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ふと、かすかな足音が聞こえた気がした。
ハイネははっとして身を起こす。セイシロウが戻ってきたのだろうか?
しかし、耳を澄ますと、どうやら数人の足音が複数。
「まずい……!」
慌てて短刀を抜き、岩陰に身を隠そうとする。
セイシロウはいない。ひとりでどう対処する?
「おい、あそこに人影が……!」
男の声が聞こえた。質感が先ほどの賊と似ているような粗野な響き。
だが、同じ集団だろうか?
「ちっ……なんだ、ひとりか」
岩の向こうから二人組が姿を現す。
彼らの腰には剣らしきものがあるが、王国騎士の制式装備ではなさそうだ。
賊か、あるいは傭兵の類か──。
「ゆっくり手を挙げろ。刃物は捨てるんだ」
ハイネは短刀を握る手が震えた。
セイシロウがいれば難なく退けられるかもしれないが、今の自分では……。
「余はキルシュカ王国の第三王子、ハイネ・トゥリエ・キルシュカである。迂闊に動けば報いを受けるぞ!」
つい虚勢を張るが、相手は鼻で笑うだけだ。
「王子様? そりゃあ面白ぇな。なら、貴族どもを嫌う俺たちにとっちゃ、うってつけの人質かもしれないぞ」
ハイネは喉の奥が乾き、冷や汗が背筋を伝うのを感じる。
「おい、そいつ捕まえろ。傷つけるなよ。たっぷり金になりそうだ」
男の合図で、もう一人がゆっくりと間合いを詰めてくる。
ハイネは懸命に短刀を構えるが、虚勢であることは本人が一番よくわかっている。
「くっ……」
あっという間に腕を捻り上げられ、短刀が地面に落ちた。
痛みで声を上げそうになるが、必死に歯を食いしばって耐える。
「やめろ、放せ……!」
「うるせぇな、王子様? へへ、顔つきは確かにどこか高貴な感じがするなあ。それにどうにもぺっぴんさんじゃねえか。まるで女みてえな顔つきをしてやがる」
捕まえた男は嫌らしく笑いながらハイネの腕をねじり上げたまま、反対の手でハイネの胸元をまさぐった。
「や、やめろ!」
おぞましさに総毛だつハイネ。
「胸はねえか、でも関係ねえ! おい! ちょっと味見していいか?」
男が仲間たちに向けて叫んだ。
「悪趣味だねえお前さんも」
「好きにしろ。でも傷つけるなよ」
男たちは口々にそんなことを言う。
ただ一人、渋い顔をして眺めていた男だけがその会話に参加していなかった。
──こやつら、何を言っている……?
ハイネの呼吸が急速に荒くなっていった。
男たちの言っていることは分かる。
しかし理解したくなかった。
この身が男でも女でも関係ない、ただ凌辱できればそれでよい──そんな連中の、なんたるおぞましい事か。
──セイシロウ、どこだ。余を助けてくれ、セイシロウ……
ハイネは胸中で叫ぶ。
その叫びをセイシロウが聞いたかどうかは定かではないが──
、風を切るような音が響いた。
「何──」
突如として男の腕から力が抜け、ハイネを掴む手が離れた。
驚いて振り返ると、男の左目に短剣が突き刺さっている。
「があっ……!? 誰だっ……」
男は呻きながら崩れ落ちる。
刀を握ったセイシロウの姿がそこにあった。
「殿下、大丈夫ですか」
低い声が耳に届く。
ハイネは痛みと安堵で息を荒げながら、セイシロウの方向にうなずいた。
「こいつら、仲間がいる。気をつけろ……!」
そう言った瞬間、渋い顔の男がセイシロウに斬りかかってきた。
セイシロウは剣撃を受け止める。
激しい金属音が鳴り、火花が散った。
「ちっ……!」
男の剣術は山賊にしては洗練されている。
やはり元傭兵か騎士崩れかもしれない。
「やるな!」
セイシロウは無表情のまま自然体に構えた。
いや、それが構えと言えるのかどうか。
剣を持つ手はだらりとさげられたまま。
いかにも脱力しているといった風情だ。
が、そんな隙だらけにも見えるセイシロウに、男は後退を余儀なくされた。
──こいつ
男の額に汗がじとりと汗が浮かんだ。
“見えた”のだ。
どのように剣を打ち込んでも、返しの一撃で自分は死ぬと。
「逃げるなら追わぬ──少なくとも、お前だけは」
そんなセイシロウの言葉を聞いたとき、男はぺろりと唇の端を舐め、雇い主が命懸けで守るに値する者たちかどうかを考える。
答えはすぐに出た。
「……分かった俺は去る。追わないでくれ」
「追わぬ」
やりとりのあと、男は駆け足に去っていった。
「お、おい!!! 先生!!!」
「逃げるのか!」
先生と呼ばれた男を罵る賊ら。
そんな賊らにセイシロウは無造作に近づいていき、同じく無造作に一人を切り捨てた。
余りにも無造作すぎて男たちの反応が遅れ、逃げそこなったのだ。
──や、やべえ!
