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第8話 残り火

 ◆


 あたりが白んでくる頃、ハイネは薄い眠りからゆっくりと意識を浮上させた。


 身体の節々に疲労感はあるが、昨日よりはまだマシだと感じる。


 目を開くと、周囲には樹間を漏れる朝の光が差し込んでいた。


 ぬかるんだ地面は夜の冷気で少し固まっており、移動には好都合かもしれない。


 一方で、隣にいるセイシロウは脇腹の負傷や毒の後遺症と闘っていた。


 額にはうっすら汗が滲んでいる。


「少しは眠れたか」


 ハイネがそう声をかけると、セイシロウは目を開き、浅く息を整える。


「ええ……殿下にはご心配をおかけします」


「良い。どのみち急いでいる最中だが、倒れられるほうが困るからな」


 少々きつい口調になってしまったが、セイシロウは否定せずに微かに笑う。


 昨日の戦闘で毒を受けたせいか、彼の顔にはまだ青白さが残る。


 この状態であちこち動き回るのは危険だが、立ち止まっていれば追手に追いつかれる。


 ハイネはその板挟みに苛立ちを覚えながら、次の行動を模索する。


 ◆


 森の中は陰湿な空気が漂う。


 枝葉が生い茂り、時折どこかの小動物が走り去る音が聞こえた。


 昨日までの荒野とは違い、視界が一気に悪くなっている。


 追手が潜んでいる可能性も高い。


「とにかく、ここでうずくまっていても仕方ない。出発するぞ」


 ハイネがそう宣言すると、セイシロウは微かにうなずいた。


「承知しました」


 ハイネ達は足元をすくわれぬよう細心の注意を払いながら、わずかに残る朝の冷気を感じつつ森を進んでいった。


 森の深部へ足を踏み入れるにつれ、しっとりとした湿気が肌にまとわりつく。


 木々が高くなり、太陽光が届きにくくなってきた。


 落ち葉や土が絡まる靴の感触が不快だが、追手を警戒しつつ進むには仕方がない。


「セイシロウ、痛みはどうだ。少しは楽になってきたのか」


 歩みを止めずにハイネがそう問うと、セイシロウは苦い表情を浮かべながら答える。


「毒そのものは解毒薬のおかげで峠を越したと思いますが、脇腹の傷が疼くのです。激しく動くのは避けたいところですね」


「無理するな。何かあればすぐ言え」


「殿下もお気をつけて。私は並走こそ可能ですが、即応で大立ち回りはできそうにありません」


「……できれば、戦闘なく森を抜けたいところだ」


 ハイネは苛立ちと不安を抱えながら、鬱蒼とした木々を見上げる。


 昨日の奇襲や賊との小競り合いを考えると、油断はできない。


 ただ、今は急ぎつつも騒ぎ立てず、足早にこの森を抜けるしかない。


 ときどき道なき道を抜けると、視界が開ける場所に出る。


 倒れたまま放置されている木柵や、廃墟のような小屋が見えた。


 おそらく昔は何らかの集落があったのだろうが、今は荒れ果てている。


 ハイネは一瞬そこで休むことも考えたが、迷った末に首を振る。


「……やはり、立ち止まるのは危険だな。追手がいない保証もない」


「殿下の判断が正しいかと。傷は気になりますが、ここで戦闘になれば、かえって逃げ場がありません」


 セイシロウは短くそう告げると、近くに落ちていた木の枝で地面を軽く掃う。


 足跡を消すまではできずとも、痕跡を最小限にするためだ。


 ハイネは横目でそれを見ながら、自分も枯れ葉をさっと蹴り散らす。


 派手な攪乱工作をする余裕はないが、少しでも追手の捜索を遅らせたいという思いだった。


 ◆


 どれほど歩いただろうか。


 森の葉から漏れる光の角度が変わり、日差しがやや強くなった気がする。


「森を抜けるまで、そう遠くはないはずだ」


 ハイネがつぶやく。


 だが、まだ気は抜けない。


 セイシロウが靴の泥を軽く払いながら息をついた。


「このまま山道へ出られれば……いや、山道も油断できませんね。追手も同じルートを辿るやもしれません」


「だからこそ、なるべく素早く山道に入り、先を急ぐんだ。サルビナ帝国の方角まで遠回りになっても構わん。奴らの裏をかきつつ進むしかない」


 ハイネはそう言うと、周囲を警戒しながら足を速めた。


 やがて、森の奥から木々がまばらになる場所に出た。


