロウは短くそう告げると、近くに落ちていた木の枝で地面を軽く掃う。
足跡を消すまではできずとも、痕跡を最小限にするためだ。
ハイネは横目でそれを見ながら、自分も枯れ葉をさっと蹴り散らす。
派手な攪乱工作をする余裕はないが、少しでも追手の捜索を遅らせたいという思いだった。
◆
どれほど歩いただろうか。
森の葉から漏れる光の角度が変わり、日差しがやや強くなった気がする。
「森を抜けるまで、そう遠くはないはずだ」
ハイネがつぶやく。
だが、まだ気は抜けない。
セイシロウが靴の泥を軽く払いながら息をついた。
「このまま山道へ出られれば……いや、山道も油断できませんね。追手も同じルートを辿るやもしれません」
「だからこそ、なるべく素早く山道に入り、先を急ぐんだ。サルビナ帝国の方角まで遠回りになっても構わん。奴らの裏をかきつつ進むしかない」
ハイネはそう言うと、周囲を警戒しながら足を速めた。
やがて、森の奥から木々がまばらになる場所に出た。
ここでようやく道らしきものが見える。
踏み固められた土が細い筋を作り、先へと続いている。
「……そろそろ森の端が見えてきたか。助かったな」
ハイネが安堵交じりに漏らす。
しかし、その時セイシロウが小さく顔を顰める。
「殿下、先ほどから妙に鳥が飛び立つ気配が多い。……もしかすると、敵がうろついているかもしれません」
「……警戒して進もう。もし見つかれば戦うしかないが、できる限り避けたい」
二人は声を落とし、足音も控えめにしつつ、道の左右に注意を払う。
どこから襲撃されてもおかしくない。
森を抜けるか否かの境目ほどで、いきなり茂みががさりと揺れた。
ハイネは反射的に短刀の柄に手をかける。
セイシロウは無言で剣を半ば抜きかけた。
しかし、出てきたのは鹿のような野生の獣であり、こちらをちらりと見てすぐに逃げ去っていった。
ハイネは思わずため息を吐く。
「……脅かすな」
セイシロウも肩をすくめ、小声で答える。
「気が立っているようですね、鹿も我々も」
そんな軽い会話をしながら、二人は木立を抜けた。
ここからは風が通り抜け、森の湿気が緩和されている。
「見ろ、あっちだ。山の稜線が見える」
ハイネが森の向こうを指し示す。
遠方には大きな山の斜面が連なり、雲が一部を覆っている。
あそこを越えればサルビナ帝国方面へと通じるはずだ。
◆
森を抜けた場所は斜面が緩やかで、枯れ草や小石が散在していた。
ここから本格的に山道を登っていく形になるが、セイシロウの体調が万全ではない。
「一気に駆け上がれるか? どうも無茶が過ぎる気がするが」
ハイネが渋い顔で言うと、セイシロウは苦笑を浮かべる。
「走り回るのは厳しいですね……。ただ、立ち止まるよりは進みたい。緩いペースでも、少しずつ距離を稼ぎましょう」
「そうだな。止まって追いつかれたら、元も子もない」
二人は歩幅を合わせながら、山道へ向かう。
その道中、ハイネがぽつりと呟いた。
「……悪かったな。お前の傷が癒えていないというのに、結局急かしてばかりで」
「いえ、もとより私は殿下の護衛騎士。傷を負おうと、この命は殿下のためにあります。気遣いはありがたいですが、どうかお気に病まれませぬよう」
セイシロウの言葉は静かだが、その声色に少しだけ熱がこもっているのをハイネは感じ取った。
「……そうか」
そこで会話は一旦途切れた。
しかし、ほんの短い沈黙のあと、ハイネが再び口を開く。
「あの……口移しのことなんだが」
ハイネは言いかけて言葉を選ぶ。
改めて話題にするのは躊躇われるが、どうしても触れずにはいられない。
「お前を助けるためだと言い聞かせてはいたものの、少し動揺した。……まだ混乱している部分がある」
「私も驚きました。ですが、あの場では殿下の行為がなければ私は今ここにいない」
セイシロウの声は澄んでいる。
ハイネは歩みながら、森の出口を振り返る。
「……もし、余たちがここを抜けて無事にサルビナ帝国へ辿り着けたら、その先でもお前は余に“愛”を求めるのか?」
「はい。その意思に変わりはありません」
明確な答えだった。
それを聞いてハイネは息を飲む。
だが、不思議と拒絶の感情はわかなかった。
「……少し考えさせろ。今は何が何だか分からん」
「承知しました。殿下のお気持ちが整うまで、お待ちするだけです」
セイシロウがそう応じる声は淡々としているが、その瞳は少し揺れている気がした。
