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ハイネは不意に薄明るくなり始めた空気の中で目を開けた。
身体が少し冷えていて、上着の端を引き寄せる。眠りは浅かったのか、さほど熟睡できたわけではない。
「……セイシロウ?」
眼をこすりながら、焚き火の方を見ると、セイシロウはまだ座ったままの姿勢で見張りを続けていたらしい。
小さな火はすでに弱まり、残り火がかすかに赤く光っている。
「おはようございます、殿下。もう少し眠れたのでは?」
「すまん、余はいつの間にか朝まで眠ってしまったか」
ハイネは多少気まずそうに言う。
セイシロウじゃくすりとも笑わず、無表情のまま首を横に振った。
「お疲れのようでしたので。夜分、大きな動きはありませんでした」
その言葉にハイネは罪悪感を覚えた。
──セイシロウは眠れていないではないか。この男こそ疲れているだろうに
「私は三日三晩睡眠を取らずへいちゃらです。それに、まったく休んでいないわけではないのです。半分眠り、半分目覚める──そういった事ができますゆえに」
「鍛錬したのか」
「左様」
セイシロウが残りの枝を火にくべ、再び小さな焚き火を作り出す。
ハイネは干し肉や乾パンを少しずつ口に運び、昨夜よりは慣れた様子で噛み締めている。
──鍛錬しているとはいってもな……限度があるだろうに
ハイネもセイシロウ以外の騎士について何も知らないわけではない。
その上で、果たしてこれほど強靭な男がいたかどうか。
「……殿下。食後は早速出立しましょう。一所に留まるのは得策とは言えませぬ」
「うむ。わかった」
少しの食事を終え、二人は再び歩き出す。
夜が明けると荒野は急に風が弱まり、空には灰色の雲が漂うだけだった。
雨の気配はないが、寒さは相変わらずだった。
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朝陽がうっすらと地平線を照らし出すころ、丘の上から先の地形を見渡すと、遠方に山肌のようなものが見える。
セイシロウの話によれば、その向こうを越えればサルビナ帝国方面への道が開けるらしい。
ハイネはセイシロウの隣を歩く。
少なくとも粘土質の泥濘は脱したからだろう、昨日より疲れていない
「もし、サルビナ帝国へ辿り着ければ姉上に会えるのだな……」
ハイネが半ば自問のように呟く。
イシュリアナ──幼少期に数回だけ会ったが、優しい姉だった。
彼女が政略結婚で嫁ぎ、しばらくしてから一度も会っていない。
「姉上はどう思うだろうか……。余に味方してくれるのか?」
その問いは、ほとんど独り言だった。
セイシロウは答えず、ただ前を向いて歩く。
沈黙が続いたあと、ハイネは軽く息を吐く。
「まあ、考えても仕方あるまい。行ってみねば分からぬ」
時折、セイシロウはハイネの表情を横目に伺っているかのようだったが、声をかけることはない。
彼は“騎士”として、主君の思考を乱さぬように配慮しているのかもしれない。
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さらに歩を進めるとやや背の高い草や低木が増え始め、野ウサギらしき生き物が走り去る姿も見られた。
小さな水たまりには鳥が群れている。
ハイネの目がそれを追うが、ふと昨日の賊とのやりとりが頭をよぎる。
──この国には、飢えや貧困に苦しむ者が多いからこそ、ああいう輩が増えるのだ。そして今、グロウルによるクーデターが起こり、国が混乱しているならば、さらに治安が悪化しているはず。
「セイシロウ、もし余が──」
そこまで口にして、ハイネは言葉を切る。
“もし余が王に返り咲いて、国を安定させることができたら? ”
そんな言葉が喉元まで出かかったが、実現の見込みはないに等しい。
自分を慰めるだけの空虚な夢だと感じ、歯噛みするように唇を噛んだ。
すると、セイシロウが横から低い声で問いかける。
「もし殿下が王になられたなら、民をどうお導きになるのでしょうか」
「何だ、聞こえていたのか」
「いえ。ただ殿下が何かお考えの様子だったので、お尋ねしました。私は殿下がどう在りたいか、それを見極めたく思っています」
ハイネは少し目を伏せ、歩みを止める。
風がざわりと草を撫で、二人の間にしばしの沈黙が落ちる。
「わからぬ……。国を失う前の余なら、我が身の王族としての誇りを守り、威厳を保ち、民を率いる……そう思っていたかもしれぬ。 だが今、全てを失った今となっては、何をどうすれば良いのか、まるで見当がつかぬ」
「…………」
セイシロウは背後にある草のざわめきを一瞬確認しつつ、ハイネを見つめる。
「とにかく、余が一人前の王になるなど容易ではない。しかし、父上と母上の仇を討ちたい気持ちはある。グロウルを野放しにしておけば、この国はどんどん乱れていくのだろう」
苦い表情のまま、ハイネは言う。
その“仇を討ちたい”という言葉に、セイシロウはわずかに頷いた。
「でしたら、まずは生き延びることが肝要かと。仇討ちや国の再興はそれからでも遅くありません」
「うむ……。分かっている」
ハイネは胸の奥にぼんやりとした灯りを感じる。
それは復讐心の炎といってもいいかもしれないが、単なる恨みではない。
“この国を守りたい”、そんな思いが形になりかけているのだ。
「では、先へ進もう。……雨が降らなければ良いが」
遠くの雲を見上げ、ハイネはそう呟く。
セイシロウは黙って先導を始める。
◆
正午を過ぎると、荒野に微かな陽光が差し始め、日差しに照らされて気温が上がった。
泥濘が乾いて固くなった道は歩きやすく、二人の進行速度も上がる。
やがて、割と大きめの岩が点在する地帯に行き着いた。
ちょうど食事休憩に打ってつけの場所かもしれない。
「殿下、ここで少し休みましょう。地形を見るに近くに水場がありそうです」
「余も探すのを手伝おう」
「いえ、私が探しに行きます。この辺は足場は先ほどよりはマシですが、それでも不安定な場所はあります。それに足をとられ、くじきでもすれば事です。殿下はそこに座ってお待ちください。何かあればすぐ呼んでください。……もし、もう少し旅慣れ、殿下の足腰に粘りが見られればその時は手伝っていただくこともありましょう」
セイシロウの言葉は最もなものだった。
確かに慣れない地形で歩き回るのは危険だ。
「……わかった。だが、くれぐれも気をつけろ。追手が潜んでいるかもしれん」
「承知しております」
セイシロウは短く敬礼すると、足音を立てずに岩陰へ消えていった。
ハイネはやれやれと息をついて、岩に背を預ける。
重苦しい疲労が全身を支配していたが、心なしか朝より気持ちが軽い。
「奴は口がうまいな」
つぶやいて、目を閉じる。
──単に足手まといだと言われれば余も反発したかもしれぬ。それが事実であってもだ。しかし余は納得した。うむ、奴は口がうまい