 ここでようやく道らしきものが見える。


 踏み固められた土が細い筋を作り、先へと続いている。


「……そろそろ森の端が見えてきたか。助かったな」


 ハイネが安堵交じりに漏らす。


 しかし、その時セイシロウが小さく顔を顰める。


「殿下、先ほどから妙に鳥が飛び立つ気配が多い。……もしかすると、敵がうろついているかもしれません」


「……警戒して進もう。もし見つかれば戦うしかないが、できる限り避けたい」


 二人は声を落とし、足音も控えめにしつつ、道の左右に注意を払う。


 どこから襲撃されてもおかしくない。


 森を抜けるか否かの境目ほどで、いきなり茂みががさりと揺れた。


 ハイネは反射的に短刀の柄に手をかける。


 セイシロウは無言で剣を半ば抜きかけた。


 しかし、出てきたのは鹿のような野生の獣であり、こちらをちらりと見てすぐに逃げ去っていった。


 ハイネは思わずため息を吐く。


「……脅かすな」


 セイシロウも肩をすくめ、小声で答える。


「気が立っているようですね、鹿も我々も」


 そんな軽い会話をしながら、二人は木立を抜けた。


 ここからは風が通り抜け、森の湿気が緩和されている。


「見ろ、あっちだ。山の稜線が見える」


 ハイネが森の向こうを指し示す。


 遠方には大きな山の斜面が連なり、雲が一部を覆っている。


 あそこを越えればサルビナ帝国方面へと通じるはずだ。


 ◆


 森を抜けた場所は斜面が緩やかで、枯れ草や小石が散在していた。


 ここから本格的に山道を登っていく形になるが、セイシロウの体調が万全ではない。


「一気に駆け上がれるか? どうも無茶が過ぎる気がするが」


 ハイネが渋い顔で言うと、セイシロウは苦笑を浮かべる。


「走り回るのは厳しいですね……。ただ、立ち止まるよりは進みたい。緩いペースでも、少しずつ距離を稼ぎましょう」


「そうだな。止まって追いつかれたら、元も子もない」


 二人は歩幅を合わせながら、山道へ向かう。


 その道中、ハイネがぽつりと呟いた。


「……悪かったな。お前の傷が癒えていないというのに、結局急かしてばかりで」


「いえ、もとより私は殿下の護衛騎士。傷を負おうと、この命は殿下のためにあります。気遣いはありがたいですが、どうかお気に病まれませぬよう」


 セイシロウの言葉は静かだが、その声色に少しだけ熱がこもっているのをハイネは感じ取った。


「……そうか」


 そこで会話は一旦途切れた。


 しかし、ほんの短い沈黙のあと、ハイネが再び口を開く。


「あの……口移しのことなんだが」


 ハイネは言いかけて言葉を選ぶ。


 改めて話題にするのは躊躇われるが、どうしても触れずにはいられない。


「お前を助けるためだと言い聞かせてはいたものの、少し動揺した。……まだ混乱している部分がある」


「私も驚きました。ですが、あの場では殿下の行為がなければ私は今ここにいない」


 セイシロウの声は澄んでいる。


 ハイネは歩みながら、森の出口を振り返る。


「……もし、余たちがここを抜けて無事にサルビナ帝国へ辿り着けたら、その先でもお前は余に“愛”を求めるのか?」


「はい。その意思に変わりはありません」


 明確な答えだった。


 それを聞いてハイネは息を飲む。


 だが、不思議と拒絶の感情はわかなかった。


「……少し考えさせろ。今は何が何だか分からん」


「承知しました。殿下のお気持ちが整うまで、お待ちするだけです」


 セイシロウがそう応じる声は淡々としているが、その瞳は少し揺れている気がした。


 ◆


 道は徐々に勾配を増し、石ころだらけの小道へと変わる。


 足場が悪く、ハイネは何度かバランスを崩しかける。


 そのたびにセイシロウがさりげなく支えてくれた。


「いっそ、何か木の枝でも杖にしたいが……」


 ハイネがそう言って辺りを見回すが、ここには適当な枝は落ちていない。


「転ばぬよう気をつけましょう。大怪我を負えば、サルビナ帝国どころではありません」


「当然だ。……ただ、昨日のように敵が出たらどうにもならんぞ。お前がまだ本調子じゃないとなればなおさらだ」


「私もできれば戦いなど避けたいです。ここまでは不意の襲撃ばかり……もう懲り懲りですね」


 セイシロウの嘆きに、ハイネも苦笑する。