◆
道は徐々に勾配を増し、石ころだらけの小道へと変わる。
足場が悪く、ハイネは何度かバランスを崩しかける。
そのたびにセイシロウがさりげなく支えてくれた。
「いっそ、何か木の枝でも杖にしたいが……」
ハイネがそう言って辺りを見回すが、ここには適当な枝は落ちていない。
「転ばぬよう気をつけましょう。大怪我を負えば、サルビナ帝国どころではありません」
「当然だ。……ただ、昨日のように敵が出たらどうにもならんぞ。お前がまだ本調子じゃないとなればなおさらだ」
「私もできれば戦いなど避けたいです。ここまでは不意の襲撃ばかり……もう懲り懲りですね」
セイシロウの嘆きに、ハイネも苦笑する。
王族として厳粛な宮廷で育ったはずが、まるで山中の逃亡者でしかない今の自分。
しかし、こうして歩むしかない。
「山を越えれば……姉上のいるサルビナ帝国だ。そこまで持ちこたえられれば、道が開けるはずだ」
ハイネは強くそう信じようとする。
薄曇りの空から時折光が差し込むものの、山間の風は冷たい。
昼を迎える頃には陽射しがやや増し、気温も少しだけ和らぐが、それでも肌寒い。
足を滑らせる危険性もあるため、二人は自然と会話が少なくなり、黙々と歩を進めた。
やがて、ある程度登ったところで一息つける小さな岩場を見つける。
「ここで少し休もう」
ハイネがそう言うと、セイシロウは表情を緩める。
「ああ……助かります。少し体を休めたい」
二人は岩場の陰に腰を下ろし、隠れるようにして乾パンや干し肉を口にする。
わずかな水を分け合いながら、体を温める。
「傷の具合は……どうだ?」
ハイネが問いかけると、セイシロウは脇腹をゆっくり押さえた。
「痛みは続いていますが、毒が回っている感じはもうありません。これは切創と疲労の問題ですね。少し休めば大丈夫でしょう」
「ならば、しばらくここで息を整えるか……。あまり長居はできないが」
「殿下のご指示に従います」
セイシロウは目を閉じて、浅い呼吸を繰り返す。
ハイネはそんな彼の横顔に視線を落とす。
冷たく引き締まった頬や唇。
あのとき口移しをした際の熱がよみがえる。
顔が自然と熱くなるのを感じ、ハイネは少しだけ視線を外した。
◆
十数分ほど休むと、セイシロウの表情は幾分かやわらいだ。
傷が快癒したわけではないが、先ほどより呼吸が安定している。
ハイネはもう一度周囲を見回し、特に人影がないことを確認する。
「そろそろ出よう。追手に見つからない保証はどこにもない」
「承知しました。……ただ、念のため簡単な攪乱をしておきましょうか。石を少し転がして、足跡を散らしておくぐらいでも意味はあるはず」
セイシロウがそう言って、近くの石を数個ずらしたり、土を粗く掻く。
長時間を費やす余裕はないので、あくまで最低限の撹乱だ。
ハイネも泥のついた靴を軽く拭い、なるべく目立たないように意識する。
「よし、出発だ。次の休憩まで持ちこたえろよ」
「殿下こそ、ご自分のお身体を労ってください。足元を掬われては困ります」
「分かっている」
二人は再び山道へと歩を進める。
◆
日差しが山肌に反射し、時折視界が明るくなる。
遠くの稜線は重なるように連なり、その先にサルビナ帝国への街道が延びている……はずだ。
ハイネはそちらを見つめて小さく息をつく。
「姉上は、余を迎え入れてくれるだろうか」
ぽつりとこぼれた言葉に、セイシロウは少し首を傾げる。
「血の繋がったご姉君なら、きっと殿下の力になろうとなさるのでは」
「……それを願いたい。だが国の事情は複雑だし、政略結婚で嫁いだ身ともなれば、そう簡単には動けぬかもしれない」
「可能性はあります。ですが、私もそう簡単には引き下がりません。殿下にとって最良の道を探りたい」
セイシロウの言葉は力強い。
ハイネはその声にほんの少し励まされる。
「まずは生き延びることだ……。それさえ果たせれば、あとはいくらでもやりようがある」
思いが言葉として口からこぼれる。
セイシロウも静かにうなずいた。
◆
その後、山道を数時間進んだが、幸いにも大規模な追っ手の姿は見えなかった。
森の中で多少の攪乱をしたのが奏功したのかもしれない。
ただし、油断は禁物だ。
いつ追いつかれるとも限らない。
二人は山道の脇に目を配り、落石を利用できそうな場所では小規模な罠を仕掛ける。
とはいえ、石を積んでおくだけの簡易なものだ。