思うや否や、駈け出そうとする賊の一人。
しかしその足が動く前にセイシロウが──
「阿ッ!!!!!」
と何やら奇妙な叫びを発した。
機先を制し、気を制する例の猿叫である。
賊どもはビシリと地に根が張ったように足を動かせなくなる。
もはや、賊らは鎌で刈られる前の雑草、雑花も同然となった。
となれば命運は決まっている──咲かせるのだ、花を。
汚く生きてきた彼らが最期に咲かせる花の色は、美しい紅色であった。
◆
続けざまの戦いだ。
最初の追手4人、山賊とのいざこざ、そして今の傭兵風の男、ついでに賊。
セイシロウは人を斬ることに一切の躊躇を見せない。
その姿は凄絶で、恐ろしい。
ハイネはセイシロウの顔をまじまじと見つめる。
返り血はほとんど浴びていないようだが、剣にはまだ血の痕が微かに残る。
その全身から立ち上る殺気はハイネを恐れさせもするがしかし、どこか惹かれる部分もあった。
女の様な顔をしているからといって、気質までそうであるわけではない。
男ならば“このような強い男になりたい”という願望はあるものだ。
ハイネもまたそうであった。
「殿下、何もおっしゃいますな。彼奴輩は殿下を辱めもうした。それは、決して許せませぬ」
セイシロウは低い声で言った。
ハイネは反射的に首を振る。
「責めようなどとは思わぬ。助けてくれて感謝する」
ハイネの礼にセイシロウは一瞬きょとんとした顔を浮かべ──
「ありがたき幸せ」
と笑みを浮かべた。
その笑みを目にしたハイネは、自身でも名状しがたい何かを胸に感じるのだった。
◆
セイシロウは賊の懐をあさり、いくらかの金銭と水袋、保存食を回収した。
余計な時間を取られたが、ともかく水が手に入ったのは僥倖だ。
「少し濁っていたので、できれば沸かしてから飲んだほうがいいかもしれませんが……当面の渇きはしのげます」
「助かる。まったく、貴様がいなければとっくに死んでいただろうな」
ハイネは自嘲気味に微笑んだが、セイシロウの表情は変わらない。
“殿下の愛”を求めると口にするわりには、こういう時に愛想よく笑ってもよさそうなのに、彼は不思議なほど無表情だ。
「日が高くなる前に、あちらの山麓まで移動できれば、少しは追手を振り切れるかもしれません。もしグロウルの兵が本格的に荒野に展開するとなれば、午後から夕刻にかけてこちらを捜索するでしょう」
「わかった。先を急ごう」
二人は少し急ぎ足で歩き始める。
そうして歩き続けること数時間、丘をいくつか越えた先にまばらな森が見えてきた。
遠目に見るとそこが荒野の終端であり、森を超えた先で山岳地帯へと繋がるのだろう。
「やれやれ、ようやく荒野を抜けるのか……」
ハイネは疲れをこぼしながら、ほっとした様子を見せる。
セイシロウも少しだけ視線を柔らかくして、「ここまで大きな追撃はなかったですね」と呟く。
「まあ山賊やら何やらはあったが、グロウルの本隊はまだ我々の位置を把握していないのかもしれん」
とはいえ、油断はできない。
夜が再び来れば、今度は森を越えて山道を進まねばならない。
その先にサルビナ帝国への大きな街道があるというが、そこまでの道のりはまだ長い。
「殿下、今日は森の入り口付近に進んでから野営をしましょう」
「うむ」
そして二人は夕暮れの空を背に、荒野を抜ける直前の地点を目指して歩を進める。
「明日は森を抜けて山岳地帯か……道中で追手の奇襲もありうる。サルビナ帝国までは何日かかることやら」
ハイネは疲弊した声で呟くが、セイシロウの表情は揺るがない。
「大丈夫です。必ず辿り着けますよ、殿下」
「そう言いきれる根拠は何だ?」
「私が殿下を守るから──それだけです」
ごく当たり前のように言い放つセイシロウに、ハイネは一瞬言葉を失う。
「……ふん、ならば期待しよう」
ハイネはそう言うと、わずかに口元に笑みを浮かべる。
沈みゆく夕陽が二人の背後を赤く染め、荒野に別れを告げるように長い影を落としていた。