 王族として厳粛な宮廷で育ったはずが、まるで山中の逃亡者でしかない今の自分。


 しかし、こうして歩むしかない。


「山を越えれば……姉上のいるサルビナ帝国だ。そこまで持ちこたえられれば、道が開けるはずだ」


 ハイネは強くそう信じようとする。


 薄曇りの空から時折光が差し込むものの、山間の風は冷たい。


 昼を迎える頃には陽射しがやや増し、気温も少しだけ和らぐが、それでも肌寒い。


 足を滑らせる危険性もあるため、二人は自然と会話が少なくなり、黙々と歩を進めた。


 やがて、ある程度登ったところで一息つける小さな岩場を見つける。


「ここで少し休もう」


 ハイネがそう言うと、セイシロウは表情を緩める。


「ああ……助かります。少し体を休めたい」


 二人は岩場の陰に腰を下ろし、隠れるようにして乾パンや干し肉を口にする。


 わずかな水を分け合いながら、体を温める。


「傷の具合は……どうだ?」


 ハイネが問いかけると、セイシロウは脇腹をゆっくり押さえた。


「痛みは続いていますが、毒が回っている感じはもうありません。これは切創と疲労の問題ですね。少し休めば大丈夫でしょう」

「ならば、しばらくここで息を整えるか……。あまり長居はできないが」


「殿下のご指示に従います」


 セイシロウは目を閉じて、浅い呼吸を繰り返す。


 ハイネはそんな彼の横顔に視線を落とす。


 冷たく引き締まった頬や唇。


 あのとき口移しをした際の熱がよみがえる。


 顔が自然と熱くなるのを感じ、ハイネは少しだけ視線を外した。


 ◆


 十数分ほど休むと、セイシロウの表情は幾分かやわらいだ。


 傷が快癒したわけではないが、先ほどより呼吸が安定している。


 ハイネはもう一度周囲を見回し、特に人影がないことを確認する。


「そろそろ出よう。追手に見つからない保証はどこにもない」


「承知しました。……ただ、念のため簡単な攪乱をしておきましょうか。石を少し転がして、足跡を散らしておくぐらいでも意味はあるはず」


 セイシロウがそう言って、近くの石を数個ずらしたり、土を粗く掻く。


 長時間を費やす余裕はないので、あくまで最低限の撹乱だ。


 ハイネも泥のついた靴を軽く拭い、なるべく目立たないように意識する。


「よし、出発だ。次の休憩まで持ちこたえろよ」


「殿下こそ、ご自分のお身体を労ってください。足元を掬われては困ります」


「分かっている」


 二人は再び山道へと歩を進める。


 ◆


 日差しが山肌に反射し、時折視界が明るくなる。


 遠くの稜線は重なるように連なり、その先にサルビナ帝国への街道が延びている……はずだ。


 ハイネはそちらを見つめて小さく息をつく。


「姉上は、余を迎え入れてくれるだろうか」


 ぽつりとこぼれた言葉に、セイシロウは少し首を傾げる。


「血の繋がったご姉君なら、きっと殿下の力になろうとなさるのでは」


「……それを願いたい。だが国の事情は複雑だし、政略結婚で嫁いだ身ともなれば、そう簡単には動けぬかもしれない」


「可能性はあります。ですが、私もそう簡単には引き下がりません。殿下にとって最良の道を探りたい」


 セイシロウの言葉は力強い。


 ハイネはその声にほんの少し励まされる。


「まずは生き延びることだ……。それさえ果たせれば、あとはいくらでもやりようがある」


 思いが言葉として口からこぼれる。


 セイシロウも静かにうなずいた。


 ◆


 その後、山道を数時間進んだが、幸いにも大規模な追っ手の姿は見えなかった。


 森の中で多少の攪乱をしたのが奏功したのかもしれない。


 ただし、油断は禁物だ。


 いつ追いつかれるとも限らない。


 二人は山道の脇に目を配り、落石を利用できそうな場所では小規模な罠を仕掛ける。


 とはいえ、石を積んでおくだけの簡易なものだ。


「大掛かりなものを作る余裕はないが、何もしないよりはマシだろう」


 ハイネが呟く。


 セイシロウは苦しい呼吸を整えながら、それに同意する。


「奴らが大勢で来た場合は効果は薄いかもしれません。けれど、少しでも足止めになれば私たちが先に進む時間を稼げます」


「そうだな……」


 山道の風が冷たく吹き付ける。


 暮れかかる空が山の稜線を染め始める。