「大掛かりなものを作る余裕はないが、何もしないよりはマシだろう」
ハイネが呟く。
セイシロウは苦しい呼吸を整えながら、それに同意する。
「奴らが大勢で来た場合は効果は薄いかもしれません。けれど、少しでも足止めになれば私たちが先に進む時間を稼げます」
「そうだな……」
山道の風が冷たく吹き付ける。
暮れかかる空が山の稜線を染め始める。
日が沈むまでには安全な休息場所を探す必要がある。
岩場や崖が多く、焚き火を焚けるような地形を見つけるのは簡単ではない。
それでも何箇所か回り、ようやく少し奥まった岩棚を発見する。
「ここなら風よけになる。……夜は寒いし、火を起こさないときついな」
ハイネがホッと息をついて岩肌に手を当てる。
セイシロウは体を少しふらつかせながら、それでも周囲を見回して警戒している。
「夜間の追手が一番厄介ですが……今の私たちは早朝から行軍続き。どこかで区切りをつけねば体がもたない」
「そうだ。とりあえず、この岩棚の奥で焚き火をする。眠るのは交互だ。お前には悪いが、例によって余が先に見張る」
「かしこまりました。……ありがとうございます」
セイシロウはそう言うと、苦痛を押し殺して火打ち石を取り出す。
だがハイネがそれを制し、拾ってきた枯れ枝を使って自分で火を起こそうとする。
手順がぎこちないが、以前よりは多少慣れた。
「時間がかかってもいい。お前は座っていろ。さっきから痛そうだぞ」
「恐縮です。……すみません」
セイシロウは腰を下ろし、脇腹に手を当てる。
ハイネは火打ち石を何度か打ち、ようやく火をつけた。
オレンジ色の焔が暗くなり始めた岩棚を照らす。
ハイネは火に手をかざして体を温めつつ、セイシロウの横顔を見る。
毒の峠は越えたが、傷自体が深めであることに変わりはない。
今は一刻も早く休息を取り、回復を図るしかない。
ハイネは小さく息を吐き、口を開く。
「お前がいなければ、余はこの森や山道でとっくに捕まっていただろう。……にもかかわらず、まともに礼も言えていない気がする」
「殿下、私こそ。敵が多い場面でもっと上手く立ち回れれば、こんな負傷を負うこともありませんでした」
「そう言うな。誰にだって限度はある」
ハイネは言いながら、火を見つめる。
視線の先でパチパチと弾ける小枝が、まるでささやくように燃えている。
そしてふと、あの口移しの記憶がよぎる。
──毒から救うためとはいえ、唇を重ねてしまった
◆
夜風が次第に冷たさを増し、山の静寂が辺りを包む。
ハイネは火を崩さぬよう小枝を追加で入れながら、セイシロウに声をかける。
「そろそろ眠れ。二刻ほどたったら起こす」
「わかりました……今夜もお世話になります」
セイシロウは岩に背を預け、目を閉じる。
脇腹に手を当てたまま、痛みを押し殺すように浅く呼吸を繰り返す。
「……ありがとう、殿下」
かすかな声音に、ハイネは言葉を返さず、ただ火を見つめていた。
炎の揺らめきがセイシロウの寝顔を浮かび上がらせる。
ハイネは剣の柄に手をかけながら、耳を澄ませて周囲を警戒する。
静寂の中で聞こえるのは風の音と、ときおり岩肌から落ちる小石の転がるかすかな響きだけ。
遠くの獣の声すら聞こえない。
──今はそれが幸いだが、この闇の中、いつ追手が現れるとも限らない
ハイネは肩の力を抜かずに見張り続ける。
昨日よりは慣れているが、王宮での生活とは比べものにならない緊張感だ。
──とにかく、生き延びるしかない
その先に、国を取り戻す道があるのか、ただの亡国の王子として消えるか。
ハイネは唇を噛む。
そして火の奥に眠る熱を思い出す。
「愛」など、まだ理解できない。
だが、たった一人の騎士がこうして自分のために血を流し、死にかけ、命を繋いでいる。
少なくとも、それを無下にするような王にはなりたくない。
それが今のハイネの正直な想いだった。
◆
そうして夜が深まっていく。
山道の風が岩棚の陰を吹き抜け、焚き火の火の粉がさっと舞い上がる。
ハイネは目を凝らしながら、セイシロウの寝顔をちらりと確認する。
「少しは楽になっていればいいんだが……」
その呟きを最後に、ハイネは静かな見張りへ没頭する。
──必ずサルビナ帝国へ辿り着き、次の手を打つ
ハイネは強くそう思った。
それが父と母を失った王子としてのせめてもの意地であり、護ってくれる騎士への応えでもあるのだから。