 日が沈むまでには安全な休息場所を探す必要がある。


 岩場や崖が多く、焚き火を焚けるような地形を見つけるのは簡単ではない。


 それでも何箇所か回り、ようやく少し奥まった岩棚を発見する。


「ここなら風よけになる。……夜は寒いし、火を起こさないときついな」


 ハイネがホッと息をついて岩肌に手を当てる。


 セイシロウは体を少しふらつかせながら、それでも周囲を見回して警戒している。


「夜間の追手が一番厄介ですが……今の私たちは早朝から行軍続き。どこかで区切りをつけねば体がもたない」


「そうだ。とりあえず、この岩棚の奥で焚き火をする。眠るのは交互だ。お前には悪いが、例によって余が先に見張る」


「かしこまりました。……ありがとうございます」


 セイシロウはそう言うと、苦痛を押し殺して火打ち石を取り出す。


 だがハイネがそれを制し、拾ってきた枯れ枝を使って自分で火を起こそうとする。


 手順がぎこちないが、以前よりは多少慣れた。


「時間がかかってもいい。お前は座っていろ。さっきから痛そうだぞ」


「恐縮です。……すみません」


 セイシロウは腰を下ろし、脇腹に手を当てる。


 ハイネは火打ち石を何度か打ち、ようやく火をつけた。


 オレンジ色の焔が暗くなり始めた岩棚を照らす。


 ハイネは火に手をかざして体を温めつつ、セイシロウの横顔を見る。


 毒の峠は越えたが、傷自体が深めであることに変わりはない。


 今は一刻も早く休息を取り、回復を図るしかない。


 ハイネは小さく息を吐き、口を開く。


「お前がいなければ、余はこの森や山道でとっくに捕まっていただろう。……にもかかわらず、まともに礼も言えていない気がする」


「殿下、私こそ。敵が多い場面でもっと上手く立ち回れれば、こんな負傷を負うこともありませんでした」


「そう言うな。誰にだって限度はある」


 ハイネは言いながら、火を見つめる。


 視線の先でパチパチと弾ける小枝が、まるでささやくように燃えている。


 そしてふと、あの口移しの記憶がよぎる。


 ──毒から救うためとはいえ、唇を重ねてしまった


 ◆


 夜風が次第に冷たさを増し、山の静寂が辺りを包む。


 ハイネは火を崩さぬよう小枝を追加で入れながら、セイシロウに声をかける。


「そろそろ眠れ。二刻ほどたったら起こす」


「わかりました……今夜もお世話になります」


 セイシロウは岩に背を預け、目を閉じる。


 脇腹に手を当てたまま、痛みを押し殺すように浅く呼吸を繰り返す。


「……ありがとう、殿下」


 かすかな声音に、ハイネは言葉を返さず、ただ火を見つめていた。


 炎の揺らめきがセイシロウの寝顔を浮かび上がらせる。


 ハイネは剣の柄に手をかけながら、耳を澄ませて周囲を警戒する。


 静寂の中で聞こえるのは風の音と、ときおり岩肌から落ちる小石の転がるかすかな響きだけ。


 遠くの獣の声すら聞こえない。


 ──今はそれが幸いだが、この闇の中、いつ追手が現れるとも限らない


 ハイネは肩の力を抜かずに見張り続ける。


 昨日よりは慣れているが、王宮での生活とは比べものにならない緊張感だ。


 ──とにかく、生き延びるしかない


 その先に、国を取り戻す道があるのか、ただの亡国の王子として消えるか。


 ハイネは唇を噛む。


 そして火の奥に眠る熱を思い出す。


「愛」など、まだ理解できない。


 だが、たった一人の騎士がこうして自分のために血を流し、死にかけ、命を繋いでいる。


 少なくとも、それを無下にするような王にはなりたくない。


 それが今のハイネの正直な想いだった。


 ◆


 そうして夜が深まっていく。


 山道の風が岩棚の陰を吹き抜け、焚き火の火の粉がさっと舞い上がる。


 ハイネは目を凝らしながら、セイシロウの寝顔をちらりと確認する。


「少しは楽になっていればいいんだが……」


 その呟きを最後に、ハイネは静かな見張りへ没頭する。


 ──必ずサルビナ帝国へ辿り着き、次の手を打つ


 ハイネは強くそう思った。


 それが父と母を失った王子としてのせめてもの意地であり、護ってくれる騎士への応えでもあるのだから。  

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